見出し画像

(小説)八月の少年(三十四)

(三十四)天の川駅
 車掌の涙はしばらく続いた。涙の後、車掌は答えた。
「あまりに星が綺麗でしたので、つい」
 確かに星は綺麗だった、しかし。けれどわたしは素直に車掌の言葉を信じることにした。
「確かに美しい銀河だね」
 わたしたちは肩を並べしばらく銀河を眺めた。
「ミルキーウェイ!まさに天(てん)の川ですね」
「それで天の川駅かね?何とロマンティクな。駅に着いたら、ゆっくり星を見ようじゃないか」


 ところが突然ひとつの稲光りが天の川を引き裂き、それを合図に雨が降り始めた。激しい雨が天の川駅に入ろうとする列車を襲った。雨粒が列車の窓を叩き強風が列車を揺さぶった。雷鳴は空を駆ける巨大な龍のように何度も何度も夜空に光線の筋を焼き付けた。
 列車は何とか天の川駅のホームに辿り着き停車した。列車はドアを閉じたままそこにじっとしているしかなかった。絶え間なく稲光りが走り雷鳴が轟き、あちらこちらで落雷が起きた。まるで何かの意思がこの惑星を焼き尽くさんとでもするかのように大地は燃え轟音が響き渡った。戦場。それはまるで戦場のような光景だった。そして今まさに世界は戦争のまっ只中にあったのだ!
「何という、これは神の怒りか?」
 思わずわたしは大声で叫んだ。すると。
「ハリケーン」
 車掌が小さな声でつぶやいた。
「ん?」
 わたしは問い返した。雨と雷の音にかき消され車掌の声が聴き取れなかったのだ。
「何と言ったのかね?」
「モンスーン」
 車掌は答えた。けれど矢張り聴こえなかった。
「ん、何だね?」
 繰り返し聴き返すわたしにとうとう車掌は大声で答えた。
「タイフーンですよ」
 その時なぜかピタリと嵐が止んだ。雨も風も雷も何もかも。辺りは突然不思議な静寂に包まれた。
「ああ、台風か。でも止まったね」
 わたしは笑いかけた。ところが車掌は震えていた。
「どうした、寒いのかね?」
 けれど車掌は答えなかった。
「このまま止むだろう、台風も。そしたらまた星が見れるだろう?」
「いいえ」
 車掌は強い口調で言った。そして車掌の言葉通り台風はまだ終わってなどいなかった。そう、ほんの一瞬の嵐の前の静けさだったのだ。
「これからです」
 車掌の言葉と同時に今まで見たこともない巨大なひとつの雷が光った。それは一瞬昼間かと思うほど夜空を明るく照らした。そしてそれは落ちた。何処に落雷したかはわからない。近くかそれとも遠く遥か地球の反対側か?耳を突き破るような雷鳴と振動が残った。
 その落雷と同時に車掌が列車の床に倒れた。まるで自分自身が雷に打たれたかのように。それから雨。激しい雨が再び降り出し滝のように列車の窓を流れた。
「きみ!」
 倒れた車掌を抱きかかえた。車掌は目を開きつぶやいた。
「とうとう」
「何だね?」
 車掌は言葉を続けようとしたが声にはならなかった。
「しっかりしたまえ!」
 わたしは叫んだ。けれど再び車掌は目を瞑った。
「おい、勘違いするな」
 わたしは車掌を揺り動かした。
「きみは雷になど打たれていないのだよ」
 すると車掌はわたしの言葉に反応したかのように再び目を開いた。
「そうです。雷は」
 車掌はささやくようにつぶやいた。
「雷がどうしたのかね?」
「雷は」
「雷は?」
「あそこに」
「ん、あそこ?」
「雷は」
「何処だね?さっきの雷が何処に落ちたか、きみは知っているのかね?」
 すると車掌は答えた。
「テニアン」
「なに?」
 けれどまた車掌の目が薄っすらと閉じかかった。
「しっかりしろ!」
「組立が、完了したのです」
 うわ言のように車掌はつぶやいた。
「組立が完了?何のことだ?いや、もういい。いいからもう黙って、安静にしていたまえ」
 けれど車掌は最後の気力を振り絞るかのようにつぶやいた。
「はちがつの、しょうねん」
「なにーーー?」
 そしてまた謎の言葉を残して車掌は意識を失った。
 何のことだ?
 わたしは車掌を抱きかかえたまま、今車掌がつぶやいた言葉を思い浮かべた。
 組立が完了した。テニアンに雷が落ちて。雷?テニアンで組立が。組立?何を?何かがテニアンで組み立てられた。何を?だから、はちがつの、しょうねん?
「とめてくれ」
 車掌が叫んだ。けれどそれはうわ言だった。どうしたのだ?悪い夢にうなされているのか?
「とめてくれ」
 なおも車掌のうわ言は続いた。その声は苦悶に満ちていた。一体どんな夢を見ているのだ?
「とめてくれ、だれかとめてくれ」
 うわ言を漏らす車掌の口を、顔を覆い隠す帽子が塞いでいた。わたしは耐え切れなくなりとうとうその帽子を車掌の顔から取った。わたしはその方が少しでも楽になると思ったのだ。車掌の顔から丁寧に帽子を取った後、わたしは車掌の顔に向かって小さくつぶやいた。
「坊や」
 忘れていたあの歌のメロディが甦った。あの夜明けの夢の中で耳にした、あの歌。あの夜明けの夢さえ今ではもう遥か遠い昔の出来事のように思えた。
「やっぱり、きみだったんだね」
 車掌の顔は、車掌は、あの少年だった。帽子に隠されていたのは、あの夜明けの夢の中の少年の顔だった。
 帽子を取ったせいか車掌のうわ言はいつか消え、代わりにすやすやかわいい寝息が聴こえて来た。わたしは安心して再び帽子を車掌の顔に被せた。
 それからわたしは夢を見た。車掌の寝息に誘われたか、わたしもいつしかうとうとしてしまったらしい。

