セルフレジに私の値段を聞いてみたい 4

初めから読む→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 1|青野晶 (note.com)
前回の話→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 3|青野晶 (note.com)


■山本美咲【5】
髪が濡れていることに気付いて目が覚めた。泣いていたらしい。桜の夢を見ていた。スマホを見る。午前十時。終わった。一限なんか履修するもんじゃない。私はベッドから起き上がり、鈍い頭を働かせた。五限は……卒論の中間発表だっけ。あ、USB家に置いてきた。もう休もうかな……。いや、ここで休んだら卒業できない可能性が……。しょうがない。私はしぶしぶ大輝の家を出た。
 
「おかえり」
 家に帰ってリビングのドアを開けると、ママが不機嫌そうにひんしゅくした。
「うわ、なに、有休? なんかあったの?」
「祝日だよ」
 ソファを見たらパパもいた。そっか。祝日。なのに私は大学。広子はたぶんもうどっか行った。まさか朝から大学に? いや、ショウタくんとデートだな。その証拠に、リビングのテーブルには化粧道具が乱雑に散らばっている。放置されたボックス型の化粧道具ポーチからは商品バーコードのタトゥーシールが飛び出していた。
「美咲、もう当日に外泊の連絡やめて。前日までに言ってよ。パパが夕飯用意しちゃうでしょ」
「はいはい」
「パパは優しいから何も言わないだろうけど。仕事から帰ってきて夕飯作ったのに娘が帰ってこないなんて、そんな切ないことないのよ」
「……パパごめんね!」
 わざとらしく声を作って手を合わせる。パパはテレビを見ているふりをしながらちょっと笑って「ん。全然いいよ。作るの好きだから」と言った。
「私もパパのご飯大好きっ」
 語尾にハートをつける。パパにこの喋り方して損したことはない。
「就活はどうなってるの? 大学の就職支援課には行ってるの? 面接の練習とか、就活ガイダンス、筆記試験の勉強とか」
「ひみつ」
「真面目にやってるんでしょうね?」
「うーん。まあ」
 私は曖昧に答えながら冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだ。一回お茶を飲むだけで流しにコップを置いて、次お茶飲む時はまた新しいコップを出す。一日中これをやってるから、洗い物は私のコップだらけ。これまでママには二万回くらい「さっき使ったコップ使いなさいよ」って怒られてる。でもなんかやめられない。だからママは毎日コップばっかり洗ってる。
「卒業後無職だけはやめてね。中学から大学まで私立に通わせたんだから。パパもママも稼いだお金ぜーんぶ美咲と広子の教育に使っちゃったんだから。養うなんて絶対無理よ。就職だけは絶対して」
言われなくてもそんなことわかってる。と思った。大金かけて私ができたっていうのに、どうして私はそれに見合う価値ある人間じゃないんだろ。そう思うけど。でも、でもまだ狙える。一発逆転。私を最高額で買ってくれる男の存在。パパ、ママ、どうぞ安心して。絶対学費分、買わせるから。
広子の化粧道具箱に入ってた商品バーコードのタトゥーシールをぴっと引き出した。
「美咲、どこ行くんだ?」
「大学」
「俺、暇だから駅まで車で送ろうか?」
「パパ優しい~! すぐ準備するねっ」
「パパ、甘やかさないで。そういうことするから我儘な子になるって、ちょっと、美咲!」
 ママの小言を聞く前に後ろ手でリビングのドアを閉めた。
「部下からよく愚痴を聞くんだよ。娘が冷たいって。たぶんだけど、子育てにちゃんと向き合わなかったんじゃないかな。……って毎回言ってる手前、俺も美咲とのコミュニケーションは大事にしたいと思ってて……」
 リビングからパパの言い訳が聞こえた。「叱るのはいっつも私の役よね」とヘソを曲げるママのしかめっ面も、それをなだめるパパの姿も思い浮かんだ。
 私は広子の化粧道具ポーチからくすねた商品バーコードを持って洗面所に向かった。左手首をティッシュで拭く。透明のフィルムを台紙からはがし、商品バーコードを左手首に押し付けた。しばらくそうしていると、台紙がするする動くようになって、スライドさせた。商品バーコードの黒く短い直線は、私の手首にも整列した。「洗っても取れない」と広子が言っていたことを思い出す。私はやっと、広子の隣に並べたような気がした。
 
