セルフレジに私の値段を聞いてみたい 5

初めから読む→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 1|青野晶 (note.com)
前回の話→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 4|青野晶 (note.com)


■星野結(4)
個別指導の担当が山本美咲じゃなくなった。どうやらあれは振替授業だったから、たまたま山本美咲に当たっただけらしい。星野結が普段受ける個別指導の授業を担当は、和泉と呼ばれている小柄な女だった。和泉は山本美咲と仲が良いらしい。山本美咲と和泉が二人で歩調をそろえて駅の方から歩いてくるのを、星野結は個別指導室の窓越しに何度か見たことがあった。
山本美咲が振替授業限定なのだとしたら、普段の授業の担当はあのいけ好かない男(山本美咲は「木村くん」と呼んでいる)ではないかと思ったが、木村は塾で星野結とすれ違ってもじろりと見てくるだけで、特に何も言わなかった。挨拶すらもない。大学一年生か、二年生か。いかにも「入学式帰り」という感じのちぐはぐなスーツ姿だから、低学年に違いない。偉そうに。俺は四年生だぞ? 星野結はそう言ってやりたかったが、上下の唇がくっついてしまって、やっぱり何も言えないのだった。
授業の始まりを告げるチャイムが鳴ると、星野結の隣には先週と同じように和泉が来た。
「こんにちは! 速水くん!」
……と、声だけは元気なのだが、目は笑ってない。木村には明らかに嫌われていたが、和泉にも好かれてはいないのだなとはっきりわかって、星野結は少し気が重くなった。
和泉から渡されたプリントには、今週も何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。紙に記されていたのは宇宙だ。星が打たれている。プリントに、無数に。それをつなぎ合わせれば何座かになるのかもしれないが、どこをどうやってつなげて何座になるものなのか、星野結にはまったくわからなかった。適当に、星を線でつないでいく。たとえば……そうだ。丸、四角、四角、四角、丸、丸、丸、丸。星をつないで記号を作り、全て横並びにする。一番左の丸だけを放して、他の記号は隙間なくくっつけた。丸が鉄球で、四角がネオジム磁石。これでガウス加速器座だ。
「あのさ、これ、先週も違うって言ったと思うけど……」
和泉が隣で呆れたように呟くので、星野結は焦った。同世代の女にこうやって呆れられるのは、どうしてこうも居心地が悪いのだろう? 木村に「速水くん」とそっけなく呼びかけられたり、じろりと見られるのとは違う、なんとも嫌な感じがする。認めたくはないけど、少し傷つくのだ。「ダメな子」みたいな感じでひんしゅくされるのは。
山本美咲も、今の俺を見てそう思うのだろうかと、星野結は考えてしまう。きっとそうだろう。山本美咲にとって自分は、速水としての自分は、全然かっこよくはない。そんなことはこうして脳内で言葉にしなくてもわかりきったことであるはずなのに。考えれば考えるほど、今の星野結に、山本美咲に愛されるような要素はひとつも思い当たらない。それに山本美咲には同い年の恋人が、大輝がいる。
 何か悪い夢に違いない。全部夢であってほしい。そう願った。全部。寝てしまえば、起きた時に全部が元通りになっているかもしれない。現実世界で山本美咲に出会った大学一年生の春に戻れるかもしれない。星野結はそう信じて、机に突っ伏した。
「速水くん? え、ちょっと、ねえ? 速水くん?」
苛立たしげに呼びかける和泉の声が聞こえる。星野結は両耳を押さえて、無理にでも眠ろうとした。
 
