セルフレジに私の値段を聞いてみたい 3

初めから読む→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 1|青野晶 (note.com)
前回の話→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 2|青野晶 (note.com)


■山本美咲【4】
大輝と付き合い始めた大学一年生の秋に、私はいろんなことを辞めた。たとえばジム通い。それからバイト。掛け持ちしていた■■クレープと■■アイスクリームのバイトをやめた。それでもやっぱりお金ほしさに塾講師を始めることにした。放課後の中学生しか相手にしない塾講師は、平日の夕方から夜だけ働けばいい。何より座っててお金もらえるのが楽だと思った。
「真面目に授業受けてたってことにしといてやるから、全員宿題出しな」
授業が始まった瞬間に私はそう言う。授業なんかやったって生徒たちはまともに聞かない。でも「授業中に内職で宿題ができるのはラッキー」と思う生徒は多くて、私も授業なんかする必要なくない? って気付いた。報告書さえ書ければいい。報告書さえ書ければバイト代はもらえるから。ということで、授業の時間を使って生徒は宿題を、私は報告書を作成している。両者内職。授業終了十分前になったら、生徒たちの宿題を見て回り、片っ端から鉛筆でサンカクを描いていく。不正解だけどバツは可哀想だから、サンカク。チャイムが鳴った瞬間「私とどっちが早く帰れるか競争!」と叫んで爆速で帰り支度をする。生徒たちは私に負けない勢いで宿題を鞄につっこみ、教室を出ていくのだった。
 
ロッカーに向かう途中で、塾長が生徒の保護者と面談してることに気付いた。私は本日の力作長編を「報告書」チューブファイルにとじて塾長の机の上に置く。開いてもいない教材を本棚に戻してロッカーに向かった。
「あ」
 ロッカーの前で新人講師の木村くんが立っていた。入学式から今帰ってきたばっかりですみたいなスーツ姿だった。
「木村くんおつかれ。どうかした?」
「あ、いや、塾長、まだ面談中ですよね」
「うん。聞き耳たてたけど速水くんのお母さんだったから、時間かかると思う」
 塾長になにか用事? と聞こうとしたら、木村くんは大きなため息をついて手元に視線を落とした。
「うわあ。いつ帰れるかな……」
 木村くんはリクルート用の黒いバッグと一緒に授業の報告書ファイルを抱えていた。
「報告書なら塾長のデスクに置いて帰って大丈夫だよ」
「えっ、まじですか?」
 私はロッカーからコートを引っ張り出すと羽織って、木村くんと歩き出した。面談ブースからはまだ塾長の声が聞こえる。紙をめくる音。塾長の厳しく沈んだ声。どうやら中学の定期テストの結果が良くなかったらしい。
 私たちは黙って玄関の方へ向かった。途中、塾長のデスクに寄る。デスクにはまだ私の報告書ファイルが置かれていた。
「重ねとけばいいよ」
 私が小声でささやくと、木村くんは「どうも」と微笑んでうなずいた。
 
「助かりました。あの面談終わるまで待つところでしたよ」
 駅に向かう道のりで木村くんはそう言った。
「山本さんも速水くんのこと、知ってるんですか?」
「うーん。あんまり知らないけど。速水くん、先週現代文の個別指導休んだでしょ? その振り替え、私が担当したんだよね」
「あ、休まれたの、俺の授業です」
 私は笑った。
「サボられちゃったか」
「はい。でも出ても出なくても同じですよ。速水くん。いつまで経っても何もできるようになりません」
「まあ、そういう子っているよね。速水くんだけじゃないよ」
 そう。塾にはいつまでも何もできるようにならない子がいる。たとえば私とか。
「ついイライラするんですよ。どうしてわからないんだって」
「それは、速水くんも同じだと思うよ」
「え?」
