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(小説)風の放送局(四)

(四)男の子のように(渡辺美里 一九八六年)
 一九八〇年×二〇一〇年の七月二十六日

 けれど少年の期待は裏切られ、翌日少年の待つ夜明けの海に、海雪は現れなかった。
 ひとり、風の放送局を聴きながら、少年は海雪が消えたプラタナスの並木の方ばかりをぼんやりと見詰めていた。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年七月二十六日。今にも雨が降り出しそうな、どんよりと曇った夏の夜明けです』
 何で、こんなに晴れてんのに。まったく、どうなってんだよ。みんな、嘘ばっか吐きやがって、風の放送局も、海雪さんも……。
 少年は怒りを込めて、COUGARを睨み付けた。
 ふう、それにあっちいし。って言ってもこればっかりは、夏だから仕方ないしなあ。
 風の放送局が、娘の容態について触れることは特になかった。ふと怒りも鎮まり、少年は不安に駆られた。
 もしかして、海雪さん。急に容態が悪くなったりして。その為に、来たくても来れないのかも。まさか、でも。どきどき、どきどきっ……。
 悪い予感がして、少年の胸は悪戯に高鳴った。少年は悪いことばかりを、考えずにはいられなかった。
 そうだよ、余命半年なんだしさ。もし、もしそうだとしたら、どうしよう俺……。海雪さん、明日は絶対来てくれよ。頼む。
 少年は祈るような気持ちで、風の放送局に耳を傾けた。

 一九八〇年×二〇一〇年の七月二十七日

 けれど海雪はやっぱり、来なかった。或いは海雪は来たのかも知れないけれど、夜明けの時刻、少年の方が海辺にいなかった。なぜかと言えば、雨。
 夜明け前、突然海岸に雨が降り出し、それは瞬く間に大雨となって少年を襲った。少年は生憎傘を持っておらず、海岸沿いには薄暗い公衆トイレを除いて雨宿りする場所などなかった。愛機COUGARを雨から守る為に、少年は渋々家に引き揚げざるを得なかった。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年七月二十七日。すっかり雨も上がり、朝陽が眩しい夏の夜明けです』
 おいおい、冗談だろ。何が雨も上がりだよ、朝陽が眩しいだって。こっちはまだ土砂降りの最中ですよ、まったく。
 閉め切った部屋の窓ガラスに、雨粒が当たっては砕け散る。激しい雨音に、COUGARの音も掻き消される程だった。そのCOUGARからは、いつのまにか風の放送局の波音だけが聴こえていた。詰まり、放送終了。
 あーあ、結局今朝も、娘さんに関する情報はなしか。
 いつしか少年は、風の放送局が語る、きみ、こと、ラジオの中のみゆきと、海雪とを重ね合わせるようになっていた。
 あっ、でも海雪さん。実は今、海に来てたりして。いや、それはないよなあ、こんな大雨だし。でも、でも、もしかしたら……。
 恨めし気に少年は、窓ガラスを見詰めた。外はやはりまだ、土砂降りだった。
 雨位で折角海雪と会う機会を失っては堪らないと、翌日以降少年はしっかり雨対策を講じて海に足を運んだ。折り畳みの傘を必ず持参するのは勿論のこと、COUGARが雨に濡れないように大きなビニール袋も携帯したのだった。

