セルフレジに私の値段を聞いてみたい 2

初めから読む→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 1|青野晶 (note.com)


■山本美咲【3】
私と広子は京成線の快速電車に乗って、船橋競馬場駅で降りた。イケアまでは徒歩二十分くらい。
「ねえ、私の値段を調べる前にお昼でも食べようよ」
広子はそう言って、ららぽーとに入っていった。「ランチをおごるよ」と言ったら、広子は遠慮なく最上階のレストランに踏み入った。シーザーサラダ、きのこのスープ、ビーフストロガノフ、キッシュのランチセットに加えて、果肉たっぷりのマンゴータルトも注文した。
「フルート奏者は肺活量大事だからね。長時間立って、腕を上げて息を吹き続けるからスポーツみたいなものだよ。スポーツ。音楽はスポーツ。私はアスリートだからこれくらいはしっかり食べなくちゃ」
私が六千円の昼食代を払うと、広子は機嫌よく店を出た。
 
首の背に直射日光を受ける。奇形らしいアブラゼミの求愛の声に鼓膜を打たれた。首筋を伝う汗を手の甲で拭う。トートバッグから日傘を出して開いたら、広子に日傘をひったくられた。広子の手首には、商品バーコードのタトゥーが鮮明に刻印されている。肌理が細かくて、黒く染まったセルのひとつひとつが爬虫類のウロコじみていた。ああ、そうだ。広子はまだ十九歳なのだ、と思う。
夏ミカンの木の陰に入る。信号が変われば、イケアはすぐそこだ。しめっぽい熱風に吹かれて、広子はわずらわしそうに前髪を手櫛でといていた。
信号が変わった瞬間、広子は前のめりに歩き始めた。向かい側から、スマホをいじりながらおじさんが歩いてくる。広子には道を譲る気などない。おじさんの肩が広子の肩にすれた瞬間、広子は思い切り舌打ちをして眉間に皺を寄せ、つま先から頭の先までおじさんを睨み上げた。文句を吐きかけたおじさんの口は、急速にしぼんだ。相手は喪服に金髪サソリピアスのヴィランである。おじさんは立ち止まり、餌を食べ損ねた鯉みたいに口をパクパク動かした後、諦めたようにスマホを胸ポケットにしまって前進を再開した。私は他人のふりをして、広子から少し距離をとって歩く。
 
イケアに入店すると、広子は迷いなく順路を逆走した。私は慌ててそのあとを追う。
「何か商品を持たないと不自然じゃない?」
「商品ならあるよ。ほら、私。ちゃんと商品バーコードついてる」
「イケアで販売されてないでしょ」
 広子は私を無視した。私たちは何も持たずにセルフレジを目指す。ほしいのは広子の値段だけだ。
 私は想像した。セルフレジの読み取り機に広子が左手首をかざす瞬間を。若い手首に刻まれた商品バーコードが赤い光に照らされたら、ピッとスキャナーから読み取り音がして、電子画面に広子の値段が表示される。そんな場面。でも、それが何桁か、どんな数字が並ぶのか、そこまでは想像できなかった。現実の画面を見るしかない。
「やばい、見つかった」
 前を行く広子が急に引き返してきたので、私たちは正面からぶつかりそうになった。広子は強引に私の手首をつかんで出口を目指し始める。
「逃げるよ」
「何?」
「警備員。警備員くる」
 セルフレジには店員さんはいないけど、会計に不正がないように警備員さんが常駐していた。商品を持たずに順路を逆走してきた私たちに気付いたようで、当然こちらに向かってくる。私は「順路間違えました、すみません」という空気を漂わせることに集中して背を小さく丸めて逃げた。
「これでよかったの?」
 店外に出た広子が駅方面に向かって歩き出すので、私は聞いた。もう夕方だった。
「うん。まあいいかな。セルフレジに頼らず、私の値段は、私が決めようと思います」
「なに、急に改まった言い方して」
「いいこと言ったでしょ、今?」
「何円?」
「うん?」
「広子の値段。何円?」
「百八円」
「あ、消費税かかるんだ」
「かかるよ。消費するから。納税の義務、わかる? 納税の義務。お前も税金ちゃんと払えよ。あ、ジュース買って。バヤリースがいい」
広子が道端の自販機を指さす。私はしょうがなくバヤリースオレンジのボタンを押してタッチ決裁機器にPASMOを押し付けた。直後、水滴をまとったボトルが落ちる涼しくも重い音がして、夏だな、と思った。手のひらを冷やしてくれたこのボトルは、広子より五十二円高い。
 