「頑張ってもわからないことにイライラするのは、人類共通じゃない? ってこと」
「彼、頑張ってますかね?」
「さあ?」
 今度は木村くんが笑った。
「木村くんは、どう。最近。もうバイト慣れてきた?」
「はい。山本さんのおかげで和泉さんとも仲良くなれました。山本さんが歓迎の飲み会を企画してくれたおかげです」
塾に講師は十二人いて、私は全員に連絡先を聞いていた。どうせバイトをするなら全員と仲良くなっておいた方が楽かな、と思って。グループLINEに「新人の子が採用されました! 木村くんです! 再来週の水曜日ひまな人、ジェネ鳥で飲もう!」と打った。結局、その日は授業を持っていない講師たちも「新歓なら行く」と言って全員参加してくれた。
「ここの塾講師のみなさんって、すごく優秀な人たちじゃないですか。和泉さんも■■大学の院生って聞きましたし」
 水曜日の授業を担当するのは私と木村くんと和泉さんの三人だけだ。
「他の曜日のメンバーも■■大学とか、■■大学とか、■■大学とか。俺、地元の国立の受験に失敗して■■大学なので、なんか、この流れで大学名言うのかぁって思っちゃいました」
 塾講師のバイトをしているんだから、みんなそれぞれ自分の勉強方法には自信があると思う。その方法で勝ち取った結果にも。でも木村くんがこのバイトを選んだ理由は「家から近い」というのと、「東京の他のバイトはなんだか怖い」というものだった。私が塾講師をする理由は「座ってお金がもらえるなんて楽そうだから」。脚の浮腫みを換金する■■クレープや■■アイスクリームとは違うバイトがしたかった。私と木村くんは自分の頭の出来に自信があるから塾講師をしているわけじゃない、という点で似ていると思う。
「僕の自己紹介の直前に、山本さんが委縮するわけでもなく、でも自慢するふうでもなく『■■女子大学です』って言った時、ちょっと安心したんです。あ、俺もこんな感じでいればいいんだ、って。正直、知らない大学だ、と思いました。でも誰も山本さんを見下した感じがしなかった。みんな、山本さんを山本さんとしか思ってないんだなって。大学名じゃなくて。ここではみんな俺のこともそう見てくれるんだろうなって、ちょっと安心したんです。『地元の大学の受験に失敗した奴』じゃなくて『木村』として受け入れてもらえるんじゃないかって」
 私はなんと答えればいいのかわからなくなってちょっと笑った。
「あの、山本さん。この後あいてますか。飲みとか」
 木村くんが指をさして言う。私たちのすぐそばには木村くんの出勤初日に歓迎会をしたジェネリック鳥貴族みたいなチェーン居酒屋があった。
 二十歳か、と思った。木村くんは一年浪人したから、一年生だけど二十歳。春に大学二年生になった広子と同い年だ。それなのに木村くんは広子より三つは年下みたいに思える。だからかわいい。
「ごめんね、今日友達と約束あるんだ。また今度みんなで行こ!」
 私は木村くんに手を振って居酒屋の脇の細い道を歩き出した。コートのポケットからスマホを取り出してLINEを起動する。「バイトの人と飲むから今日帰らない」と家族のグループLINEにメッセージを打って、大輝にコールした。
 
 家のチャイムを鳴らすと「後輩かわいそー」と、大輝は愉快そうに出迎えてくれた。私は玄関をあがって八畳のワンルームに踏み込む。
「なんかガウス加速器、組み立てたくなっちゃった」
そう言って、ハグしようとした大輝の脇をすり抜けて段ボールの前にかがみこんだ。
大輝の部屋にはガウス加速器がある。それは普段、八畳ワンルームの四隅を陣取る巨大な段ボールの中に解体された状態で眠っている。急にガウス加速器を組み立てたいだなんて変かなと思ったけど、大輝は田舎の家族に愛されて育った犬みたいに「いいよ」と笑った。大輝が笑うと、細い目はぶ厚い瞼に押しつぶされて顔の皺になってしまう。大きな鼻はより大きく脂ぎって見える。それが余計に犬らしいから、私は嬉しかった。