 一九八〇年×二〇一〇年の七月二十八日

 そして海雪に会ってから三日後、夜明けの海辺で少年はひたすら待っていた。
 海雪さんは来るのか、来ないのか。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年七月二十八日。蒸し暑いことは蒸し暑いけど、多少は穏やかさも感じられる夜明けです』
 蒸し暑い、蒸し暑いって言うなよ。こっちまで蒸し暑くなっちまうじゃないか、風の放送局のおっさん。
 少年は苛々しながらも、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせた。ラジオの放送は進めど、海雪の姿はなかなか見えない。待ちくたびれた少年は、どっこらしょと砂に腰を下ろした。ついつい眠気が襲って来る。
 ふっわーっ。やばあ、眠くなって来た。
 いつしか少年は目を瞑り、うとうとし出した。するとそこへ、潮騒に混じって囁くような声が。
「きみ」
 ん。誰だ、今ねみーの、俺……。
「きみ、きみ」
 はっ、その声はもしかして……。
 少年は重い瞼を懸命に見開いて、辺りを見回した。目の前に、待ち焦がれた海雪が立っていた。初めて会った日と同じ、白いワンピースに、青いサンダル姿だった。
「また、きみ、こんなとこで寝てる」
 海雪は笑顔、しかも元気そうだった。嬉しくて少年は、顔を崩さずにはいられなかった。
「なあんだーっ、海雪さんかあ。脅かさないでよ」
「どうしたの、きみ。涙なんか流しちゃって」
「えっ」
 やばい。俺、もしかして泣いてたりして。
「もしかして、きみ。わたしに会えなくて、寂しかったとか」
 図星だったけれど、少年はまっ赤な顔でかぶりを振った。
「違うよ、欠伸、欠伸」
「あっ、そう。なら良かった。もしかして心配してくれてたら、悪いなあなんて思ったから」
 ああ、それも図星なんだけど……。
 少年は誤魔化すように、何度も目を擦ってみせた。
「今日もきみのラジオ、聴いていい」
「うん、勿論」
 げ、やっぱり海雪さんの関心は、風の放送局なのかなあ。
 少年はがっかりしながらも、にっこりと頷いた。海雪はCOUGARの横に腰を下ろした。
「本当は毎日来たかったんだけど、ごめんね」
「えっ」
 吃驚して少年は、海雪を見詰めた。海雪は海に、その視線を向けた。
「来たくても、ほら。体の調子、悪い時もあるでしょ」
「うん」
 やっぱり、そうか。
 少年は海雪の二日間の空白について、納得した。
「体調悪い日は、わたし、爆睡してるの」
 爆睡……。
 そして海雪は、大声で笑った。
「あっ、そうなんだ」
 釣られて笑いつつも、少年は直ぐに心配になった。
 今日は調子いいのかな、海雪さん。
「でも良かった。また会えて」
 こっちこそ、良かった。でも俺、何の力にもなれないからなあ……。
「今日は体調、いいんですか」
 恐る恐る聞く少年に、海雪は明るく答えた。
「うん、今のところは大丈夫」
 ずるっ。今のところは、かあ。
 COUGARに耳を傾ける海雪に、少年も風の放送局のお喋りを聴いた。
『それでは今朝の一曲目。渡辺美里、男の子のように。どうぞ』
 わたなべみさと。誰だ、それ。海雪さん、知ってるのかな。
 海雪に確かめたかったけれど、海雪はじっと曲に聴き入っている様子。邪魔しちゃいけないと、少年は黙っていた。
「いい曲だったね、今の」
 曲が終わると、海雪が透かさず言った。
 あっ、海雪さん、知ってるんだ。
 けれど違った。
「初めて聴いたけど、わたし覚えちゃった」
 ええっ、初めて聴いたの。
「俺も初めて。新人なのかな」
「分かんないけど、でもいい曲だったわ」
「うん」
 ふたりは顔を見合わせた。少年も確かに、いい曲だと思った。
 今度、レコード屋で調べてみっかな。
 ぼんやりとそんなことを考える少年を置き去りに、海雪は立ち上がった。立ち上がり、そして歌い出した。
 えっ。海雪さん、本当だ。
 海雪が歌い出したのは、確かにさっきCOUGARから流れていた曲だったのだ。少年は吃驚。
 凄い、海雪さん。本当にあの歌、たった一回で覚えちゃったんだ。もしかして海雪さんって、音楽の天才……。
 海雪の歌声は澄んでいた。それにその歌は上手かった。丸で天使のような歌声だと、少年は胸さえ震える程だった。
 海雪は海を見詰めながら、静かに歌い続けた。海雪の歌に合わせるように、潮風が吹き、朝陽を浴びた波がきらきらと煌めいていた。
 海雪さん、よっぽどこの曲が気に入ったのかな。
 少年は自分のことのように、嬉しくてならなかった。
 流石は風の放送局、いい選曲だなあ。これからもガンガン、俺の知らない名曲を掛けてくれよ。って言うか、海雪さんの好きな曲をお願いします……。
