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(小説)風の放送局(六)

(六)少女(五輪真弓 一九七二年)
 一九八〇年×二〇一〇年の八月一日

 月が替わって八月。昨日七月三十一日、海雪は来なかった。月が替わっても変わらず海雪が来てくれるのか、少年は心配でならなかった。
 COUGARに耳を傾ければ、すっかり耳に馴染んだ風の放送局の声がする。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月一日。無事新しい月が迎えられたね。これからも一日一日、感謝と共に生きよう』
 一日一日、感謝と共に生きよう……かあ。良し俺も、そうしよう。後は、海雪さんが来てくれれば、言うことなしなんだけどなあ。
 ふっわーーっ。
 いつもの大欠伸で、そのまま砂浜に寝転がると、少年は早速うとうとし出した。すると、その耳に声が囁く。海雪の声だった。
「おはよう」
 あっ、海雪さんだ。よかったあ。
 少年は一安心。
「おはようございます」
 少年は急いで目を開け、上体を起こした。海雪はCOUGARの隣りに立ち、スピーカーから流れ来る曲に耳を傾けていた。
 ちょっと古い歌だった。五輪真弓の、少女。
 海雪はラジオに合わせて口遊み、楽しそうに歌い出した。その歌声を、少年は黙って聴いていた。
「仔犬じゃないけど」
「えっ」
 曲が終わると海雪は砂に腰を下ろし、少年に話し掛けて来た。
「昔ね、猫、飼ってたの」
「猫。へえ、どんな」
「ええとね。とっても無愛想で、茶色い縞の野良猫」
「茶色い縞の……。チャトラってやつだ」
「うん、そうそう。小さい時、近くの空き地に捨てられていたのを、わたしが拾って来たんだ」
「へえ」
「どうしても飼いたくて、お母さんに頼んでみたの。でも駄目だって」
「そっか」
「そしたら、お父さんがね」
 お父さんとお母さん……。風の放送局のおっさんが自分の娘さんを心配したり、励ましたりしているように、海雪さんのご両親も海雪さんのことを、一生懸命見守っているんだろうなあ。
 少年はCOUGARに視線を向けた。海雪は続けた。
「生きものの命の大切さに触れる、いい機会じゃないかって、お母さんを無理矢理説得してくれたの」
「へえ、いい人だね」
「ん、まあね」
 海雪は照れ臭そうに笑った。
「それで、寅吉って名前付けて、飼い始めたの」
 とらきち、かあ。
 少年は如何にも無愛想かつ不細工なオス猫の姿を想像して、笑った。
「でも、或る日突然、いなくなっちゃった」
「行方不明」
「うん。お父さんとふたりで、一生懸命捜してみたけど、見付かんなかった」
「そっか」
「だからわたし、お父さんに聞いたの。寅吉は、死んじゃったんだよねって」
 少年は、どきっとした。
 海雪さんの方から、死について話題にするなんて。
 戸惑う少年を置き去りに、海雪は話を続けた。
「そしたら、お父さん。しばらく腕組みした後で、こう答えたの。寅吉は」
「とらきちは」
「旅に出たんだよ、って」
 ああ、旅ねえ。なんか、詩的……。
 少年は感心し、さっきから海雪の話に登場する海雪の父親に興味を抱いた。
 海雪さんのお父さんも、詩人さんだったりして。
「でも寅吉はもうお爺さんだから、旅なんか無理だよって反論したの、わたし」
「ああ、成る程。そしたら」
「うん。そしたらお父さん、寅吉はね、風になったんだよって」
「風」
 ふーん、やっぱり詩人だなあ。
「だから大丈夫。いつでも何処へでも、好きな所に自由に行けるのさ。だって」
「だったら、風のとらきちだね」
「ああ、風の寅吉。いいかもね。それからお父さんは、こんなことも言ったわ。風だったら、帰って来るのも簡単なんだよって」
「帰って来る」
「うん。もしぼくたちの前に帰って来たくなったら、ピューッとひとっ飛び」
「そりゃ、そうだ」
「でもまたわたし、お父さんに反論したわ。風だったら、透明だから全然見えないでしょ。折角寅吉が帰って来ても、わたしたち、寅吉だって気付かないよって」
「そっか。そりゃ、そうだね」
「でもお父さん、苦し紛れにこう答えた。鳴き声で、分かる筈だって」
「鳴き声かあ。ニャーオーッて、猫の声で鳴く風って……。流石にちょっと苦しいかも」
 少年は頭を掻きながら、苦笑い。ところが海雪を見ると、なぜか目に涙を浮かべていた。
「どうしたの、海雪さん」
 吃驚した少年は、咄嗟に尋ねた。けれど海雪は直ぐに涙を指で拭い、笑みを作った。
「ごめん。つい、いろんなこと、思い出しちゃって」
 いろんなこと、かあ。
 ふたりは黙り込んだ。途切れた会話を埋めるように、波の音、そして風の放送局のお喋りが聴こえている。
「あっ、そうだ」
 沈黙を破ったのは、海雪だった。
「どうしたの」
「うん。そう言えば、わたしも寅吉のこと、いつのまにかすっかり忘れてたなあって」
「えっ」
「やっぱり人は、どんな大事な思い出も、大事な人のことも、みんな忘れてしまうものなのね」
「でも、それは」