「ママに『迎えに来て』って言われると『ええ~』と思うのに、美咲を送るってなると全然面倒じゃないの、なんでなんだろうな」
 私たちは車中で、顔を見合わせて笑った。うちの最寄り駅には京成線の各駅停車しか停まらないから、パパはJRが通ってる■■駅まで車で送ってくれる。ママは仕事で疲れると京成線に乗り継ぐのが面倒になって「■■駅まででいいから迎えに来てくれる?」とよくパパを呼び出すのだ。パパはそれを「ええ~」と思いながらしぶしぶ対応しているらしい。けど、私には自分から「送る」と言うのだ。ママがさっき怒った理由の何割かは、これだと思う。
パパが四十二歳の時、十九個年下のママとの間に生まれたのが私だ。その頃ママは大学を卒業したばかりだった。私の今の年齢はその時のママに近い。しかも、私はちょっとげんなりするくらいママと似ている。パパが私を車で送るのが嫌じゃない理由は、わかるような気がした。
「また近々お友達の家に泊まるか?」
「ええ? ……うん、たぶん」
「そしたら、どら焼き持って行かない?」
「どら焼き?」
「この前おいしい店を見つけたんだよ。今から行く駅の近く。美咲にも食べさせたいなと思った。たくさん買って、美咲のお友達にも。ああでも、どら焼きなんて今の子は食べないか」
「ううん。持っていきたい。みんな喜ぶと思う」
 パパが私の嘘に気付いているのか、気付いていないのかはわからない。七割くらいはわかってる。バレてるってことは。でも三割くらい祈らせてほしい。パパにとって私は、嘘つきじゃないって。
「大学で勉強頑張ってて、えらいな」
「うん。ありがと」
「もう四年生か。懐かしいな。ママは大学を主席で卒業したから、卒業のお祝い、帝国ホテルでやった」
「え、そんなことしてくれるイケメン見たことない」
「ここにいるけどな」
 私はパパの横顔を見る。あーあ、私がママならよかったな、と思った。
「私、主席で卒業なんか絶対むりだもん」
「ママは勉強おばけだから」
「私ママの娘なのに全然勉強できないし、ピアノも弾けないし、スペックで見たら完全にママの下位互換っていうか、」
「いいんじゃない」
「なんで?」
「かわいいから?」
パパは車を停めて「どら焼き一つだけおやつに食べない? 美咲が気に入ったら、たくさん買うから。ちょっと待ってろ」と言って、車を降りた。私はパパの背中を見つめながら、もう一度、私がママであればよかったと思った。
 