 少年は風の放送局が自分と海雪を巡り会わせ、そして結び付けてくれている気がしてならなかった。この謎のFMの電波が。
 海雪の歌を聴いているうちに、少年は詩が浮かんで来た。例によって、さらさらさらーっと日記帳にそれを綴った。
 するとそれを見ていた海雪が歌い終わるや、少年の日記帳を覗き込んで来た。
「ねっ、何書いてるの」
「あっ、詩です」
 少年は、顔をまっ赤にして答えた。
「へえ、きみも書くんだ」
「きみもって」
「わたしも、書くから」
「詩」
 うん。
 無言で頷く海雪に、少年は吃驚。興奮して、思わず声が上擦った。
「へえ、海雪さんも。うわーっ」
 そうか。だから海雪さんと、気が合うのかも。ますます運命の人って気がして来た。でもそんな海雪さんの為に、自分には何が出来るんだろう……。
「どんな詩書くの。読んでみたい」
「うん、また今度ね。で、きみのは。どれどれ」
 けれど少年は、急いで日記帳を閉じた。
「あっ、やだ。ひどーい。そんなんじゃ、女にもてないぞ」
 えっ。
「いいよ、俺なんか。もてなくたって」
 今迄一度として、誰かに日記帳を見せたことはなかった。唯一他人に知られたのは、鶴光のオールナイトニッポンで読まれた詩だけである。
「分かった分かった。もう覗かないから」
 海雪は波打ち際まで歩くと、立ち止まり再び歌い出した。やっぱり、男の子のように、の曲だった。
 透き通った海雪の声が、潮騒の中に溶けてゆく。しかも今度は歌だけではなかった。青いサンダルを脱ぐと、海雪はゆっくりと踊り出したのだった。
 先ずは両腕をぴーんと頭上に上げ、爪先立ちでクルクルクルッとロケットのように回転。それから腕を横に下ろし、足を左右交互に出しながらステップを踏んで円を描き、砂の上を回った。そしてその後ちょっと動きを速めてダンス。それらを幾度か繰り返した後立ち止まり、両腕を横に広げたまま、再び爪先を立てクルクル、クルクルッと、白いワンピースのスカート部分を揺らしながら回転。その後、左足を後ろに曲げてフィニッシュ。
 パチパチパチッ。
 海雪さん、カッくいい。
 少年は立ち上がり、海雪に拍手を送った。照れ臭そうに笑う海雪の額に、キラリと汗が滲んでいた。けれど海雪の息は激しく乱れていた。
 はーはー、どきどき、はーはー、どきどきっ……。
 海雪さん、大丈夫。
 少年は急いで、波打ち際まで駆け寄って行った。
 でも、海雪は笑顔。
「平気、平気。ああ、気持ち良かった」
「ほんと。ならいいけど」
 うん。
 にこっと少年に笑い掛けた海雪。ところが突然海雪は足がもつれ、バランスを失って砂の上にペタンとしゃがみ込んでしまった。
「あっ、海雪さん」
 吃驚した少年は海雪の横にしゃがんで、海雪の顔をじっと見詰めずにはいられなかった。
「大丈夫」
 すると海雪は直ぐに頷いた。
「ごめん。ちょっと眩暈がしちゃった。でも、大したことないから」
「うん」
 海雪はそのまま砂の上に座り、膝を抱えた。
「ふう、ちょっと調子に乗り過ぎちゃったかな」
 笑みを零す海雪を見詰めながら、少年も海雪と並んで膝を抱えた。海雪の顔は青ざめていたけれど、少年はそれを海雪に告げられなかった。海雪がじっと、海を見詰めていたから。少年も黙って、一緒に海を見ている他なかった。
 そのままじっとしていた。
 十分位経過したろうか。海雪はようやく少年に顔を向け、にこっと笑った。顔色も良くなっていた。
「やっぱり、海はいいね」
「えっ」
「どんなに辛い時も、寂しい時も、海を見ていたら、楽になれるから」
 楽に、なれるから……。
 たった一歳しか違わないのに、海雪さんがとても大人の人に思えてならなかった。海雪さんは、俺なんかの知らない苦しみをずっと味わって来たんだ。
「うん」
 少年は頷くしかなかった。
「だから」
「うん」
「だから、もしもいつか、わたしがいなくなっても、寂しくないよね」
「えっ」
 吃驚して、少年は海雪の横顔をじっと見詰めた。
「どうして」
「だって、海を見ていたら、楽になれるでしょ」
「えっ、そんな」
 余命半年。その言葉が浮かんだ。
 当たり前のことだけど、海雪さんはそのことをいつも意識しながら、生きているんだ。毎日毎日、一分一秒も忘れることなく、いつも、いつでも、そして今も。そんなの、当たり前じゃないか。ばかか、俺……。
「やだ。そんな深刻な顔、絶対きみには似合わないよ」
 そして海雪は少年に囁き掛けるように、再び、男の子のように、を口遊んだ。
 海雪さん、その歌、海雪さんにとってもぴったりだね。その歌を歌う海雪さんが、ぼくは好きだ……。
 少年はそう、海雪に告げたかった。けれど黙って、海雪の歌を聴いていた。