「例えばわたしが、みんなの前からいなくなったら……」
 海雪は寂しげに、海に目を向けた。
 やばい。
 少年は焦った。
 何とかして、海雪さんを励まさなきゃ。
「でも海雪さんは思い出したじゃない、とらきちのこと」
「えっ」
「だから、今、五輪真弓の、少女、を聴いて」
「あっ、そうか。そうだったね」
 にこっと頷くと、海雪は立ち上がり波打ち際へと歩いた。サンダルを脱ぎ、そして波と戯れた。波は朝陽を浴びてきらきらと眩しく、その煌めきを背に海雪は振り返った。
「帰って来ないかなあ、風の寅吉さん」
「うん、俺も会ってみたい」
「風になった風の寅吉さんは、今頃何処を旅してますか」
 吹き過ぎる潮風に向かって、海雪は問い掛けた。
「案外、今ここにいたりして」
「えっ」
「だって風だから、見えないんでしょ」
「あっ、そうか」
 海雪は照れ臭そうに笑った。少年は立ち上がり潮風に向かって、耳に手を当てた。
「ニャーオーッて、聴こえない」
 少年は笑い返した。
「まっさか」
 かぶりを振りつつも、海雪も真似して耳に手を当ててみた。すると潮風の中に、何かが聴こえた気がした。
「あれっ」
「どうしたの、海雪さん」
「ね、今なんか、聴こえなかった」
「ええっ」
 少年も耳を澄ましてみた。すると確かに、何かが聴こえる。
「あ」
「ね」
「うん。これってもしかして」
「でしょ」
 頷き合うふたりの耳に、その声は聴こえた。
「ニャーオーッ」
 そして突如海岸に、一匹の野良猫が現れた。ふたりは顔を見合わせ、息を呑んだ。
「何処から来たんだろう、あいつ」
 ふたりはじっと、野良猫を見詰めた。
「でもあの猫」
「うん、確かに、チャトラだよ」
 チャトラの方も警戒するように、遠くからじっとふたりを見詰め返していた。
 突然海雪がゆっくりと踊り出した。波打ち際の砂の上で、軽やかにステップを描きながら。
「海雪さん」
 戸惑う少年に、海雪はにこっとウインクしながらこう言った。
「寅吉ってね、わたしが踊ってるといつも、わたしの足に、じゃれ付いて来たの」
 へーっ、そうなんだ。
 頷きながら少年がチャトラを見ると、それまでじっとしていたチャトラが急に走り出した。砂を蹴り、そして海雪の元へ猛ダッシュ……。
「寅吉」
 海雪は自分の足にじゃれ付いて来たチャトラに一言そう呼ぶと、後は黙って踊り続けた。少年もまた黙って、海雪とチャトラのダンスを見詰めていた。
 例の左足を後ろに曲げてのフィニッシュで決めた後、海雪は両腕を広げた。
「やっぱり寅吉ね、元気だった」
 するとチャトラは海雪を見上げながら、答えるように鳴いた。
「ニャーオーッ」
 そして勢い良くジャンプしたかと思うと、海雪の腕の中に飛び込んだ。
「よしよし。元気そうで良かった」
 見ると、確かに無愛想で不細工なオス猫だった。
 でも、死んだ筈じゃ……。だったら、とらきちな訳ないよね。人違いというか猫違いってやつ。
 少年は本当に寅吉なのか、海雪に確かめようとしたけれど止めた。
 折角海雪さんが、寅吉だって信じているんだから、だったらそれでいいじゃないか。海雪さん、あんなに嬉しそうなんだし……。
 海雪とチャトラの抱擁を、少年はじっと見守った。感極まった海雪の目には、涙が溢れていた。
「よし。じゃ、ありがとうね、寅吉」
 海雪がそう囁くと、チャトラは海雪の腕から飛び降り、砂浜に着地した。かと思うと直ぐに駆け出して、どんどん、どんどん砂を蹴散らしながら突っ走り、とうとう砂浜からその姿を消した。
 不思議なことも、あるもんだなあ。
 少年は首を傾げながら、猫が姿を消した方角と、猫が砂に残した小さな足跡を、交互に眺めていた。
 一方海雪の方は何事もなかったかのように、COUGARに耳を傾けていた。COUGARからは例によって、風の放送局の熱いお喋りが聴こえていた。
『会うことと別れることは、同じこと。一緒にいることと離れていることも、結局は同じことなんだよ。
 こんにちは、と、さよなら、は同じ言葉。なぜって。なぜならさよならをした後でも、ぼくたちがこの宇宙の中で生きていること、生き続けてゆくことに、何ら変わりはないんだからさ。だから思い合えば、いつでも何処にいても、ぼくたちは心が通じ合える。
 またいつか会う為に、今は別れてゆくだけのこと。さよならはね、さよならという言葉は、いつかまためぐり会う約束の、そして魔法の言葉なんだよ』
 海雪はCOUGARに向かって、頷いていた。
 風の放送局はラストナンバーの後、波の音に変わった。詰まり、放送終了。
「じゃ、わたしも帰るね」
 えっ。
 少年は寂しさを覚えつつも、にこっと笑って頷いた。
「うん。じゃまた今度」
「うん。じゃ、さようなら」
 さよならは、いつかまためぐり会う約束の言葉かあ。
 少年は、COUGARを見詰めた。
 本当かよ。
 ひゅるひゅるひゅるっと潮風が吹いて、砂に残された野良猫の足跡は、いつか消え去っていた。


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