「大統領」
「ん?」
「大統領!」
「気付かなかった。車掌、いや、きみがあの夜明けの夢の」
「大統領、何を言っておられるのです?会談は終わりましたよ」
「なに、会談?何の会談だね?」
「大統領、ポツダムですよ」
 なに、ポツダム?
 見るとわたしの隣に狐のお面と龍のお面が座っていた。わたしは虎のお面を被っていた。
「やあ、無事終わりましたな」
「戦後の世界秩序に向けて、良い話し合いが出来て満足ですよ」
 戦後の世界秩序?戦後?
「会見も無事済んで、報道陣も消えたことだし」
「そうですな、そろそろこの暑苦しいお面を取りますか?」
 なに、お面を取る?わたしは緊張した。まず初めに狐のお面がそのお面を取った。すると。
 おお、首相!
 続けて龍のお面がそのお面を取った。すると。
 おお、書記長!
 お面を取ったふたりはわたしを見た。
「大統領、今度はあなたの番ですよ」
「ああ、そうですな」
 そう答えるとわたしも自分のお面を引っ張った。しかしお面は取れなかった。どういうことだ?
「大統領、どうしました?」
「いや」
 冷や汗が流れた。何度も何度も引っ張ったがお面は取れなかった。
「大統領、何をやっているのです?」
「大統領、何をぐずぐずしているのです?」
「いや、くっ付いて離れないのです」
 わたしは叫んだ。
「本当ですか?」
「本当です」
「しかし、わたしたちは直ぐに取れましたよ」
 ふたりは互いに顔を見合わせた。
「うん、わかっている」
 わたしは必死でお面を引っ張り続けた。けれどお面はびくともしなかった。そんなわたしの様子にふたりは疑いを抱いた。
「大統領、あなたは本当に大統領ですか?」
「大統領、あなたまさか大統領に成りすましたスパイじゃないでしょうな?」
「スパイ?」
「そうです。どうなんですか?」
「いや、わたしは」
「わたしは?」
 ふたりは声をそろえて言った。
「いや、わたしは。わたしはわたしだ」
 わたしは必死で答えた。ふたりは笑った。
「大統領、何を言っているのですか?わたしたちはあなたが大統領かどうか尋ねているのですよ?」
「そうだ、だから今は大統領だ。きみたちがわたしをそう呼んだのだから。きみたちがわたしのことを大統領と呼んだのではないか?だから」
「大統領、何をわけのわからないことを言っているのです。へたな言い訳に聴こえますよ。さあ早くそのお面を取って、ちゃんと顔を見せて下さい」
「しかし、取れないのだ」
「大統領、さあ早く。わたしたちはあなたの正体が知りたいのです」
「大統領、あなたは一体何者ですか?あなたは誰なのですか?」
 わたしを問い詰めるふたりの姿が突然消えた。けれどわたしに問いかける声は続いた。
『大統領、あなたは何のために生まれ、何のために生き、そして今日まで何をして来たのですか?そしてこれから何処へゆくつもりですか?やがていつかあなたがこの地上から去ってゆく時、あなたは一体何処へ帰ってゆくのですか?』
 一体誰の声だ?それともわたしの内なる声か?
「わからない。そんなこと、わたしにわかるわけがないではないか?」
 わたしは答えた。けれど声は続いた。
『あなたの正体は何ですか?
 あなたは一体何者ですか?
 あなたは誰ですか?
 あなたとは何ですか?』
「止めてくれ!
 頼む。頼むから誰かこのお面を取ってくれ。
 わたしはわたしだーーー!」
 わたしは絶叫した。すると誰かがわたしの顔を思い切り引っ張った。痛い!と思った瞬間、お面はすっぽりと取れた。取れた瞬間に風景が変わった。

