セルフレジに私の値段を聞いてみたい 7

初めから読む→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 1|青野晶 (note.com)
前回の話→セルフレジに私の値段を聞いてみたい 6|青野晶 (note.com)

■山本美咲【11】
 個別指導ブースの机には、速水くんだけがいた。私は報告書ファイルと塾長が用意した新品のテキストを抱えて、キャスター付きの椅子にかける。授業開始のチャイムがなるのと同時に、私は速水くんを見た。
「速水くんこんにちは! 授業、振り替えてもらっちゃってごめんね!」
「私、どうしても妹のコンサート行きたくて」
「私にはね、フルートが上手な妹がいるんだ」
「私結構授業と関係ないこと喋っちゃうし、速水くんが何も言ってくれなくても割と喋り続けちゃうから。嫌だったら言ってね。言うのが難しかったらプリントの端にサンカクを一つ書いてくれる?」
「じゃあよろしくね。今日は現代文でーす。次のテストに向けて現代文やりまーす!」
 速水くんは私の語りかけのすべてに「……」で答えたけど、かすかに唇の端をあげていた。かすかな、だから、たぶん、私以外、誰にもわからない。
「塾長にはこのテキストをやるように言われてるんだけど」
「秘密だよ。一緒に中学の宿題やろうか」
「学校から直接ここ来てるよね。宿題。宿題やっちゃお? そっちできてないと明日先生に怒られちゃうでしょ?」
「大丈夫、報告書には『塾長が言ってたテキストを頑張ってました』って書いとくから」
 速水くんは黙ったままだったけど、鞄から現代文の宿題のプリントを出してくれた。私はそれを報告書ファイルにはさみ、こっそりブースを抜け出してコピーを取る。原本を速水くんに返して、コピーの方を授業で使うことにした。
「家に帰ったらもう一度その宿題、自分で解いてみて。わっかんない宿題なんかやっててもつまんないもんね。二人で解こう」
 速水くんはうなずいた。鉛筆を握る。
私は塾長から預かった新品のテキストに折り目をつける作業に入った。速水くんが不思議そうに顔を上げるので、私は声を潜めた。
「これ新品だから、折り目つけてないとやってないことバレるんだよ。大丈夫。今めっちゃ折り目付けてるから」
「丸付けは一応やるけど、私、バツはつけないから。そう決めてんの。だから自信持って、速水くんは速水くんが正しいと思う答えを書けばいいよ」
 うん、と声に出さずに、速水くんはただ言葉を受け取った。でもきっと、すぐに眠ってしまう。木村くんの報告書にも、和泉さんの報告書にも、そう書いてあった。別にそれでもいい。寝ちゃったら十五分だけ、気付かなかったことにしよう。私は時計を見上げる。十五分経ったら、肩を叩こう。速水くん、速水くん。声に出せる名前が、叩ける肩が、今ここにあるのだから。
 
■星野結(5)
「丸付けは一応やるけど、私、バツはつけないから。そう決めてんの。だから自信持って、速水くんは速水くんが正しいと思う答えを書けばいいよ」
 そう言われて、星野結は再び問題に向き直った。プリントの中の星座群に吸い込まれていく気がする。俺はいったい何座になるのだろう。こうして物語を紡いだ先に、星野結は何座となってプラネタリウムの宙に架かるのか。その答えを知らなければ、現実世界に戻ることはできない。山本美咲に「現実世界に戻りたい」と願わせること。そして星野結が今何座になろうとしているかを知ること。二つを達成しなければ、星野結と山本美咲は永久にこのプラネタリウムに閉じ込められてしまう。ここにしかない星座として。
「君は最後に、自分が何座になったのか、気付かなければならない。正しい答えをつかんだ時、二人の星座神話は終わり、出口の扉は開くだろう」
 館長から聞いた言葉を、星野結は何度も反芻した。星野結は星をつなげて丸を書く。丸、四角、四角、四角、丸、丸、丸、丸。ガウス加速器座。先頭のを、四角にくっつけて描いた。衝突。ネオジム磁石が、強い力で一気に鉄球を引きつけた。
……夢を見ていることにも、最初は気付けなかった。それはあまりにも現実感を持って、星野結の目の前に迫ってきたから。春のキャンパス。桜の眩しい、新歓初日だった。
胸にははっきりと刻み込まれた喪失感がある。
山本美咲に恋人ができたと知って、星野結は科学サークルをやめてしまった。恋人がいるのだと知りながら、これまで通りに山本美咲とガウス加速器の実験を続けられる気がしなかった。もうこれで終わりにするしかない、と思ったのだ。
星野結は新歓でにぎわうキャンパスを一人で歩いていた。もしも山本美咲に恋人ができなければ。今頃二人で新入生に勧誘のチラシを配っていただろうか。二人でどんな話をしただろう。今年の夏も二人で、あの科学館で、ガウス加速器の展示を出せただろうか。足を速める。この眩しくにぎやかな場所から、逃げてしまいたかった。
ただ「会いたい」と思った。この瞬間、強く。山本美咲に。思ってしまってから、星野結は自嘲した。会ったところで、俺は山本美咲に何を言えばいい? 考えてみると、山本美咲に伝えたいことなどひとつもない気がした。山本美咲はもう、別の男のものなのだ。ひたすらに歩く。もっと速く。すれ違う人にぶつかる。ぶつかってぶつかってぶつかってぶつかって加速していく。不意に、誰かに肩を叩かれた。
「速水くん」
 振り返った時、星野結は目覚めた。隣には山本美咲がいる。しかし星野結は大学生ではなく、「速水くん」と呼ばれる中学生だった。
「目、覚めた? この問題解こう。一緒に」
 山本美咲は微笑んだ。
 こんなにも近くにいるのにどうして何も言えない。星野結は真一文字のまま閉ざされた唇を上げようとする。しかしそれは叶わず、鉛筆を握る指先に力をこめた。
山本、帰ってこい。
お前はもう、嘘つき座じゃなくていいんだ。
今は、山本美咲に伝えたいことがたくさんある。
お前自身がそう思わなければ、山本がこのプラネタリウムを抜け出したいと願わなければ、俺たちはもとの世界に戻れない。俺はこの嘘つき座神話が終わるまでに、自分が何座になろうとしているのか、知らなくちゃならない。協力してくれ。二人で戻るんだ。元の世界に。
しかしどれも、言葉にできなかった。
 山本美咲は星野結が描いたガウス加速器座の上に大きく赤でサンカクを描いた。
「速水くん、冬の大三角って知ってる?」
 星野結は顔を上げて山本美咲を見る。うなずいた。おおいぬ座のシリウス、こいぬ座プロキオン、オリオン座のベテルギウス。三つの星を線でつないでサンカク。それが冬の大三角形だ。
「冬の大三角形はね、全部一等星なんだよ。それでね、サンカクの中には、薔薇星雲があるんだって。私ね、プラネタリウムで一度見たことがあるんだけど、すごく綺麗なんだよ」
 だめだ。帰ってこなくちゃ。山本、お前は、その薔薇星雲にとらわれてしまった。
星野結は心で語りかける。その薔薇星雲の中にいるのだ。今。二人で。
「薔薇星雲に閉じ込められてしまいたい」。それが山本美咲の願いだった。それがこんな形で叶えられたことを、山本美咲はきっと忘れてしまっている。
山本美咲は、冬の大三角形の中にあるいっかくじゅう座と、そのさらに奥にある薔薇星雲の話を続ける。星野結はそんな山本美咲に何も言えないまま、山本美咲の横顔を見ていた。二人がガウス加速器の鉄球を弾いていた頃と同じように。


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