ガウス加速器の材料は、四つの段ボールにおさめられている。中にはガウス加速器とは関係のない実験器具や科学工作の材料もあるけれど、段ボールにあるものは全て、百均か東急ハンズで買えるものだ。風船、洗濯のり、単三電池、懐中電灯、スノードームの外骨格、回折格子。何年も前に開封したものもあれば、未開封のものもある。大輝はガムテープで補強してある段ボールから青いプラレールの線路を取り出し、フローリングの上で繋ぎあわせて円環にした。ガウス加速器を最大限楽しむのにレールは欠かせない。私は大輝とは別の段ボールを漁り、ネオジム磁石と鉄球の塊を取り出した。
「律儀だね。ジップロックに分けて保存してるんだ」
「磁力で使えなくなるんだよ」
「ああ、そっか」
 白んだジップロックの表面はぼこぼこしていて、箱の中で何度もネオジム磁石と鉄球が衝突していたのだとわかった。ジップロックにはネオジム磁石が一個。鉄球はまた別のジップロックに入って五個。ネオジム磁石と鉄球は同じ袋に入れてはいけない。完全に分けて保存する。そうしないと、ネオジム磁石も鉄球も、割れて使い物にならなくなるから。それでも衝突に耐えきれなかったネオジム磁石はいくつかあって、そういうものは割れて崩れて黒い砂になっていた。U型とかI型の、S極とN極のわかりやすい色塗りされたオモチャ磁石と違って、ネオジムの磁力は遊びじゃない。くっついてしまった二つのネオジム磁石を引き剥がそうとして、爪が剥がれたことがある。そんなにも強固なものが、強固ゆえに砕けて砂になることがあるのだ。
「本当に壊れるものなんだ、ネオジムって」
「知らなかったの。真剣にネオジムに向き合った時間、短すぎるんじゃない?」
と、大輝はわかったふうな口をきいた。ガウス加速器を組み立てていく大輝の横顔は、犬じゃなかった。そう、大輝は犬じゃない。■■大学の院生だ。
「ガウス加速器の原理はわかる?」
「振り子と同じ」
「その通り」
大輝はそう言って、なぜだかちょっと泣きそうな顔をした。
作業に戻った大輝の横顔が、星野結に見えたらいいと思う。でも、どれだけ見つめても大輝は大輝のままだった。
青いレールにネオジム磁石をテープで固定した。ネオジム磁石の右側に鉄球を四つ置く。磁力で引き寄せられた鉄球はレールにそって整列し、ネオジム磁石にくっついていた。これでガウス加速器は完成。
「いくよ」
 私はそう言って、ネオジム磁石の反対側から一つの鉄球をぶつけた。次の瞬間、四つ整列していた鉄球のうちの最後尾のひとつだけが、勢いよく飛び出した。鉄球はレール上で加速し、やがて反対側に帰ってきた。円を描いた鉄球は、ネオジム磁石に衝突させた鉄球とふたつ、並んでいる。
私と大輝は子供みたいに歓声をあげた。杏露酒を飲んでさえいれば、私たちはいつだって初めてガウス加速器を見た子供に戻れる。
 ガウス加速器は振り子に似ている。振り子って、片側から鉄球をぶつけると、整列した鉄球のうちの、いちばん隅にあるものだけが勢いよく飛び出す。ガウス加速器も同じだ。振り子の糸を切って、鉄球の間にネオジム磁石をくっつけたもの。それがガウス加速器。衝突する鉄球を磁力で加速させる。ネオジム磁石は強力なぶん、よく加速する。
「科学サークルでガウス加速器班だったんだっけ?」
 大輝が私に聞く。聞く、というより確認の口調だった。私はうなずく。
 手のひらに込めたままでいた鉄球を、指先でさらに奥へと押し付けた。このまま私の一部になってくれたらいい。そう願うのに、どんなにきつく押し付けても金属と私の皮膚の境界線は溶けあうことがなかった。
 
 大輝には元カノが二人いる。……って話を聞くのは今日が初めてじゃなかった。こうして私が部屋に来る日は、天気の話の代わりくらいの感じで、大輝は過去の恋愛のことを話したがる。
