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(小説)交響曲第五番(二・四)

(二・四)第二ラウンド・2分30秒

 函館桟橋から、出航時刻十時五分、青森到着午後二時予定の大雪丸に乗り込んだ。函館駅で切符は無事買えたが、乗船名簿を書かされた。住所は適当に書き、氏名は矢吹昇と記した。それを乗船の際ビクビクしながら係員に渡したが、特に何も言われなかった。ほっとため息を零し、普通船室の椅子席に腰を下ろした。席はほとんど空いており、船内も静かだった。緊張の為乗船前は席には着かずデッキにでもずっと佇んでいようかと思ったけれど、疲労のせいかどうしても座りたかった。
 よく晴れた夏の朝だった。体全部汗ばんでいた。窓から函館の街と海が見える。いよいよ生まれた大地、北海道を出てゆくのかと思うと、感傷的にならない筈はなかった。あの北の寂れた港町、留萌の景色が、そして母幸子の面影が脳裏に甦った。おふくろ、今頃どうしているだろうか。気にはなったが今の自分は、自分が逃げることで精一杯だった。おふくろの為にも、自分は逃げるしかないのだと。自分はもう雪結保雄ではない、矢吹昇なのだ。自分にそう言い聞かせた。
 その為には先ず、北海道を脱出しなければならない。汽笛を鳴らし、大雪丸が無事函館を出港した。ふう、良かった。そして、とうとうここまで来てしまったのだという思いが絡み合った。緊張しているのにも疲れ、しばし自分は眠りに落ちた。
 居眠りから醒めると、激しい空腹に襲われた。結局昨夜は何も食べていなかったのだから、仕方がない。まだお昼には早かったが、自分は席を立ち普通船室から船内食堂へと移動した。そこでカレーライスとラーメンを食べた。再び普通船室に戻って席に座ると、腹が満たされたせいか今度は熟睡した。
 はっと気付くと、誰かが自分の肩を叩いていた。連絡船の乗務員だった。
「お客さん、もう青森に着きましたよ」
 いつのまにか津軽海峡を渡り、大雪丸は既に青森の桟橋に着岸していたのだった。その間自分は無防備にも、完全に眠ってしまっていたらしい。そして呆気なく北海道を脱出するのに成功したという訳だった。きょろきょろ見回しても船内に客の姿は既になく、残っていたのは自分ひとり切りだった。マジソンバッグと傘を握りしめ急いで立ち上がると、自分は連絡船の降り口へと急いだ。

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