セルフレジに私の値段を聞いてみたい 6

初めから読む→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 1|青野晶 (note.com)
前回の話→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 5|青野晶 (note.com)


■山本美咲【9】
天気予報は夕方から雨だっていうのに、そんなの嘘でしょってくらい気持ちよく晴れた朝だった。私はリクルートスーツを着込み、玄関で傘をつかみ、離し、ドアを開けて空を見上げ、また傘をつかみ、離し、結局持っていくことに決めた。
個人面接の会場と聞いたオフィスの一室に入ると、愛想の良い面接官が迎えてくれた。まだ大学を卒業してそれほど経っていない、という感じの男。でもOBを呼ぶサークル飲みにはギリギリ呼ばれないくらいの年齢。たぶん。
「あれっ、天気予報、雨だった?」
「あ、はい」
「うそ」
 面接官は後方の窓に向かうとブラインドの隙間から空を確認した。
「……晴れてるね?」
「私もそう思ったんですけど、一応持ってきました」
「降ったらコンビニで買えばいいとは考えない?」
「もったいないので」
 傘一本、七百円也。私が七人買えちゃう。梅雨の湿気と汗で湿ったリクルートスーツの長袖を指先でつかんで伸ばして、左手首の商品バーコードを隠した。
「いいね。無駄遣いしない人、弊社にほしいよ」
 入社三年目だと教えてくれた面接官は冗談めかして笑った。この人は私よりずっと大人に見えるけど、そっか、私が大学一年生の頃は私と同じ就活生だったんだな、と思った。滑り出し、いい感じ。今回こそは面接官と喧嘩なんかしない。大丈夫。
「傘、こっち置こうか」
「あ、すみません。ありがとうございます」
 面接官に傘を渡すと、窓際の傘立てにそれをさしてくれた。私たちは机を挟んで向かい合って座る。
「それじゃ、面接官モードに切り替えていくね。これから採用面接を始めます」
「よろしくお願いします」
「……」
「……」
「いや、まずはそっちから挨拶だよね。ほら」
「え」
「早くしてもらえる? 時間もったいないんだけど」
 面接官の態度が変わったことに、私は一瞬面食らった。さっきまでとは違って愛想笑いすらない。ええ? いくら圧迫面接の演技とはいえ、いや、演技じゃないかもしれないけど、この変わり身はちょっと引くんだけど。だめだめ。集中。笑顔笑顔。
「■■女子大学の山本美咲です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「はいはい。で、前回の面接で言われたこと、覚えてる?」
「前回ですか……?」
「うちの会社のホームページを熟読してから二次面接に進んでくださいって言われたと思うけど」
「ああ、はい。もちろんです」
「じゃあ、ちゃんとホームページ見てきたんだ?」
「はい」
「山本さん、営業志望だったよね。僕は常に営業先のことをよーく調べているんだけど、今から山本さんが同じことできる人かどうか、チェックさせてください」
 なんだお前。ムーミン谷の住人か? 人の悪口を考える時、私の口調は広子になる。
「うちのホームページを見たなら絶対わかるはずだけど。うちの国内シェア率は何パーセントでしょうか?」
「シェア率?」
私は暴れ出しそうな広子をなだめながら昨晩の記憶を掘り起こした。
深夜、私は付け焼刃のエントリーシートを作成していた。オンシャのホームページを眺めながら。その横で広子はバカみたいにずう~っと「ムーミン谷で放火は合法か?」って議論をしてた。一人で。私はそれをBGM代わりにオンシャの企業情報を脳に読みこもうと努めていた。そんな状況だったから当然オンシャの情報なんか一ミリも覚えてない。代わりに広子が「ムーミン谷での放火は合法でも非合法でもない」って結論を下したことは覚えてる。「ムーミン谷には法律がない」から。広子がそう言って満足し「寝る」と去ったこと。それしか覚えてなかった。なんだよシェア率って。
「八十パーセントです」
 わからない、って正直に言うのは「さすがにやる気なさすぎ」と思われそうだからとりあえず凄そうな数字を言っておくことにした。
「八十パーセント?」
「はい。御社のホームページに確かそう書いてあったと思います」
「八十パーセントって、独禁法に触れるけど」
「ドッキンホウってなんですか?」
「独占禁止法」
「……あれっ? 確かにホームページにそう書いてあったと思うのですが。私の勘違いみたいですね。正しくは何パーセントなんですか?」
 笑う。私、パッケージで売るしかないので。
「あのさあ……。君、そんなんで社会でやっていけると思う?」
 私の中の広子が舌打ちする。「独禁法程度でカリカリしてるようじゃお前、ムーミン谷でやっていけねえぞ!」広子なら立ち上がってそう叫ぶ。そうだ、こういう奴は一発ぶん殴ってムーミン谷にでも突き落とした方がいい。
「営業っていう仕事はね、君が思っているよりも泥臭くて大変な仕事なわけ。わかる?」
愉快なんだけど。何この状況。逆に愉快。タンバリンとカスタネット同時に叩き始めてやろうか? だめだ。広子の暴走が止まらない。
「山本さんは」
カッカタタッタ!