「一人目は■■女子大の子。テニサーの時の」
「何度も聞いてるよ。田舎から急に都心に出てきたことで調子乗って■■女子大とのインカレテニスサークルに入る■■大生、どこにでもいそう」
「うるさいな」
「そしてろくにテニスもせず■■女子大と付き合おうと必死になりすぎて空回りする大輝くん。告白なんか承認作業なのにそんなこともわからず、憧れの先輩に突然告白し、当たり前に玉砕。その足で同期の男の家に駆けこんで自棄酒。ところが三年生の春、ようやく一年生の女の子と付き合うことに! これが俗に言う三男マジックだ。高校卒業したばっかりの一年生にとっては大学生活に慣れた三年生ってちょっと大人っぽく見えるから。逆にこの三男マジック期を逃すようなら学生時代に彼女なんかできない。そう思っていた大輝くんはこれまでの苦い経験から学習したことをフルでいかし、なんとか初めての彼女をゲット! どう? 合ってる?」
「だいたい合ってるけど三年生じゃない。二年生だった」
大輝は二年生の時、■■女子大の一年生の子と付き合った。たまに精神的に不安定になる子で、下着に謎の宗教のお守りを縫い付けてた。必ず心臓の一番近くになくちゃいけないんだって。
「正直、あの子なら俺でもいけるんじゃないかって思った。でも『君との結婚は考えられないからごめん』って振ったんだ」
初めての彼女と大輝の別れは付き合ってから半年後、成人式の日に訪れたという。大輝が初恋相手に再会したのがきっかけだった。
「高校三年間ずっと好きだった人に再会した。同窓会で。それで■■女子大の子とは別れようと思った。その同級生が俺の二人目の彼女」
「すてきな話」
「それが、そうでもなかったんだ」
大輝はゆっくりと首を振った。
「その子には高校三年間ずっと彼氏がいた。それは当時から俺も知ってた。だからずっと片思いで、告白もできなかった。同窓会で聞いたら、彼女はすでに恋人と別れてた。フリーだって知って、俺は同窓会が終わった後に告白した。『彼氏がいるのを知っていたからずっと言えなかったけど、ずっと好きだった』って。そしたら彼女、泣いて言った。『私にはもう恋愛はできない』って。高校時代に彼女は妊娠して、中絶もしてた。俺は必死で彼女を慰めた。『君が悪いんじゃない』。『俺はそんなこと気にしない』って。でも、どうしてそんなことになったんだろう? 翌朝、俺の隣で寝ている彼女を見たら、ただ『老けたな』って思ったんだ。『かわいい』とか『幸せ』とか『好きだ』じゃなくて『老けたな』。彼女はもう、俺が高校三年間好きでいたあの子じゃなかった。それから三ヶ月くらいは付き合ったけどね。■■女子大の子よりはいいと思ったから。さすがに■■女子大の子に『別れたい』って言う時は緊張した。ほら、精神的に不安定になる時があったって言ったじゃん。『絶対許さない』って包丁でも持ち出されるんじゃないかと思ったけど、案外あっさりだったね。『私なんかと真剣に向き合ってくれてありがとう』って。それだけで去ってった。よかった、よかった」
大輝は神様に祈るみたいに手をこすり合わせながら笑った。
この間、わずか二週間。大輝が■■女子大の子に「同窓会行ってくるね」と連絡してから、地元帰って、初恋の同級生に再会して、浮気して、■■女子大の子に「別れよう」って告げるまで。
「この話をサークルの飲み会でしたら、」
「うわ、クズじゃん」
 大輝は人の好い笑顔を歪ませた。「クズ」と言われて嬉しそうだった。
「俺のあだ名『■■駅』になった」
「どうして■■駅?」
「うちの大学の最寄り駅から乗り換え一回、十四分で行けるじゃん?」
私は大輝の肩を叩いて笑った。できるだけ大きな声で笑った。彼氏がいて、こうして夜遅くまでお酒を飲む。そんな普通らしいことが、みんなと同じことができているということが、なによりも楽だった。
「どうして別れちゃったの。憧れの人と別れて、どうして私と付き合ったの」
