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(小説)風の放送局(七)

(七)赤いアンブレラ(もんた&ブラザーズ 一九八〇年)
 一九八〇年×二〇一〇年の八月五日

 寄せ返す波の音を掻き消して夜更けから降り出した雨が、海辺の砂を濡らしてゆく。夜明けになると雨は更に激しさを増し、土砂降りが続いた。ビニール袋の中のCOUGARから聴こえていた深夜放送も終わり、少年は雨の砂浜にひとり立ち尽くしていた。
 やばい、どうしよう。
 傘は差していても、全身びしょ濡れ。少年はこのまま海雪を待ち続けるべきか否か、迷いに迷った。八月一日会ったのを最後に、以後今日までまだ海雪はその姿を現さなかった。ということは既に三日が、経過していた。
 もし今日会わなければ、四日目ということになる。今迄幾ら間が空いても二日が最長だったことを思うと、今日当たり来てくれても良さそうなものである。しかし生憎の雨。
 今日は無理せず、病院で休んでた方がいいよ、海雪さん。
 雨の降り続く海に向かって祈りながら、少年は家に引き揚げることを決意した。その時COUGARから、風の放送局のオープニング挨拶が耳に入った。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月五日。生憎小雨の夜明けです』
 はあ、小雨だと。何処が小雨なんだよ。ふざけんなよ、風の放送局のおっさん。
 COUGARを入れたビニール袋を小脇に抱え、少年は歩き出した。ところがその視界に、ぼんやりとひとつの赤い影が見えた。
 あれっ、もしかして。
 少年の予想通り、それは海雪だった。
 雨に霞んだプラタナスの並木を、海雪がこっちへと歩いて来る。赤いのは、海雪が差した傘の色だった。
 赤い傘。やっぱり女の子なんだなあ、海雪さんも……。でも、こんな雨の中を良く来たなあ。大丈夫かよ。
 少年は嬉しさ半分、心配半分。差していた傘を思い切り振りながら、大きな声で海雪を呼んだ。
「海雪さーん」
 海雪も赤い傘を振り返した。
『では今朝の一曲目はこの曲。もんた&ブラザーズ、赤いアンブレラ。どうぞ』
 激しい雨音に掻き消されながら、COUGARから曲が流れ出した。アコースティクギターのシンプルなイントロで始まる、静かなラヴソングだった。初めて聴く曲だった。
 目の前にやって来た海雪に、開口一番少年は尋ねた。
「ね、この曲、知ってる」
 どれどれと海雪は、ビニール袋越しのCOUGARのスピーカーに耳を傾けた。けれど直ぐに、かぶりを振る海雪の顔が返って来た。
「知らない」
 そっか。海雪さんも知らないんだ。
「新曲じゃない」
「そうかもね」
「でもいい曲、ね」
「うん、そうだね。渋くて、俺好み」
「生意気」
 くすくすと海雪が笑い出した。少年も照れ笑い。それからふたりは黙って、曲が終わるまでじっと聴いていた。
 曲が終わると、少年は海雪に尋ねた。
「海雪さん、こんな大雨なのに大丈夫。無理しないで早く帰った方が、いいんじゃない」
「平気、平気。だって今日来ないと、またきみ、心配するでしょ」
「えっ、でも……」
 少年は顔をまっ赤にして、俯いた。
「だから、がんばって来て上げたのよ」
「ありがとう」
 顔を上げた少年を置き去りに、海雪は波打ち際へと歩き出した。潮風が海雪の赤い傘を激しく揺らす。それに耐えて海雪はしっかりと傘の柄を両手で握り締めながら、海の前に立った。白いワンピースが濡れてゆくのもお構いなしに、そして灰色の海をじっと見詰めた。
 COUGARからは、風の放送局のお喋りが聴こえている。例によってまた難しそうな話をしている声が、雨音に掻き消されながらも辛うじて少年の耳に届いた。
『なぜ人は死ぬんだろう、どうして死ななきゃならないんだろう。それに、どうして人によって生きる時間の長さがこんなにも違うんだろうね。
 長生きして八十、九十、いや百年以上生きる人だっているのに、若くていや幼くしてこの世を去ってゆく人もいる。どうしてこんなに人によって命の長さが違うんだろう。まったく不可解だし、不公平だし、とても納得出来るもんじゃない。どうしても不条理を感じてしまうんだなあ。