「営業という仕事を」
シャィンシャンシャーン!
「甘くみてるんだよね」
シャンシャンカカッ!
「なんで笑ってるんですか?」
「え」
「今の俺の話、そんな面白かった?」
「面白くないです」
こんなことで私の貴重な本音を引き出すなよ。
わざとらしくひんしゅくしたら、大きなあくびをされた。腹立つ。
「あの、結果通知いらないんで履歴書返してもらえます?」
広子ならそう言うかなと思った。
「はぁ?」
「次の会社受けるのに履歴書書き直すの、面倒なんで」
「あのさ、君その態度なに? そんなんで本当に社会でやっていけると思う? 大学の就職支援課に連絡するよ?」
「すればいいんじゃないですか。呼び出されたら『面接官に触られて怖かった』って泣きますけど」
窓に雨粒の打ち付ける音が部屋に満ちていた。予報通りだ。あんなに晴れてたのに。私はあからさまに気だるい演技をして面接官に目線を戻した。面接官は唇をわなわな震わせている。私はパイプ椅子に深くもたれかかり脚を組んで、窓際の傘立てを指さした。 
「傘取ってください」
 
■山本美咲【10】
大輝と付き合い始めた翌月、科学サークルのホームページから「ガウス加速器班の活動」記事が全部削除された。「どゆこと?」と星野結にLINEを打ったけど、返信はなかった。星野結はそれ以来、一度も部室に来なかった。
私はババ抜きをしながら、星野結のいなくなった座卓を見ていた。ネオジム磁石が一個だけ、机の上に置かれていた。桜の花の影が差す中で、丸いネオジム磁石は深く銀色に輝いていた。
星野結がいなくなっても、新歓の季節は来た。キャンパスでサークルのチラシを配ってた時。忘れもしない、あの日、私は星野結を見つけた。キャンパスにあふれる新入生や、新入生を勧誘する上級生。大学生があんなにも集まる場所で、私は、星野結ひとりを見つけた。
星野結は大きなリュックを背負って向こうへ歩いていく。まるで自分だけはこの眩しい日々には無関係だという顔をして。私は星野結の横顔をぼうっと眺めて、星野結の頭の中にはまだ、ガウス加速器があるだろうか、と思った。いや、きっとないな。私は星野結から目をそらした。「科学サークルでーす」と新入生に片っ端からチラシを押し付ける。星野結はもうガウス加速器のことを考えない。もう、きっと。もう、一生、私たち会うこともない。
そう思った瞬間、私は駆け出してた。人混みをかき分けて走った。持ってたはずのチラシは一枚もなかった。放り投げたのか、近くにいた部員に押し付けてきたのか、それすらも覚えてない。小さくなっていく星野結の背を追いかけた。ただその背を叩くことしか考えてなかった。人にぶつかる。ぶつかってぶつかってぶつかってぶつかって加速していく。私は進み続ける。星野結のもとへ。
でも、私、何を言えばいい。星野結に追いついて、背を叩いて、星野結が振り返ったら、私は何を言えばいい。何も思いつかなかった。それなのに立ち止まれない。ここから叫べば、星野結は振り返ってくれる。星野結! 星野結! 叫べば、大きく手を振れば、星野結は私に気付く。ちょっと驚いたような顔をして、すぐに不機嫌そうに目を細める。でも、私に呼び止められること、星野結は、本当はそんなに嫌じゃない。そこまでわかるのに、声が出ない。私の勇気の限界は、星野結の背を叩くこと、そこまでだった。何も言えないかもしれない。「見つけた」って顔して笑って、手を振るだけで、私は新歓に帰るつもりなのかもしれない。ヒールがかかとをえぐって痛い。削れちゃう。私の大事なパッケージが。でもいい。星野結が振り向いてくれるなら。私は手を伸ばす。足がもつれる。星野結はついに、人波の奥へと消えていった。
掛け布団を蹴っ飛ばして跳ね起きた。キャンパスの桜はことごとく流星になり、深いドーム型の闇に消えた。悪夢だ。怖くて、もう眠れない。私は階段を降りた。リビングに明かりがついている。広子がまだ寝ていないらしい。リビングのドアをゆっくり開けると、広子は「起きてたんだ?」と一瞬私を見て、テーブルの上の化粧ポーチを漁った。
「みて、これ」
「なに? 香水?」
「うん。ショウタくんにもらった」
 広子は香水瓶で十字を切りシャネルのチャンスを自分にふりかけた。フェラガモからシャネルに交代らしい。