■山本美咲【6】
バイトで入ったプラネタリウムは、一年生の頃ギリシャ文化概論の講義で聞いたコロッセウムに似ていた。星を映すための天井はドーム型になって、前方には小さな舞台まであった。その小さな舞台に、大輝は立っていた。
「みなさん、こんにちは! 親子プラネタリウムにようこそ! 司会をつとめます、大輝お兄さんです。普段は■■大学の大学院で宇宙の研究をしています!」
 すごいっ、とプラネタリウムにお母さんたちの憧れのため息が満ちる。お母さんたちの隣に座る未就学児はなんのことやらという顔をしていた。大輝はちょっと照れたように頭を掻いて解説を始める。
「今日はギリシア神話と星座の話をしたいと思います」
 照明が落ちていく。暗くなるほど寒くなっていく気がした。本物の宇宙が降りてきたみたいで、会場のいたるところから「こわい」の小さな声が聞こえた。かわいい。次の瞬間、ドームにいっぱいの星がぱっと弾ける。「わあ」のさざめきが、小さな「こわい」を打ち消していった。
「まずは、みんなもよく知っている鳥、からす座の話をします。からす、わかるかな?」
 暗闇の奥から「わかるよー!」の叫びと手を勢いよく挙げる気配があって、それが会場のあちこちに伝播していった。「しーっ」とお母さんたちの慌てる声。大輝は「そう。みんなもよく知っている、あの黒いからすです」と、小学校の先生みたいな口調で続けた。
 大輝によると、からすはもともと、太陽神アポロンに仕えていたらしい。その時のからすは黄金の羽を持つ美しい鳥だったという。人の言葉を話すことさえできた。ところがこのからす、アポロンに嘘をついてしまったために、アポロンの怒りを買った。アポロンはからすから黄金の羽と人間の言葉を奪い、からすを真っ黒にした。さらにからすは宇宙にはりつけにされたのだという。
「ここの四つの星を見てください」
 大輝が赤いレーザーポインターでプラネタリウムの一点をさす。そこには、台形の形に結べる星が四つ、小さなネオジム磁石みたいに輝いていた。
「からす座で輝くこの四つの星が、からすに打たれている釘です。太陽の神様のアポロンは、嘘つきのからすに四つの釘を打ち付けて、宙にとめたのでした。からすはどんな気持ちだったでしょう? ……そうだよね。とっても痛かったよね。だから、みんな、絶対に嘘はついちゃだめだよ!」
 闇に慣れた目でプラネタリウムを見回すと、お母さんたちがしきりにうなずき拍手をしていた。
「デネブ・アルタイル・ベガの夏の大三角形は有名ですが、実は冬の大三角形もあります。シリウス・プロキオン・ベテルギウスです。……難しいかな? おおいぬ座とこいぬ座とオリオン座の一等星をこう結ぶと……ほら、サンカク。このサンカクの中には、ある生き物がいます。なんでしょう?」
 夜空にはまた、結んだら四角形になる星が四つ映し出された。でもからす座じゃない。もっときれいな四角形だから。星がレーザーポインターの赤い軌跡で結ばれていく。やがて線の上に、螺旋状に先細りする角を生やした馬の絵が浮かび上がった。ユニコーンだ。
「いっかくじゅう座です。いっかくじゅうは、ギリシア神話ではユニコーンと呼ばれています」
 あれ、と大輝のつぶやき。それをマイクが拾う。何やら慌てているらしい。
「まずい。レーザーポインターの電池切れた」
 大輝があたりをきょろきょろする。マイクが大輝の独り言をしっかり拾っていたので、お客さんは一斉に笑った。私も非常口前に立ったまま笑った。
「ちょっ、ちょっと待っててくださいね!」
 大輝は私を一瞥すると、何も言わずに走って非常口から出ていった。
「すみません。まさか電池が切れるとは……」
 帰ってきた大輝は笑った。息が上がってる。私もお客さんたちと一緒に笑った。大輝は息を整えると、いっかくじゅう座12番星の話に移った。
「いっかくじゅう座には、この星を中心とした、薔薇星雲というものがあるんです。宇宙には神話も、薔薇もあるんです。不思議ですね」
