(小説)交響曲第五番(五・六)完
(五・六)第五ラウンド・2分30秒
紀ちゃん、それから年月は慌しく流れ去っていったね。
冬が去り、春が訪れ、それから夏を迎えた。自分は二十五歳になり、紀ちゃんは二十二歳になった。ドヤ仲間の和田さんは加齢の為、洌鎌さんは作業中の事故による右足骨折の為、ふたりとも日雇いの仕事を続けられなくなった。収入が途絶えれば、ドヤにも居られなくなる。そこでふたりは山谷を離れ、新天地に移動することを決意した。新天地とは新宿。自分も一緒に行かないかと誘われたが、自分はまだ働けるからと断った。ふたりは早々に山谷を去っていった。
山谷にとどまり気の合う仲間のいないドヤで、自分はひとりぼっちで暮らした。紀ちゃんを避ける為林屋にも行けず、文字通りの天涯孤独。そんな日々を黙々と繰り返し、再び冬が訪れ年が明けた或る日、そして自分は、紀ちゃんが結婚したことを、風の便りに知った。
紀ちゃんが、結婚した。紀ちゃんは結婚した……。まじかよ、随分と急な話だな。相手は一体、誰だ。
もう紀ちゃんのことなど忘れたつもりだったのに、ショックの余り息が詰まりそうになった。居ても立っても居られず、林屋へ何度も足を向けようとして思いとどまった。仕事も手につかなかった。このままじゃ駄目だ。このまま山谷にいたんじゃ、いつまで経っても紀ちゃんのことを忘れられない。そう思った自分は兎に角山谷を出なければと、和田さんたちのいる新宿に行くことを決めた。
荷物などほとんどない身、その気になれば今直ぐにでも旅立てる。早速自分は移動した。留萌の街を出た時と同じように、マジソンバックひとつを抱えて。和田さんたちは、新宿中央公園という新宿は高層ビル街の片隅にある公園で野宿していた。野宿ならば、昔取った杵柄。自分も仲間に加わった。
「なーんだ。やっぱり来たのか、昇」
「昇ちゃん、待ってたって言うよ」
和田さんと洌鎌さんは、快く歓迎してくれた。それに新宿中央公園に住む野宿者を宛てにして、日雇いの手配師が平日の朝公園にやって来るのだと言う。そこで自分は手配師に頼み、山谷と同様日雇いの仕事に有り付いた。紀ちゃんのことを忘れようと努めながら、自分は日々仕事に打ち込んだ。二年が経過した。
冬の或る日。その日は日雇いの現場が上野駅近くだったことから、帰り道自分は久し振りに風の丘公園に足を向けた。紀ちゃんと最後に会って以来、来たことはなかった。公園の中に変化はなく、ブランコもあった。ところがそこでばったり、自分は紀ちゃんの姿を見掛けてしまった。気付かれないようにさっと木の陰に身を隠して、自分は紀ちゃんの様子を眺めた。
紀ちゃん。紀ちゃんはブランコの前に突っ立って、風に揺れるブランコをぼんやりと眺めていた。そして紀ちゃんの横には、乳母車があった。それは勿論紀ちゃんのものであり、その中には確かに赤ん坊がいて、すやすやと眠っていた。紀ちゃん、そうだったのか。はええな、もう子どもが出来たなんて……。
自分は紀ちゃんに気付かれないようにゆっくりと後退りしながら、風の丘公園から離れた。紀ちゃんの背中から、母親になった紀ちゃんの。握り拳で歯を食い縛りながら、そして自分はこの現実を受け止めるしかなかった。紀ちゃん、あなたがお母さんになるなんて。でも、幸せそうで良かった。だから自分とあなたとのことは、やっぱりこうなって良かったんだよ、紀ちゃん……。
山手線で新宿に戻り、自分は新宿中央公園に帰り着いた。和田さんたちに守ってもらっていた自分の荷物の中から、紀ちゃんから貰ったレコードを取り出した。そのマーラーの交響曲第五番のレコードに向かって、自分はこう呟いた。
「紀ちゃん、おめでとう」
自分は権田川を刺して、殺したと思ったから、留萌から逃げて山谷に来たのだけれど。本当は権田川はあの時、死んでなどいなかった。それならそもそも自分は、留萌から逃げて来る必要などなかったのではないか。そんな疑問に襲われ、自分は新宿中央公園のベンチから空を見上げた。けれど自分は直ぐに思い直し、自分に向かって、こう言い聞かせた。
逃げて来たからこそ、紀ちゃんと会えたのだ……。
再び空を見上げれば、東京は新宿の空から、ぱらぱらと白いものが落ちて来た。この灰色の、東京の空から。
紀ちゃん。白黒TVのリングの上で矢吹と闘った力石の死因は、『第六ラウンド、矢吹が放ったテンプレーのフックと、その時ダウンした際に後頭部を強打した為の脳内出血(※TV「あしたのジョー」から引用)』、だったね。だから紀ちゃん、この告白は第五ラウンドで終わりにします。なぜなら自分にとって矢吹丈と力石徹の第五ラウンドは、マーラーの交響曲第五番、第四楽章、即ち永久の交響曲第五番、だからなのです。
(了)