■山本美咲【8】
 授業終了のチャイムが鳴って、私は左手首の商品バーコードをスーツの袖で隠し、寝ている生徒をひとりひとり起こした。いつも通り「私とどっちが早く帰れるか競争!」と叫んで、寝起きの生徒たちよりも早く荷物をまとめて教室を出た。
ロッカーに向かって歩き始めた頃、後ろから「美咲ちゃん!」と和泉さんの声が聞こえた。今日の時間割を思い起こす。和泉さんの担当は速水くんの個別指導コマで、残業がなければ三十分前に退勤しているはずだった。
「美咲ちゃん! もう私むり! ちょっと聞いて!」
 和泉さんは強引に私の袖をつかみ、非常階段まで引っ張っていく。和泉さんは深刻な表情で報告書ファイルを抱きしめていた。
「私、もう速水くんは教えられない。ほんとに無理」
「速水くんですか? え、担当は木村くんのはずじゃ」
「それが木村くんから『僕にはもう無理なので……』って押し付けられたの! 無理無理無理。私も無理。何教えても何もわかってくれないし、今日も強引に寝られて。呼びかけても両耳をこうして押さえて、机に突っ伏して授業終わるまで顔上げてくれないし。それでこの後、塾長に相談しようと思ってて。美咲ちゃんにまた難しい生徒押し付けることになっちゃうかもしれな」
「別にいいですよ」
「え!? でも速水くんの個別指導だよ!?」
「いいですよ」
「……私、美咲ちゃんと同じ曜日でよかった。ほんと優しい」
「全然、優しいとかじゃないです」
 和泉さんは、いやいやもうほんと……、と言いかけて、私の左手首に視線を落とした。和泉さんに握られているスーツの袖がめくりあげられている。
「これ、どうしたの?」
 和泉さんは私の袖をつかむ手を離した。私の左手首には商品バーコードが刻まれている。
「あ、いや、シールですよ。タトゥーシール」
「びっくりした。商品バーコード、だよね?」
「商品バーコードです」
「それ、読み取れるの? ピッて?」
「百八円です」
 和泉さんは大爆笑した。
「いやー元気出た。ほんとにありがとう」
二人で廊下に戻る。和泉さんの足取りは軽やかになっていた。「そういうことで、ごめんね、美咲ちゃん」。和泉さんは両手を合わせると、塾長のデスクへ向かった。
 
 塾のエントランスを出ると「山本さん」と呼び止められて、振り返ると木村くんがいた。
「びっくりした。おつかれさま」
「さっき塾長と個別相談ブースで話してるとこ、立ち聞きしちゃって。速水くんの個別指導、押し付けることになってしまって、本当にすみません」
「全然いいよ」
「すみません。僕にはもうどうしようもないと思って。和泉さんにバトンタッチしたんですけど、和泉さんもきつかったみたいです。教えても何も理解してもらえない、って」
 はは、と二人で笑いながら駅までの道のりを歩き始めた。
「どうして山本さんは大丈夫なんですか」
「何が?」
「他にも問題ある生徒、ていうか、できない生徒は全員、山本さんに押し付けられてるじゃないですか。僕は……自分が、特別勉強が得意だとは思わないですけど、速水くんみたいな、本当にできない子って耐えられないです。どうして理解できないのか、理解できないんですよ。それなのにどうして山本さんは、そういう生徒に向き合えるのかなって」
「私がバカだからじゃない?」
「山本さんが?」
 木村くんはとんでもないというふうに首を振る。
「バカじゃないです。優しいんですよ」
「ちがうよ」
「山本さんは優しいですよ。ほら、僕がここに来た初日も、飲みに誘ってくれたじゃないですか」
 ああ、面倒だな、と思ってしまう自分が嫌になる。
「あれは、他の講師のみんなへの紹介もかねて……」
「そうやって俺みたいな人見知りの新人をみんなの輪に入れようって思ってくれた、その気持ちが嬉しかったです」
 まっすぐな気持ちほど罪悪感が湧くから、はっきりとした「ごめん」も言いづらい。
ほんものなんかいらないんだよ。
 言えたらいい。声に出して言えたらよかった。でも、思ってすぐにわからなくなる。ほんものってなんだ。
「あー、そうだ。私、今日もこのあと友達の家で飲むことになってて」
代わりに言えたのはそんなことで、私は眉根をゆがめて笑った。ジェネ鳥に誘われないように先手を打つ。機先を制されたことに気付いているのか気付いていないのかわからないけど、木村くんはちょっと寂しそうに「そうなんですね」と言った。
「じゃあ、また来週ね!」
 と言って、私は駅に続く道をそれた。
 本当は、和泉さんにでも聞いてくれないかなと思ってる。「山本さんて彼氏いるんですかね?」って。和泉さんなら言ってくれる。「えー木村くん知らないの? いるよ。■■大の院生だよ。諦めなよ」。和泉さんがそう言ってくれたら、私が木村くんを傷つけずにすむのに。
 大輝の家に続く道の途中で、私は踵を返した。立ち止まって、線路の方を見た。電車が三本、通過するのを待った。木村くんはもう駅にいない。きっと。私は駅へと続く道を、再び歩み出した。

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