「みんな持ってるよね、これ」
 広子はチャンスの瓶を手に取って見つめた。
 音大に通う女の子たちはみんなチャンスを持ってるらしい。言われてみれば、うちの大学のカフェでもこの香りを嗅いだことがある気がした。
 外ではまだ雨の降る音が続いている。今日はもう寝たくない。私は広子の隣の椅子に座った。
「今日、ムーミンのせいで面接官と喧嘩した」
「は? ムーミンがどうしたって?」
「面接中に広子が『ムーミン谷には法律がない』って言ってたこと思い出しちゃって。圧迫面接の最中に笑っちゃったから、落ちた」
「いや、ムーミン谷には法律ねえよ」
「その直前にその面接官が独占禁止法の話なんかするから」
「そんなもんムーミン谷では無意味だね。無意味。そいつムーミン谷では確実にやっていけない」
「私はそいつに社会でやっていけないって言われたけどね」
「ムーミン谷には社会がないとでも思ってんのか?」
広子は鼻で笑った。
「バカだね。ムーミン谷には法律がないけど社会はあるよ」
広子は足の爪に赤いマニキュアを塗り続ける。私もちょっと笑った。
「来月のコンサートには来る? 就活の息抜きに」
「コンサート?」
「赤坂のレストランの。水曜」
「広子フルート吹くの?」
「うん」
 光沢のある深い赤が、広子の小さな爪をコーティングしていく。それ、乾くまで寝られないんじゃない? 時計を見ると午前二時だった。
「水曜は私バイトだけど」
「おけまる水産よいちょまる!」
「叫ばないで。近所迷惑」
「これオッケーって意味ね。語呂いいでしょ」
「前日に授業の振替できるか、生徒に聞いてみるよ。個別指導のコマだからいけると思う」
「まじ。パパとママも来るって」
「え、仕事休むんだ」
「うん。私のフルート聞きたいんだって」
 パパとママは仕事をしたいからといってゼロ歳から私を保育園に預けた。小学校の授業参観にも、中学の卒業式にも来てない。平日に有給を取るなんてめったにないことだけど、広子がフルートを吹くからという理由があるなら、有休を取るのも妥当な気がした。
「てかお前、塾でバイトなんかよくやるよね。クレープとかアイス売る方が楽しくない?」
「塾は座って稼げるからいいなと思った」
「ああ。座って稼げるのは楽そう」
「うん、私もそう思って始めたけど。でもなんか最近思うのはやっぱり、立ってる仕事は立ってる大変さがあるけど、座ってる仕事には座ってる大変さがあるね」
 いつやめようかな、と私はつぶやく。始めた時からずっとそう思ってる。でもやめられない。なんか。
「ずっと疑問だったけど、お前そもそも授業なんかできんの? その授業受けに来てる生徒、金捨ててんのと同じじゃない?」
「私もそう思う」
「だって一時間何円?」
「四千五百円」
「しぬ」
 広子は爆笑した。足のネイルの塗り直しを中断してわざわざ激しく手を打ち鳴らす。私も同じやり方で爆笑した。
「できない生徒にとって私の授業はオアシスよ。オアシス。塾と言う名の砂漠に唯一存在するオアシス。私のもってる生徒たちはみーんな勉強できなくて『間違ってる』って言われることに慣れきってんの。いっつも解答用紙バツばっかだから。だから私は生徒の答案にバツをつけない。って決めてる。これ以上バツつけたら、かわいそうだから」
「へえ。いいんじゃない。頭いい先生ばっかの塾って、確かに私みたいなバカにとっては砂漠みたいなもんだわ」
「そそ。親の意向で無理やり通わされてる子もいるし、そういう子にとって私はオアシスよ。頂戴してるのはオアシス代ね。オアシス代。それで私はユニバーバルミューズの新作ワンピを買えるってわけ」
私の手首に刻んだ商品バーコードを見る。ユニバーバルミューズの新作ワンピ、三万円也。私のヴィヴィアン・ウェストウッドの財布にはいつも三千円しか入ってない。
「いいよね。広子は好きなことして楽しくバイト代もらえるんだから」
「フルートのおかげだよね」
 広子はテーブルの上のフルートケースをそっと叩く。
「楽しみにしといてよ、コンサート」
「うん」
 広子の左手首では、私と同じ柄の商品バーコードが黒々と光っていた。

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