 目の前にスクリーンがあった。何だろう、何かの記録映画か?軍服を着た数人の男たちがそれを見ていた。どこかで見たような映像だった。わたしは黙ってスクリーンを見つめた。
『夜明けの街に激しい雨が降っていた。サングラスをぶらぶら手に持った群衆が空を見上げている。
 なんでも軍がどでかい花火を見せてくれるそうよ。
 しかしこの雨だ。今日はもう中止じゃないか?
 いや、やるわよ。
 いくら軍でも天気まではコントロールできないだろ?
 そうかしら?軍なら、ねえ、やりかねないと思わない?
 やがて雨が上がる。人々は持っていたサングラスで目を覆い隠す。
 ざわめきと静寂。やがて夜明けの空にひとつの閃光が炸裂した。と同時に大地が揺れた。人々は息を呑みやがて喚声の渦』
「ん、これは?まさか」
 わたしは心の中で叫んだ。
 スクリーンの映像が止まり映画は終わった。辺りはまっ暗になった。誰か、電気を付けないのか?これでは暗くて何も見えないぞ。軍服を来たひとりの男が立ち上がりわたしたちを見た。そう、わたしたち。わたしもそのメンバーのひとりなのだろう。
「諸君!御覧の通り、これがきみたちが投下する新型爆弾だ」
 なに?ここは一体何処だ?この男たちは、そしてわたしは何者なのだ?
「機長」
 男はわたしに向かって言った。
 なに?わたしが機長なのか?
「何か、ご感想は?」
「いや、その」
 カチァ。
 わたしが答える前に誰かが照明のスイッチを入れた。思わずわたしは目を手で覆った。
 眩しい!

 日差しが眩しかった。冷たい潮風が頬を刺すように吹いてゆく。潮辛い。ここは島か?海、潮騒、海鳥たちの鳴き声。もしかしてここは?わたしはひとりぼんやりと海を見ていた。
「機長」
 誰かが呼んだ。わたしのことか?やっぱりわたしが機長なのか?呼んだ男はわたしに近寄りわたしと肩を並らべ海を眺めた。男はわたしに言った。
「いよいよ明日だね」
 明日?何が明日なのだ?その時潮風がわたしの頬を吹いて、ふいにわたしは隣にいる男が誰なのかわかった。わたしは男に尋ねた。
「将軍、明日ですか?」
「そうだよ。どうしたのかね?まるで他人事のように」
「いえ、まだ実感が湧かないのです」
「そりゃそうだろう。大変な任務だ」
 大変な任務。
「わかっております」
 わたしは答えた。
「もうすぐ、あの新型爆弾がきみたちの機体に搭載される」
 男は言った。大きな波が埠頭に打ち寄せ砕け散った。そうだ、もしかしてここはテニアン?黙り込むわたしを心配して男は言った。
「今日はさっさと切り上げ、早く休むといい」
「ええ、そうします」
 男が歩き出す。わたしは男を呼び止める。
「将軍ーー」
「何だね?」
「明日」
「明日がどうした?」
 わたしは叫ぶように言う。
「本当に明日、出発するのですか?」
「ああ?」
 男は足を止めわたしを見つめた。
「本当に、いいのですか?」
 わたしは男の顔を見つめ返しながら尋ねる。
「ああ、きみの気持ちもわかるが」
 と言いかけしばし男は黙った。慎重に言葉を選ぶように。そして男は言った。
「これは重要な任務なのだ」
「重要な任務」
 波のきらめき、潮騒、海鳥たちの鳴く声、海。そして海。
「将軍。では最後にもうひとつだけお伺いします」
「何だね?」
 わたしは尋ねる。
「明日は、いつでしたっけ?何年の何月何日?」
「おお!何という。今更冗談かね?まあいい、人類史に残る日だ。よく覚えておきたまえ」
 そして男はゆっくりと答えた。
「明日は、1945年8月6日」
 突然男も島の景色も消え、わたしの前には海だけが残された。

