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(小説)風の放送局(八)

(八)普通の朝(ノーバディ 一九八五年)
 一九八〇年×二〇一〇年の八月八日

 八月五日の雨が上がると、晴天が続いた。毎日蒸し暑く、夜明け前からもう蒸しまくりで少年は喉が渇いて渇いて、三ツ矢サイダーばかり飲んでいた。
 海雪はもう二日、来ていなかった。
「海を見ながら、死にたいの」
 少年は八月五日に海雪が言ったその言葉が、忘れられなかった。
 海雪さん、大丈夫なのかな。今日当たり、来てくれよ。
 ため息を零す少年の背中を潮風が吹き過ぎ、プラタナスの並木から蝉時雨が聴こえて来る。
 しかし相変わらず世界は平和だなあ、まったく。ふわあーーっ。
 少年は大欠伸。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月八日。蒸し暑い、ってことは詰まり、夏としてはごくありふれた普通の一日になりそうな、そんな夜明けです』
 ごくありふれた普通の一日になりそう、だと。冗談言うなよ、風の放送局のおっさーーーん。
 いつものように少年は砂浜に寝転がり、COUGARから流れ来る風の放送局にぼんやりと耳を傾けながら、直ぐにうとうとし始めた。
「おはよう」
 そこへ聴き覚えのある声が。
 良かった、海雪さんだ。
 少年が飛び起きると、目の前には予想通り海雪がいた。
「おはようございます」
 喜びを噛み殺しながら少年が挨拶すると、海雪は少年の隣りに腰を下ろした。膝を抱え、そしてじっと海を見詰める海雪。少年も黙って海を眺めた。少年は、八月五日の海雪の様子を思い出しながら。
「あのう」
 沈黙を破って、少年が話し掛けた。
「なーに」
 海雪が少年に目を向けたその時、少年は海雪の足元に何かがいるのを発見した。それは、小さなヤドカリだった。
「あっ、ヤドカリ」
「えっ、何処何処」
 嫌がったり恐がったりするかと思えば、海雪は意外に落ち着いていた。
「うわあ、かっわいい」
 恐る恐る指でヤドカリの貝を突付いては、くすぐったそうにくすくすと海雪は笑った。その笑い声と笑顔が眩しくて、少年はガラスの瓶にでも詰めて、例えば海辺の砂や波音と一緒に取って置けたらと願った。
 でもヤドカリって、なんか不思議な生きものだなあ。
 少年は海雪と遊ぶヤドカリを眺めながら、首を捻った。
 だって成長して貝殻が小さくなったら、また別の貝殻に引っ越すんだろ。こいつ、今は白に茶色い模様のちっちゃな貝だけど、次は緑とかサファイアみたいな、ど派手な色の貝に収まったりして……。あれっ、でも待てよ。
 少年ははっと閃いた。
 あっ、そっか。そんなふうに貝殻が変わると、あたかも古い貝のヤドカリは死んで、新しいヤドカリが誕生したみたいに思えてしまう。けどヤドカリ自体は、死んでなんかいないんだよ。
「ねえ、海雪さん」
 少年は夢中で、海雪に声を掛けた。
 なあに。
 少年の声に、海雪は無言で頷いた。
「この前、どうせいつか、みんな死んでしまうのに、なぜ生まれて来る必要があるんだろう、みたいなこと言ってたよね」
「そんなこと言ってたっけ」
「言ってたよ。俺、今その答えを思い付いたんだ」
「ほんと、凄ーい」
 そう言いつつも、海雪は、ふわーあ、と眠そうに大欠伸。しかし少年は気にせず、熱く語り出した。
「ラジオでさ、いつだったか、花とか蝉とかさなぎとか、そんな話してたんだけど。確か、蝉や蝶は成長するに従って姿を変えていくし、花は散って枯れてしまうけど、ちゃんと土に種を残すって」
「うん」
「詰まり、生きものは姿形は変わっても、ちゃんと生き続けるってことなんだよ。さなぎは全然動かないから、一見生きてるのか死んでるのか見分けがつかないけど、やっぱりちゃんと生きてて、その期間が無事終わったら、見事毛虫から蝶に変わってるしね」
「そうね。それで」
「だからこれって、例えばヤドカリが古い貝から新しい貝に引っ越すまでの、如何にも中途半端な時期に似てないかな」
「ああ、成る程ね。そう言われてみれば、確かに似てるかも」
「でしょ」
 少年は得意げに続けた。
「だからさ、俺思うんだ。この地球上の生きものって言うのは大体みんな、同じような作りをしてて。うん、だから人間にもきっと、さなぎに当たる時期みたいなのが、ちゃんとあるんだよ」
 ここまで言うと、少年は一息吐いて深呼吸した。
「さなぎに当たる時期」
「うん。それが、人間にとっては多分、死、なんだよ」