そう聞いたら、大輝はちょっと考えた。
「一年くらいは付き合ったよ。けどさ、高校時代と比べてほんとに老けた。劣化したなと思って。そんなこと日常的に思ってたら、普通にさめるじゃん。俺このまま、かわいい子と付き合う経験なんてしないままなのかなって。一生、かわいい子とは付き合えないんじゃないかなって。正直、かわいい子と付き合ってみたかった。■■女子大の子は、まあ、彼女になってしまえば『かわいい』と思えなくはなかったけれど。でも、それは性格や仕草に対するもので、見た目のことじゃない。二人目の彼女もそれ。高校時代は確かに『かわいい』と思ったはずなんだけど。でも、もう違った。俺が三年間好きだったかわいいあの子じゃなかった。だから、美咲ちゃんと付き合えて嬉しい」
「そか」
「うん。やっぱさ、性格見ようとかいろいろ努力するけど」
「うん」
「結局、見た目だよね」
はっきりとお前の中身に価値なんかないんだと言われると、安心する。
たぶん「バカ」と「かわいい」は近い。だから私は財布とスマホしか入らない極小バッグを持ってキャンパスを歩くのが好き。授業中はどうせスマホいじってるだけだし紙もペンもいらない。実質週一大学のカフェにガトーショコラ食べに行くだけ。そういうことしてると自分が今よりもっとバカになっていくのがわかって、なんかいいんだ。
「美咲ちゃんは、どうして星野くんと付き合ってたの?」
「え」
 突然、星野結のことを話題にされて私は面食らった。
「え、なに、どういうこと?」
「なんていうか、美咲ちゃんと星野くんが付き合ってたって、想像できないんだよね」
 星野結は■■大学の理学部の物理学科にいる。大輝と同じ■■大学。星野結は私と同い年だから、大輝は、星野結の先輩なのだ。二人は同じ講義を取ったことがあるのだろうか。学食とか、生協とか、図書館とか、キャンパスのどこかですれ違うことがあるのだろうか。そう思ったら、大輝の瞳をまっすぐに見ていられた。
「それ勘違い。ほんとに付き合ってないよ」
「いや、でも、あの星野くんに彼女がいるらしいって、噂で聞くことあったよ。仲は良かったんでしょ?」
「いや? 全然」
「覚えてないかな」
 大輝の表情がまた少し翳った。
「美咲ちゃんと星野くんが、夏休みに科学館でバイトした時のこと。遊びにくる子供たちに二人でガウス加速器の解説をしてて」
「うそ、なんでそんなこと知ってるの?」
「あの日、実は俺も科学館でバイトしてたから」
 私は気まずくなって黙った。
「俺、あの特別展のバイトリーダーだったんだ。それでいろんな展示ブースを見て回ってて。科学館の館長さんと。それで、ガウス加速器の展示に女の子がいるって気付いた。隣には星野くんがいた。星野くんの彼女ってもしかしてこの人かな、いや、さすがに違うか、と思った。星野くんがトイレに行った隙に、俺は美咲ちゃんに話しかけた」
 うそ、全然覚えてない、と言おうとしたけれど、私がそう言う前に大輝は続けた。
「美咲ちゃんは全然覚えてないと思うけど。俺が『これ、どういう展示ですか?』って聞いたら、美咲ちゃん一瞬、すごく面倒そうな顔をした。『どうしてそんな顔されなくちゃならないんだよ』ってちょっと腹立つくらい。その時にわかったんだ。この人べつに、物理が好きでこのバイト申し込んだわけじゃないんだ、って」
うん、と言えずに、私は下を向いた。
私が入部した■■大学の科学サークルの人たちは、新歓に他大生の私が来たことに初めはびっくりしていた。「私、文学部なんで科学とか全然わからないですけど、いいですか」って言ったら「いいけど、なんでうちに?」って言われた。
「なんか、サークルってテニスとかダンスのイメージ強いんですよね。私、■■女子大学に通ってるんですけど、友達だいたいそういうサークル入るので。私のまわりではそれが『普通』なんですよ。でも科学サークルって絶対『普通』じゃないじゃないですか。私、普通じゃないことしたいので」