 潮風に吹かれながらわたしは何気なくズボンのポケットに手を入れた。指が何かに触れた。何だ?ただの紙切れか?
 いやこれは切符だ!切符。わたしは急いで皺くちゃの切符を取り出して広げた。
 "Manhattan express August 6th,1945"
 6th、そうか!
 この日付は印刷ミスなどではなかったのだ。すべては明日だったのだ。明日。何という、もう止めることはできないのか?これはもう定められたことなのか?
 海よ!
 わたしは目の前の海を見つめた。海よ、教えてくれ。もう手遅れなのか?もう何もかも?海、海よ、大地よ、島よ、太陽よ。頼むから止めてくれ、頼むから。
「とめてくれ。だれか、とめてくれーーー」
 わたしは大声で叫んだ。するとどこからかわたしに答える声がした。
「もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも。
 なぜならわたしたちは、そこへ向かっているのです」
 車掌!車掌の声だ。そうか、きみは知っていたのだね。きみは何もかも。

 目が覚めると空一面に天の川が広がっていた。まるで銀河の中を漂っているような。
 何処だ、ここは?
 顔を上げ、そこがホームのベンチだとわかった。天の川駅のホームのベンチ。わたしはベンチで横になっていたらしい。
「お目覚めですか?」
 車掌の声。車掌はすでに意識を取り戻していた。車掌がわたしをベンチに寝かしてくれたのだろう。
「夢でもご覧になりましたか?」
「ああ、そうだね。そのようだ」
 雨は上がり、空には満天の星が瞬いていた。静かな風が吹いていた。わたしたちはただ黙って夜空を見上げた。
「明日」
 しばらくしてわたしは小さくつぶやいた。
「明日?」
 車掌が問い返した。
「明日」
 言葉を続けようとして、けれどわたしは黙った。
「明日がどうかなさいましたか?」
 もう引き返せない。そうだ、もう。
「いや、もういいのだ」
 わたしは言葉を打ち消し、再び夜空を見上げた。
 そしてわたしたちは銀河を見ていた。ただ黙って銀河を見ていた。いつまでもいつまでも見ていたかった。