 だったら例えばみんな同じように、五十年なら五十年生きられたらそれでいい。みんな平等に、五十歳になったら、はい、さようなら、ってね。みんな仲良く死んでゆく、なんてどうかな。そんな世界でいいんじゃないですか、神様……。
 なーんてね。ついつい愚痴りたくなってしまう今日この頃』
 波打ち際から、海雪が大声で呼んだ。
「ねえ。ラジオ、なんか喋ってる」
「うん、喋ってる」
 少年も大声で返した。
「良く分かんないけど、難しそうな話」
 あっ、そう。
 海雪は納得したように頷き、再び背を向けた。海雪の視界には暗い雨の海。COUGARは、更に続けた。
『きみはいつもぼくに、不公平だあっ、て零していたね。人生も、この世界も、みんな、すべてが不公平だって。でも長く生きられることが、人間にとって本当に、幸せなことなんだろうか。そして逆に短い生涯だった人は、本当にみんな不幸せだったのかな。
 ぼくはいつもこの難問を前に、いい答えが見付からず、立ち尽くし沈黙してしまう。でも、ひとつだけもし、言えることがあるとすれば……。
 それは、長くても短くても、全然構わない。許された人生の中で、どれだけ自分らしく生きたか。それが一番、大事なことなんじゃないかな。自分らしく……。
 確かに難しいことではあるけれど、例えば自分に正直に、自分の気持ちに嘘偽りなく生きる、そういうことだと思う』
 ふわーっ。
 少年は思わず大欠伸。それが海雪の耳に聴こえたのか、海雪はくすくす笑い出した。でもラジオの語りは真剣かつ、まだまだ熱かった。
『なぜ人は死ぬのか、どうして死ななきゃならないのか。うん、じゃその前に死ぬ以前の状態、詰まり生きているとは何か、について考えてみよう。
 なぜ人は生きるのか、どうして生きなきゃならないのか。どうせいつかは死ぬのに、死んで泡粒のように消えてなくなってしまうのに。なぜ命はこの世に誕生し、なぜ人は儚い人生をあくせくと懸命に生きているのか。
 これについてぼくが常々思っていることはね、人は美しい命になる為に生きているんじゃないかってこと。美しい命となって、この暗黒の宇宙を眩しく照らし出す為に、なんてね。
 では理屈っぽい話ばっかり続いたから、この辺でちょっと一休み。一曲いってみよう』
 ありゃりゃ、美しい命ねえ。何のこっちゃ。
 少年がまた欠伸しようとした時、海雪が振り向いた。
「ねえ、きみ」
 雨の音が、海雪の声を掻き消してゆく。
「何」
「きみは、どう思う」
「何が」
「だから。やっぱり人生は、長い短いなんて関係ないと思う」
 なーんだ。海雪さん、やっぱりラジオ、ちゃんと聴いてたんだ。
「幾ら美しい命になっても、死んだら終わりだよね」
「うん、そうだね」
「生きているからこそ、いろんな経験が出来るんだから。やっぱり長く生きられる方が、幸せだよね」
「えっ」
 少年はどきっとして、海雪の顔を見詰めた。海雪は、ため息を零した。
「わたしも、長生きしたかったなあ」
 えっ、そんなあ。
 少年は戸惑い、俯いた。
 行き成りそんなこと言われても、どう答えりゃいいか、分かんないよ。
 海雪も口を閉じて、海に視線を戻した。
 降り続く雨の中で、しばらくふたりは沈黙した。
「でも」
 ようやく少年が口を開いた。
「何」
「うん。でも、長生きしたら長生きしたで、いろいろと嫌なこと、大人とか世の中の醜い姿なんかも、見なきゃならなくなると思うんだ。サラリーマンとか公務員とかって、全然夢なさそうだし、詰まんなそうだしね。だから」
「うん」
「だから、そんなにいいことばっかでも、ないと思うよ。長生きしたからって」
「うん、そうかもね。そういう考え方も有りだね」
 海雪は、にこっと微笑んだ。
「ありがとう。きみってやっぱり、やさしいね」
 ありゃりゃ、海雪さん。そんなこと、とっくの昔に知ってるよって顔だなあ。
 少年は照れ臭そうに苦笑い。
 でも、そりゃそうだ。海雪さんは小さい時からずっと、死と向かい合って来たんだから。今更甘っちょろい俺の思い付きなんか、何の役にも立ちゃしないっての。
 少年はがっかりしながら、ぼんやりと海を見詰めた。そんな少年をかばうように、海雪が続けた。