 死、という言葉を少年は、小声で囁くように告げた。
「えっ、人間にとっては多分、何って言ったの。ごめん、聴こえなかった」
「だから。人間にとってのさなぎは、死ぬ、ってことなんじゃ、ないかな」
 今度ははっきりと、死ぬ、と発音した少年だった。
 えっ……。
 すると海雪は吃驚して、少年をじっと見詰めずにはいられなかった。
「ごめん。そうだったらいいなあって、ちょっと思っただけ。気に障ったら、ほんとごめんなさい」
 謝る少年に、けれど海雪はかぶりを振った。
「人間にとってのさなぎは、死……。うん、そうかもね。そうだったら、本当にいいね」
 海雪は健気に、微笑んでみせた。
「詰まり三上教授の説によれば、わたしも死ぬんじゃなくて、ただ、さなぎになるだけってことなんですね」
「えっ、三上教授……。うん、ま、そういうこと」
 少年は照れ臭そうに、咳払いしながら頷いた。
「ありがとう。わたしの為に、一生懸命考えてくれて」
 海雪は海に目を向け、じっと水平線を見詰めた。
「さなぎになるんだったら、死ぬことも、そんなに恐くもないかもね……」
 海雪の足元をヤドカリが通り過ぎる。くすぐったそうに笑った後で、ヤドカリに向かって海雪が囁き掛けた。
「きみもおんなじね。古い貝から新しい貝に引っ越すまでの間、きみは不安で不安で死んだような気分になるんだね。でも新しい貝に収まった時きみは、丸で新しく生まれ変わったみたいに喜びでいっぱいになるの。
 そして海辺に打ち上げられた古い貝殻を見付けた時、きみにはもう、その貝殻の記憶は残っていないけれど、それでも何だか無性に懐かしさが込み上げて来て、きみは訳もなく泣きたくなるんだね」
 へえ、海雪さん、凄い。俺なんかより、ずっと詩人じゃないか……。
 少年は眩しそうに、海雪の横顔を見詰めた。

「ねえ、もっと話して。何でもいいから。きみが今、思っていること」
 じっと見詰め返す海雪に、少年は頷き、照れ臭そうに話し始めた。
「例えばね、死ぬって、なんかとっても不自然な気がするんだ」
「不自然」
「そう。だって俺が死んでも、この世界は続いてゆくんだよ。俺がいなくても、俺が存在しない世界と時間とが、延々と続いてゆく訳。あたかも俺が存在していた時の方が、何か特別な、なんかの間違いだったみたいな感じでさ」
「うん」
「じゃ、どうなるのが俺にとって自然かって言うと、例えば俺が生まれるのと同時にこの世界が始まって、俺が死んでゆくのと同時にまた、この世界も終わってしまうんだ。それだったらさ、なんか納得出来るかなって」
「ああ、成る程。でもそれって、凄い我がままじゃない。自己中心的って言うか、地球は俺様の為に回ってるぞみたいな」
「そうかな。うん、そうかも」
 少年は照れ臭そうに苦笑いした後、気を取り直し話を続けた。
「じゃ、次に水平線」
「水平線」
「うん。この前、水平線をじーっと見てて思ったんだけど。水平線って、生と死の境界線なんじゃないかなあって、気がしたんだ」
「生と死の境界線」
「そっ。だから水平線の下の部分、詰まり海が俺たちが生きてるこの世界で、水平線の上の部分、詰まり空が死後の世界なのかなあって」
「へえ、空が死後の世界。じゃ、天国かな」
「うん、だったらいいんだけど」
「そうね」
 海雪は空を見上げながら、ため息を零した。
「海は空から降り注ぐ太陽の光を元に、自らの中に命を産み、育む。海は命が思い切り躍動し、生きる場所。そして空は、生き抜いた命が魂となって再び帰ってゆく場所。詰まり空は、命のふるさとってところかな」
「へえ、空が命のふるさと。成る程ねえ」
「だから、死ぬっていうのは、終わりとか何もなくなってしまうとかじゃなくて、命のふるさとに帰るってことなんだよ」
「命のふるさとに帰る、死ぬっていうのは」
 真剣に聞き入る海雪に、しかし急に少年は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 俺の話なんか、ただの空想なのに……。
「ま、こんなところかな。今んとこ俺が考えてる、命に関する仮説みたいなものは」
「うん、分かった。ありがとう。とても参考になりました、三上教授」
「いえいえ、海雪教授には敵いませんから」
 ふたりで笑い合った後、海雪は立ち上がりじっと海を見詰めた。
 海辺には、夜明けの波音だけがしていた。それからCOUGAR、風の放送局のお喋りだけが……。
 不意に海雪が呟いた。
「そっか、分かった」
「何が」
「だから」
 海雪は興奮気味に、少年を見詰めながら言った。
「わたしが死んだら、その瞬間、包まれるの」