「ねえ、知ってる」
 歌い終わった後、海雪は少年に問い掛けた。
「なに」
「この星の上で、一番最初に命が誕生した場所は、海なんだって」
「ああ、なんかで聞いたことある」
「でも、どうして命なんか、誕生したんだろう、こんな星の上に」
「どうしてって」
「命なんてどうせいつか、みんな死んでしまうでしょ。人生なんて、とても儚いのに。みんな、海に降る雪みたいに一瞬のうちに、しゅっと融けてお終い。命とか、人生とか、ほんとに儚くて、束の間の夢みたいなもんなのに。なのになぜ、何の為に、生まれて来る必要があるの。ねえ、何の為に、きみも、わたしも、こうして生きているんだろう」
 ええっ、やばい。俺、何にも答えらんないや……。
 見るとさっきまで砂の上に残っていた海雪のあのダンスの足跡が、今はもうすっかり跡形もなく消えていた。波打ち際の波がきれいに、洗い流してしまったのだ。
 あーっ、ほんとに儚いんだなあ、人生なんて……。
 少年はため息を零すしかなかった。
「あっ、ごめん。変なこと聞いちゃったね」
 海雪は舌を出し、笑ってみせた。
「きみと話していると、なんだか楽しくて」
「俺も」
「ほんと、良かった」
 それから海を見詰めながら、海雪は続けた。
「わたしね。昔、バレリーナになりたかったの。それから歌手にも」
「へえ、バレリーナと歌手」
 少年は納得した。
 やっぱり。でも、昔って……。
「うん、でも今はね」
 少年はどきっとした。
 今は、何になりたいんだろう、海雪さん。
「わたし、風になりたいの」
「風に」
 風かあ。少年は切なさが込み上げて来た。風、風って言えば、風の放送局。
 少年は振り返り、COUGARを見詰めた。耳を澄ますと、COUGARのスピーカーからは、白いページの中に、が流れていた。
 てことは、もう放送のエンディングテーマじゃないか。
「放送も、もう終わりみたいね。じゃ、そろそろわたしも行かなきゃ」
「えっ」
 寂しさが、少年の胸に込み上げて来てならなかった。海雪は立ち上がり、白いワンピースの尻に付いた砂を払う。砂ぼこりは潮風の中に舞い上がり、何処かへ行った。風の中に紛れて、消えていった。
「ありがとう、愚痴とか、聞いてくれて。とっても楽しかった」
「うん、俺も」
 他にも何か言わなければと思ったけれど、何も浮かばなかった。
「じゃあ、ね」
 手を振りながら、海雪は静かに歩き出した。けれど直ぐに足を止め、海雪は振り返った。
「そうだ。また、来てもいい」
「うん、いいよ。俺いるから、いつも」
 少年は嬉しくなって、大きく手を振り返した。COUGARからは、既に波の音が流れていた。


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