「そろそろ発車の時刻でございます」
 静かに車掌が告げた。わたしは黙って頷き列車に乗った。ドアが閉まり列車もまた音もなく静かに走り出した。天の川駅のホームを列車は滑る様に走り出した。まるで銀河の中を走っているかのように、星の瞬きがわたしたちを包み込んでいた。
 車掌はアナウンスを告げた。
「次はテニアン駅、終点でございます」
 なに、終点?わたしの顔がさぁーと青ざめてゆくのを感じた。わたしは自分の耳を疑いながら車掌の顔をじっと見つめた。
「くれぐれもお忘れ物のないよう、お気を付け願います」
 車掌はいつものように淡々とした口調で続けた。
「おい、きみ!」
 わたしは思わず大声で叫んだ。
「今何と言ったのだね?終点?」
 車掌はわたしの声に静かに頷いた。幾つもの星の瞬きがまるで埠頭に打ち寄せる波のように列車の窓を流れていった。まだ銀河の中を走っているような、夢の中を彷徨っているようなマンハッタン急行テニアン行きの旅。耳になじんだ汽笛の音がいとおしかった。わたしはいつか愚かにもこの旅がまるで永久に続いてゆくかのような錯覚に陥っていたらしい。
「そうか、とうとう終点なのだね」
 わたしはそれを受け入れた。
「次はテニアン駅、終点でございます」
 アナウンスを繰り返した後、車掌はいつものようにわたしの横を通り過ぎ前の車輌へと移動した。いつもならそのまま歩き去る車掌がけれど突然立ち止まり振り返った。前の車輌のドアの向こうから車掌はわたしを見つめている。
 どうしたのだ?
 そして車掌は帽子を脱ぎ捨てた。そこには少年の顔があった。
「坊や」
 わたしはつぶやいた。
 車掌の、少年の目から涙がまっすぐに零れ落ちた。
「坊やーーー!」
 わたしは叫びながら立ち上がった。少年が何かをつぶやいている。
「何だね?」
 わたしは叫びながら少年へと走った。前の車輌へと。ところが何と突然少年の姿が消えた。
「なに?」
 わたしはそのままわたしの乗った車輌のドア、車輌と車輌とをつなぐドアの前まで進んだ。
「何処だ?何処にいるのだ?」
 少年を呼びながらわたしはドアの前を見た。するとそこには夜空の星が瞬いていた!何と少年だけでなくわたしの乗った最終車輌以外のすべての車輌が消えていたのだ。
「どういうことだ?」
 もしかして切り離したのか?それにしても前方に列車の姿はなく、しかもわたしの車輌は単独で走り続けていた。わたしは恐る恐るドアを開け手すりにつかまりながら外を眺めた。下を見ると線路だけが続いている。わたしは上を見上げた。夜空を。するとそこに。
「わあーーー」
 わたしは思わず声を上げた。何とそこには列車が!列車は空中に浮かんでいたのだ。
「何ということだ」
 わたしは呆然と空に浮かぶ列車を見つめた。

「坊やーー」
 わたしは何度も空に浮かぶ列車に向かって叫んだ。列車は空中で停車していた。わたしの車輌は地上を走り続け、列車は後方へと離れていった。前のドアから列車を見ることが出来なくなりわたしは車輌の後ろのデッキへと走った。デッキの手すりにつかまりながら小さくなる列車へと叫んだ。少年へと。
「終点まで行かないのか?」
 けれど返事はない。それでもわたしは叫び続けた。
「テニアンだ。テニアン駅まで一緒に行くのではなかったのか?」
 それともそこへはわたし一人だけで行かなければならないのか?
 少年が空に浮かぶ列車の窓から顔を出した。少年は泣いていた。少年も何かを叫んでいる。けれどもうわたしの耳には何も聴こえなかった。ただ少年の悲しそうな顔だけがわたしにはわかった。少年は泣き続けた。ぼろぼろ、ぼろぼろ。そう、まるであの夜明けの夢のように。いやそれとも、これはまだあの夢の続きなのか?わたしはまだあの夢の中にいるのではないか?あの8月5日夜明けの。
 なぜかわたしの目にも涙が滲んでいた。夢。何もかも夢だ。
 坊や、何もかも夢なのだろう?
 ならばなぜ?なのになぜわたしたちはこんなに悲しい思いをしなければならないのだろうね?過ぎ去ってゆくすべての時もまた夢ならば。
「何だね?坊やーーー」
 デッキの手すりにつかまりながらわたしは必死で叫んだ。けれど強風がわたしを襲い、わたしの体は押し倒され車輌の床に叩きつけられた。
 坊や。
 力無く車輌の天井を見つめた。その時ふと一瞬だけ少年の声を聴いた。微かにけれど確かに少年の泣き叫ぶ声が聴こえた気がした。
「とめてください。あの、ばくだんをとめて」

 わたしの車輌は走り続けた。わたしは床に転がったままぼんやりと窓から見える空の上の列車を見ていた。遠ざかってゆく列車は夜空の中の小さな点になり、やがてとうとう見えなくなった。列車も、少年の泣き顔も。
 そしてマンハッタン急行は消えた。マンハッタン急行の旅はそして終わった。
 坊や、これでもう旅は終わったのかい?わたしたちの旅は?そしてこれからわたしはひとりで一体何処へゆけばいいというのだね、坊や?

#アインシュタイン #リトルボーイ #マンハッタン計画 #原爆 #ヒロシマ #昭和天皇 #尾瀬
#創作大賞2024
#ミステリー小説部門

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?