 ドーム型の天井いっぱいに、薔薇星雲が花開いた。私も他のお客さんも、この日一番の歓声をあげた。
 
「あのさ、もうちょっと、ちゃんとしてほしいんだけど」
館長さんからバイト代を受け取ってプラネタリウムを出た時、大輝にそう言われた。
「え、ちゃんとって?」
「バイトだよ。館長さんも困ってたの、わからなかった?」
 大輝は心底疲れたと言いたげに私をにらんだ。
「美咲ちゃん、ただプラネタリウム観てるだけだったじゃん。お客さんじゃないんだよ? 俺たちバイトだったんだよ? ほら、レーザーポインターの電池切れちゃった時とか、ああいう時にバックヤードに走って持ってこないと。そういうの、なんでやらないの? もっと真面目に働くこと考えてほしい。お金もらってやってるんだから。お金もらってやってるのに、どうして動こうと思わないの?」
私は大きく目を見開いた。
え、なんでって? 私がやる必要、ある? と思ったから? だって私、結局男に買われるのに? 今? 今私が何かを頑張る意味、ある?
「美咲ちゃん、ちょっとぼーっとしずぎだよ。就活もさ、ちゃんとしてほしい。この前も『また面接官と喧嘩しちゃった』ってへらへらしてたけど、面接官と喧嘩したなんて人、聞いたことないよ。今日の働きぶり見てると美咲ちゃんに何か原因があるとしか思えないんだけど」
「うっさいな。今日のことと就活のことは別でしょ。どこも受からなかったらバイト続けるだけだし」
 大輝は大きなため息をついた。
「もう春には卒業だから、今のうちに言っておくけど。卒業したら実家に挨拶に来てほしい。でも、その時に『大学卒業後から結婚までは塾でバイトするつもりです』とか言ってほしくないんだ。わかるでしょ?」
 わかる。わかるな。わかるから、私は何も言えなかった。■■大学院卒の息子の彼女がフリーターでは大輝の両親も浮かばれない。大輝より良い人を探すか、就活をするか。文部科学省に内定している■■大学院卒の男より稼ぎそうな男を探して付き合うまで駆け引きするのは道のりが長い。っていうか、今更ダルすぎる。それよりは就活の方が楽な気がした。
「しょうがない。真面目にやるよ、就活」
「俺もう終わってるから手伝うよ。なんでも聞いて」
「はあ。余裕でいいね。文部科学省なんていったいどうしたら内定もらえるわけ?」
「別に、四年間頑張ってきたことを話しただけだよ。館長さんに働きぶりを認められて特別展のバイトリーダーをやったこととか」
「まあ輝かしい活動実績ですこと」
「美咲ちゃんだって何もしてこなかったわけじゃないじゃん。科学館のバイトだってしたでしょ。今日のプラネタリウムだって……。まあ、働いてたとはいえないけど、面接で失敗経験を聞かれた時のエピソードくらいにはなるんじゃない?」
「あ、大輝。おなかすいてる?」
 私は話をそらした。余白でいっぱいのリュックの底にはどら焼き屋さんの紙袋がある。
 大輝は話の腰を折られたことが不満みたいだったけど、空腹には勝てなかったようで頷いた。
「うん、まあ」
「これ、パパから」
 私は、朝パパに持たされたどら焼きの紙袋を大輝に見せびらかした。
「二人で食べようと思って」
 紙袋の口を開くと、どら焼きが六個も入ってた。
 大きな池のある公園で、大輝と二人、ベンチに座って、どら焼きを全部食べることにした。夕飯は入らないだろうな、と思った。おやつにどら焼き三つは重すぎる。重すぎるけど、パパからもらったものだから別によかった。
 私たちは黙ったままでそれぞれ三個のどら焼きを食べきった。大輝に「おいしい?」って聞こうかと思ったけど、やめた。
「今日はうちに来るよね?」
 これで喧嘩は終わり、という口調で大輝は切り出した。私はとっさに答える。
「あ、ごめん。明日バイト」
「明日?」
「うん。帰る」
「……そうか」
「いろいろありがとう。私、心いれかえて就活頑張るね」
 私は笑って手を振り、駅の方へと歩き出した。歩きながら、パパにLINEを打った。「どら焼き、みんながおいしいって喜んでた!」。
 