「包まれるって、何に」
「だから、この世界によ」
「この世界に」
「うん。そしてわたし、世界とひとつになるの。世界の一部になって、じゃなくて世界そのものになって。詰まり、わたしが世界になるの」
 わたしがって。海雪さん、すっかりもう自分が死ぬつもりでいるのかなあ。
 少年はため息を零した。けれど海雪はじっと、遠い水平線に目を向けていた。
 少年も海を見詰めた。
 ああ、きらきらと朝陽に煌めく、波の眩しさよ。
 けれど同じ方角に目を向けながら、ひとり海雪の心は既にもう遥か遠い世界の彼方にあるのではないか。
 少年には、そんなふうに思えてならなかった。例えばそこは、自らの死期を悟った者のみが到達し得る境地、詰まり彼岸……。
 海雪は続けた。
「そしてわたしは、この世界をじっと見守っているの。子供たちや、動物たちや小さな生きもの、花、植物……。それから嘆き悲しむ人たちを。勿論きみのこともね。わたしはこの世界で生きるみんなのことを、ずっと見ているの。ずっと、いつまでも、いつまでも」
「いつまでも」
「うん。無限に、永遠に」
「永遠に」
「そう、永遠に。わたしね、以前こんな詩を書いたの」
「詩」
「うん。ちょっと聴いてて」
 海雪は目を瞑り、自らの詩をゆっくりと口遊んだ。
「終わることなく、続いてゆくこと
 消えることなく、残ってゆくこと
 離れることなく、そばにいること
 去ってゆくことなく、ここにいること
 じゃ、永遠って、ぼくたちのこと
 きみがぼくにI LOVE YOUと囁き
 ぼくがきみにI LOVE YOUと答える
 さようならのかわりに
 終わりのかわりに
 消えていなくなるかわりに
 そんなぼくたちの囁きが、時をつくり
 潮騒を奏で
 星の瞬きをうみ出してゆく
 そう、永遠って、ぼくたちのこと」
 永遠かあ。なんかアルチュール・ランボーみたいだ。海雪さん、かっちいい。
 少年はじっと、海雪を見詰めた。
 目を開くと海雪は、波打ち際へと勢い良く走り出した。ところが直ぐに、海雪の足はふらついた。
 海雪さん、危ない。
 少年は息を呑んだ。予想通り、海雪は足がもつれ、前方へスローモーションで倒れ込んだ。砂上の為、倒れる音はしなかった。
「海雪さん、大丈夫」
 少年は駆け寄った。海雪のそばには、さっきのヤドカリが。海雪はそれに気付いて、ヤドカリに話し掛けた。
「ふう、危なかったね。わたしに潰されるとこだったよ、ヤドカリくん」
 海雪はよろめきながらも起き上がり、ヤドカリを自分の手のひらに載せた。
「さあ、思いっ切り、海で遊んでおいで」
 そう叫ぶと海雪は、勢い良くヤドカリを海へと放り投げた。
 ポッチャーン……。
 しばらくすると、ヤドカリは海の面に貝の頭を出し、波に揺られながら泳ぎ出した。ゆらゆらと気持ち良さそうに波に乗り、沖へ沖へ、水平線へとヤドカリは遂に消えていった。
「あーあ、行っちゃった」
「行っちゃったね」
 COUGARからは、風の放送局のお喋りが聴こえていた。
『今日も当たり前のように夜が明け、朝が訪れたけど、そしてそんな毎日が当たり前のように過ぎてゆくけれど、本当に当たり前なのかな。余りに当たり前過ぎるから、ぼくたちは何の疑問も持たずに日々を生きているけれど、本当にそれでいいんだろうか。
 きみとこうして生きていることで、ぼくは今日という一日が当たり前に来ることに、深い感謝の念を抱くことが出来た。そして本当は決して当たり前なんかじゃなくて、朝が今日が普通に訪れるということは、実はとても凄いこと、奇蹟と言ってもいい位それは素晴らしいこと、かけがえのない大事なことだったんだと、ぼくはきみから教わったんだよ。今ぼくたちの目の前を音もなく通り過ぎてゆく、ありふれたこの朝のひと時の中で。今きみと分かち合う、この時間の中でね。
 ありがとう。では次の曲。ノーバディ、普通の朝。どうぞ』
 少年は初めて耳にする、バンド名か個人名なのかすらも定かでない歌手名と、加えて初めて聴く曲に戸惑いつつも、COUGARに耳を傾けた。
 海雪は歌に合わせて、また踊り出そうとしていた。けれど足が思うように付いてゆかない。もどかしさを覚えながら、海雪は踊るのを諦めた。代わりに波打ち際でサンダルを脱ぎ、歌を口遊みながら波と戯れた。
 いつしか風の放送局は終わりを告げ、COUGARはいつもの波音へと変わった。海雪もとぼとぼと、海辺から去って行った。


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