■星野結(3)
どうして俺は中学生に戻っているんだ? と星野結は思った。
戻っている。戻っているのに、それは星野結ではなかった。部屋にあった鏡には大学生の星野結とは違う誰かが映っていた。少年だ。しかし少年の姿は、星野結の中学時代とは似つかない。星野結はプラネタリウムのドームに吸い込まれ、その向こうの世界で、まったくの他人として生まれ落ちたらしかった。
誰なんだよ?
星野結は鏡を覗き込んで、自身に問いかけた。わからない。天井を見上げた。一面の白。星の輝きは一粒も見当たらなかった。ここが、どうやら山本美咲の逃げ込んだ世界であるらしい。
「嘘つき座を現実に連れ戻したいのなら、君も星座になりなさい」
 星野結は館長の言葉を思い出す。そうだ。星野結はこれから、このプラネタリウムの星座になる。その星座になるための物語を今から紡がなくてはならない。そして星野結の物語が完成する前に、山本美咲を現実世界へ連れ戻さなければならなかった。
しかしどうやって山本を探せば……。
 その時、星野結は電話が鳴っていることに気付いた。どこから聞こえるのだろう。星野結は部屋のドアノブに手を伸ばし、おそるおそる押し開けた。廊下だ。目の前にはぽつんと簡素な木製の台があって、スマホが一台置かれている。そのスマホが神経質なほどに鳴り続けていた。電話を鳴らしている相手の苛立ちが伝わってくる。星野結は迷ったが、最後には「受信」を選択した。
「ああ、もしもし? 速水くん?」
 やっと出た、と言いたげに、電話の向こうにいる男が嘆息した。
なんだ、誰なんだ、こいつ。
星野結はひんしゅくした。
「■■塾の木村です。速水くん、今日、授業なんだけど……。忘れてた?」
 塾? 授業? なんのことだかわからない。星野結は黙っていた。
「今から来れる? もう三十分遅刻だけど。現代文のテキスト、持ってるよね? 定期テストも近いし、ほら、前回赤点だったでしょ? 少しでも点数を伸ばせるように」
 そこまで聞いて、星野結は通話を切った。
 どうやら俺はこの世界の中学生で、塾に通っているらしい。
馬鹿らしい、と星野結が舌打ちすると、再び電話が鳴った。同じ番号だ。星野結はスマホの電源を切り、ベッドに戻って布団を被った。
 
目が覚めた時、廊下から人の話し声が聞こえて、星野結は部屋のドアを細く開けた。母が、電話口で何かを話している。母? 彼女の顔はわからない。それは本物の母のような気もしたし、全く他人であるような気もした。母は電話口で「本当に申し訳ございません」と繰り返している。そして星野結の視線に気付くと「ちょっと待ってください。すみません」と頭を何度か下げてスピーカーをオフにした。
「今日塾でしょ!? 先週も来なかったって先生が言ってるけど。どういうこと? どうしてサボるの!?」
 星野結は混乱した。声をはっきり聴いたのに、母が本当に星野結の母かどうかはわからない。それに「先週」とはどういうことだろう? 少しうたたねをしているだけのはずなのに。眠っている間に、まさか一週間が過ぎたのだろうか?
「今すぐ塾に行きなさい。先生にも謝って。ほら」
 星野結は母の怒気に気おされて、おずおずとスマホを受け取った。最悪の気分だ。この電話の向こうにいるのはあの木村と名乗ったいけ好かない男に違いない。またあの嫌味ったらしい声を聞かなければならないのか? 星野結は憂鬱になったが、母の剣幕には勝てなかった。慎重にスマホを耳に押し当てる。はい、と言いたかったけど、声にならなかった。心でそう言っただけだったのに、電話口の誰かにはそれが伝わったように感じられた。
「速水くん?」
星野結を呼ぶ声が聞こえた。あの男の声ではない。時が凍り付く、という感覚を、星野結はこの時たしかに知った。
「聞こえてるかな? 私、山本です。山本美咲。ええと、はじめましてだから、わからないか? ■■塾の講師です。今日、振替授業の予定だけど、速水くんが来ないから、忘れてるのかなって」
 星野結は何も言えなかった。唇の先は小さく「山本」と動く。しかし声にならなかった。しばらく世界が沈黙に落ちて、電話口から、あの懐かしい、山本美咲の微笑む気配が伝わってくる。山本美咲と喋るのは三年ぶりだった。
「宿題とか、終わってなくてもいいからさ、とりあえず来てよ」
山本美咲は「宿題やってないの知ってるんだから」と言いたげに笑う。
星野結は、鼻の奥にツンとした熱がこもるのを感じた。本物だ。本当に山本美咲だった。大学一年生の夏休み、科学館でガウス加速器の遊び方を子供に教えてやっていた山本美咲は、子供たちにこうやって微笑んでいた。そう。たとえプラレールで斬りつけられても。山本美咲は、こんなふうに笑っていた。
山本、俺だ。星野結だ。迎えに来た。お前を連れて元の世界に帰らなくちゃいけない。
そう言いたいのに、星野結の唇はぴったりくっついて離れなかった。どうして。どうして言えないのだろう。そう思っているうちに「じゃ、待ってるね!」と、通話が切れた。

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