■山本美咲【7】
大学一年生の夏休みに行った科学館が、ドームの奥深くからぼんやり浮かんできた。それは確かな輪郭を持って、私を吸い込んでいく。私は科学館の最上階にいた。ガラス張りの天井から夏の陽が差し込んで眩しいあの場所に。大学一年生の夏休み。開館前の、夏休みこども向け特別展。私たちは、そこに二人で立っていた。
私も星野結も、日雇いのバイト扱いだった。朝は九時から準備しなくちゃならなかったからそれはちょっとダルいなと思ったけど、特別展終了の十四時まで働けばバイト代一万円がもらえる。準備の大部分とガウス加速器の原理説明は星野結に任せて、私は子供と遊んでればいい。それなら楽してお金もらえそうだと思った。
ガウス加速器班のブースはシンプルだった。机を四つ並べて、星野結に言われた通りにプラレールを置いていく。星野結はあの解読困難な文字でいっぱいのノートを広げて私にレールの繋ぎ方を指示してきた。円環のコース。上下に波のある曲線コース。何度かの傾斜がある直線コース。そういうものを机の上に並べていく。コースをならべ終えると、星野結はテープでネオジム磁石を固定し始めた。手伝おうとして私もネオジムをコースにセットしようと思ったけど、「そこじゃない」と意外と大きな声ではっきり言われるので何もしないことに決めた。暇だから、机の隅に広げられていた星野結のノートをめくってみる。でも、何が書いてあるのかやっぱりわからなかった。
「かわいい字」
「バカにしてんだろ」
 レールから顔を上げた星野結は明らかに不機嫌だった。
「してない。小学生の字みたいでかわいいって言った」
「だから、その『かわいい』ってバカにしてんだろ」
「なにこの人。むず」
「うるせえ手伝え」
 私は余っているプラレールを集めて段ボールに詰めた。ガウス加速器班に割り当てられたブースはこの机四つと、パイプ椅子が二つ。仕方なく、段ボールは足元に置いた。
 正直私はガウス加速器を見飽きてた。最初こそびっくりしたけど、何度も見てしまえば、あー、はい、加速ね、加速。みたいな感じになってくる。ネオジム指に挟むとめっちゃ痛い。一回爪剥がれかけたからね。なんでこんなもの百均に売ってんの。でも私ノートを渡されれば星野結よりずっと上手な字で書ける。「ネオジムきけん」って。
ガウス加速器ブースには意外に人が集まった。星野結の解説は子供たちには届いてないけど、男の子たちは机にプラレールが置いてあるだけで目を輝かせたし、初めて見るガウス加速器に興奮した。賢そうな人が賢そうなことを喋ってて、その人の作った工作で子供が楽しそうに遊んでいることは、親にとって嬉しいことのようだった。きっとこの子、将来賢くなるわ。そんな期待のあふれるブースで、私は、ガウス加速器で遊ぶ子供に「振り子と同じ原理らしいよ~」と繰り返してた。
「ねえ、これで遊ぼうよ」
 急に四歳くらいの男の子が、私の足元の段ボールを指さしてしゃがみこんだ。一瞬の隙に、余っていたレールの一部を取られる。「あ」と手を伸ばしたけど、すでに男の子は直線のレールを自分の武器にしていた。
「たたかいごっこ!」
 男の子は直線レールで私の腕に斬りかかった。私もごっこ遊びにのってやる。
「うわー! 斬られた!」
「もっとすごい技みせてやる!」
 男の子は素早くレールを動かして私の腕を斬り続ける。私は「いたい、いたーい」と笑っていた。斬りつける手に力がこもっていく。いたい、いたい。いたい。笑いながら、私はやっぱり、誰かに喜んでもらうための嘘は好きだと思った。
突然、男の子の手からレールが消えた。何が起きたのかすぐにはわからなくて、私も男の子も固まった。隣でガウス加速器の説明をしていた星野結が黙っている。振り向くと、星野結の左手には男の子が持っていたはずの直線のプラレールが握られていた。星野結はブースの内側から外に出ると、しゃがみこんで男の子に目線を合わせた。
「これは、人を斬る道具じゃない」
 星野結の横顔は厳しく澄んでいた。日焼けを知らない肌は白く、意外に高かったらしい鼻がくっきりと私の網膜に焼き付いた。
男の子のお母さんが慌てて「すみません!」って謝るから、私は星野結のぶんまで愛想よく両手を振った。
「いいんですよー! ああ、たのしかったぁ! また来てねー!」
 茫然としていた男の子も、私の反応を見て安心したみたいだった。男の子とお母さんは私だけに手を振り返して、ブースを去っていった。
 特別展の終了間近、館長だという人がガウス加速器班に来た。なんだろと思ったら、館長は「来場者アンケートの結果、このブースが一番人気だったんだ」と言った。
「え、うそ」
「本当ですか」
 私と星野結は同時に言って顔を見合わせた。星野結の表情には自信がみなぎっている。「やっぱりな。ガウス加速器って面白いから」。そう言いたげに。私は「磁石に鉄球ぶつけてただけなのに?」と思った。
「素晴らしい展示をありがとう。これはささやかだけど……」
 館長が封筒を差し出す。開けてみると、現金三万円が入ってた。バイト代一万円に加えて、一番人気ボーナス三万円! 私は心の底から叫んだ。ありがとうございます!
「どうする!? 四万どうする!?」
帰り支度を済ませた私と星野結は完全に浮足立ってた。
「まっすぐ帰るつもりだったけど、さすがに祝うか」
「どこ行こう!? でもさっき調べたんだけど、良い店はどこも夕方からじゃないと開いてない」
「じゃ、ここで時間つぶすか」
 私たちは科学館の常設展のチケットを買って、夕方までの時間を潰した。星野結は展示を見ながらひたすら解説し、私はそんな早口で語られてもなにもわからんと思いながら「へえ~」と雑に相槌を打ち続ける。でも夜空の星を紹介するブースだけは、私も興味が持てた。
「俺はうお座だけど、山本は何座なの?」
「六月十四日生まれだから、ふたご座」
「カストルとポルックス」
「うん?」
「ふたご座の兄と弟の星の名前。兄が二等星で、弟が一等星」
「うちの姉妹じゃん」
「山本、姉がいるの?」
「ちがう。妹。私と違ってフルートが吹けてピアノが弾ける妹。私は何もできない。だから妹が一等星で、私が二等星」
 星野結はそれには何も答えないで、カストルとポルックスの神話を語りだした。戦争中に死んでしまった兄と、生き残った弟の物語。私はあくびを相槌代わりにして聞いた。同時に、星野結の真剣な横顔を見ていた。男の子からプラレールを取り上げた時の、静かに怒った横顔はずっと、私の隣にあった。

続き→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 5|青野晶 (note.com)

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