「こうやって、ここできみと会って話ししてるだけで、何だかとっても、落ち着くんだよね、わたし」
 えっ。そんなこと言われたら、こっちが泣けて来ちゃうよ。
 少年は視線を海雪に戻した。
 俺だって、海雪さんと会ってると、とっても楽しいし。もし、こんなお姉さんいてくれたら、どんなにいいだろう、なんて思ってしまう。
「そうかな」
「そうだよ」
 にこっと微笑む海雪の頬に、けれど雫が零れ落ちる。それが涙なのか雨なのかは、区別がつかない。ふたりはCOUGARから流れ来る、風の放送局のお喋りに耳を傾けた。
『きみは、ジョディ・フォスターのフォクシー・レディ(一九八〇年八月二十三日公開)を覚えているかい。あの映画はぼくが十八歳の夏休み、もう晩夏の頃、新宿の映画館で見たって話したね。
 映画のラストシーン、ジョディ・フォスターが、死んだ友だちの墓の横に座って、確かこんなことを呟いていた。
 彼女はただ、プラタナスの木になりたかっただけ。丘の上のプラタナスの木になって、自分のそばで遊ぶ子供たちを、ただじっと見ていたかっただけ……』
 そしてCOUGARからは、映画のテーマソング、ドナサマーのオンザレディオが流れた。同時にそれがラストナンバーで、曲が終わると共に風の放送局も終了。COUGARからはいつもの波音が流れて来たけれど、雨の音に空しく掻き消された。
 海雪はと言うと、風の放送局が終了してもまだ波打ち際に立っていた。赤い傘を差したまま、海雪はじっと海を見ていた。
「海雪さん、まだ帰らないの」
 心配して尋ねた少年に、けれど海雪は振り返り、行き成りこう言った。
「わたし、このまま死にたい」
「えっ」
「どうせ死ぬんだから、ここで死なせて」
「ええっ。でも」
「お願い。海を見ながら、死にたいの」
「そんなこと言われても」
 吃驚した少年の目の前で、突然潮風が強風となって海雪を襲った。
「きゃーーーっ」
 強風は海雪の手から傘をもぎ取り、赤い傘は海へと流された。追い掛けようとする海雪を、少年は止めた。
「海雪さん。俺が取って来るから、海雪さんはここで待ってて」
「でも」
「いいから、いいから。俺に任せて」
 言うが早いか少年は自分の傘とビニール袋に入れたCOUGARを海雪に渡すと、赤い傘を追い掛け、ジャバジャバと海へ入っていった。幸い潮風は弱まり、赤い傘は波に浮かびながら停止した。
 赤い傘に接近すると、少年は逃さないように思いっ切りジャンプ。ダイビングキャッチで、海雪の傘は無事少年の手の中に。
 やった。
 でも少年は、全身びしょ濡れ。
 ま、いっか。夏だし。
 赤い傘を大事に握り締めながら、少年は波打ち際へと戻って来た。
「ごめん」
 海雪は赤い傘を受け取ると、泣きそうな顔で微笑んだ。
「ほんと、ありがとう」
 ふう、良かった。お陰でさっき死にたいなんて言ってたこと、海雪さんすっかり忘れているみたい。
 少年も安心して笑い返した。
「じゃ、お礼にひとつ、詩を披露しようかなあ」
「えっ、ほんと。ラッキー」
「うん。じゃ、あこがれ、って詩」
 憧れ、かあ。
 海雪は目を瞑り、その詩を口遊んだ。少年は降り頻る雨と海を見詰めながら、海雪の詩を聴いた。
「ただ、美しい人でありたかった
 夜明け前、夢とうつつの境界に打ち寄せる
 歌か波か区別のつかない
 遠い汐の音に似て
 静かに消え去る、星の瞬きに似て
 ただ美しい現象で、ありたかった」
 美しい人、美しい現象でって……。現象かあ。俺だって、ひとつの現象に過ぎないんだし。そしてそれは海雪さんだって、風の放送局だって、おんなじなんだよ。でもだからこそ、今生きてるってことが、何よりも凄く大事な訳で。だからさ、やっぱり長さなんか、人生には全然関係ないんだよ。
 少年はそう思った。思ったけれど、海雪には黙っていた。
「それじゃ、もうそろそろ行くね。傘、ほんとにありがとう」
 海雪が歩き出した。
 まだ雨は降り続いていた。その雨の中に海雪の赤い傘が段々と小さくなり、やがて赤い点となって消え去った。


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