そう言ったら「面白い一年生がいる」って受け入れられた。私は本当に科学のことが何ひとつわからなくても許された。私が部室に行く日だけは、みんな科学の話をやめてテーブルにトランプを広げてくれた。
そんな時、星野結だけは決まって部室の奥の方にひっこんだ。キャンパスノートをかかえて、小学四年生並みの汚い文字で計算式を編み続けてた。私はそれを横目で見ていた。この人は私に合わせてトランプをする気はないんだな、って。別にそれが嫌とかではない。そういう人なんだ、って、ただ思っただけ。
星野結の視線の先にあったもの。それがガウス加速器だった。両手の中で広げたトランプの隙間から、私は星野結を見ていた。星野結はいろいろな形のレールを手に取り、座卓に並べて繋いで、円環のコースを作った。星野結は実験机を見て、ノートを見てを繰り返し、何かを計算していた。右手に握られた鉛筆が動きを止めるたびに、金属の激しく衝突する音が、がちん、と、冷たく鼓動していた。いったいあの人は何をしているのだろう。そう思って首を伸ばした時、ネオジム磁石に弾かれた鉄球が、流星のように銀環を描いた。思わず「あっ」と叫んだ。部員たちは「誰がジョーカーを持っているか」というおしゃべりに夢中で、私の叫びに気付かなかった。星野結以外。星野結は私の叫びに驚いた様子でノートから顔を上げ、私を見た。
「それで私、部室で星野結を見つけるたびに隣に座って鉄球弾くようになったんだ。冷やかしで。そしたら『夏休みの科学館のバイトに申し込むから、一緒にガウス加速器で参加してくれない?』って言われた。それでガウス加速器班結成。『ガウス加速器班』って団体名で科学館の子供向け夏休み特別展に出展したの。『班』て。やばくない? それで毎週水曜日に科学サークルでガウス加速器班の活動をすることになった。ひたすらネオジム磁石に鉄球をぶつけるの。ちょっとこの人普通じゃないと思ったよね。でも、私も普通じゃないことしたくて科学サークルに入ったからちょうどよかった」
「理系キモいな」
大輝は自嘲するように鼻を鳴らして、「あ、そうだ」とスマホを手にとって画面をスクロールした。
「その科学館つながりの話なんだけど。館長さんの友達でプラネタリウムの館長をやっているって人がいて、その人にプラネタリウムでもバイトをしないかって声をかけてもらったんだけど」
 依頼メールを探しているらしい。
「科学館とかプラネタリウムとか、珍しいバイトばっかするんだね」
「一度バイトするとツテができるんだよ。『あっちの科学館でも近々イベントがあって学生のバイトを募集中なんだけどどう?』とか、結構声がかかるわけ」
「私この前の科学館のバイトでそんなこと言われなかったけど?」
「そりゃ『これ、どういう展示ですか?』って聞いた俺に嫌な顔してたら『次のバイトも頼みたい』とはならないでしょ。館長さんも見てたと思うよ」
「うわ」
「で、今回はそっちの科学館の話じゃなくて。プラネタリウムの館長さんがバイト探してるんだよ。親子で星空をみようってイベント。美咲ちゃん、物理には興味ないかもしれないけど、星なら好きでしょ?」
「うん」
「じゃあ、俺とプラネタリウムでバイトしない? 大学生二名お手伝いできますって返信してもいい?」
「いつ?」
「再来週の土曜。上演三十分でバイト代一万」
「いいよ」
 鉄球を手離す。レールに落ちた鉄球はネオジム磁石を打った。がちん、と派手に金属の砕ける音がして、弾かれた鉄球は加速した。

続き→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 4|青野晶 (note.com)

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