嘘つき座神話 8

■山本美咲【12】
赤坂のレストランに着くと、ステージから広子が「ここに座れ」と乱雑なジェスチャーで伝えてきた。最前列のテーブルだ。私は昨夜広子に言われたことを思い出す。「みんな真面目に聞くから緊張するんだよね。わかりやすい場所に座ってバカみたいに喋っててくれる?」。私は広子に指定されたテーブルに向かう。後ろから、パパとママがついてきた。
シーフードグラタンとサラダとバケットを注文して、演奏が始まるのを待っていた。ステージには四人の音大生がいる。フルートとピアノがそれぞれ二人。演奏直前になると店内は静かになって、広子が「緊張するからお前だけでも適当に話しててくれない?」と言っていたのを思い出したけど、何を言おうかと考えていたらママに「バケットをちぎる音がうるさい」と怒られた。パパを見たら「仕方ないから置きなさい」と言いたげに目を細め、唇の端だけで笑っている。まったく。ステージを見ると広子がこっちをにらんでいた。「静かにされると緊張するって言ってんだろうが」。そう言ってるみたいだ。「ごめんて」。私は肩をすくめる。広子は照明の下でフルートを白銀に輝かせていた。広子に買い与えられたフルート、百万円。発表会用特注ドレス、二十五万円。広子本体、百八円也。
花のワルツ。チマローザ。アレグレット。シシリエンヌ。クーラウの協奏的三重奏第一楽章。広子は家で練習していた曲を次々に演奏していった。一曲が終わるごとに拍手をもらい、マイクを握って次の曲の解説をする。よく肺活量がもつものだ。マイクを握って曲の解説をする時、広子は台本を持たない。
「この曲はバロック的な特徴が色濃くて」
「幻想的でミステリアスな感じに始まり」
「走り出した少女を追いかけるようなイメージで演奏します」
「この曲を聞きながらだとワインがおいしくなるような?」
そんなことを調子よく言えばワインの追加の注文が入る。そのたび広子はジェネ鳥の店員みたいな口調で「あーーーっとぉざいまあああす!」とマイク越しに叫んだ。広子の機嫌を買いたくて注文している人もいたと思う。パパとママは苦笑していた。
そうしている間に、酔ったお客さんから質問があった。
「フルート、どうして始めたの?」
広子は「休憩中なのでちょっとだけトークタイム」と前置きし、マイクを握って答えた。
「私、小学校の入学式で同級生のことぶん殴ちゃったんですよ」
突然の告白に、レストランはざわついた。
「それでママから習うように言われました。フルート。そうそう。ちょうどこの前、姉とディズニーシー行った時にこの話になったんですけど、」
ここでその話するんだ、と思って私は笑った。
春休みに二人でディズニーシーに行った時、シンドバッドのゴンドラに乗った広子はサルの楽団を指さして「あれは私だ」と言った。人工的なバナナの香りがきつくて、私はくしゃみをした。
「私、小学校の入学式でアカリちゃんのことぶん殴って泣かせたでしょう。あいつ、保育園の頃からいけ好かなかったんだよね」
 広子はそう言ってハンドバッグを乱暴に漁り、スマホを取り出した。スマホのカバーには、牙をむくライオンが描かれていた。
「懐かしいな。小学一年生の入学式、ほほえましいから、毎年楽しみだったんだよ。それなのに体育館に入場してきた広子は、入場してきたとたん、隣を歩いてたアカリちゃんの髪の毛思いっきりつかんでレッドカーペットに殴り倒した」
 上級生の「かわいいー」の囁き中に突如響いたアカリちゃんの悲鳴が、今でも耳の奥底に貼りついている。広子にとっては「ちょっとむかついた思い出」程度で、「重大な事件」と認識しているわけではなさそうだった。
「あれはね、小声で『バーカ』って言ってきたあいつが悪いんだよ。私にそんな口の利き方して無事でいられると思ってる方がおかしい」
「まあ、そうかもしれないけれど」
「私は確かにサルだったよ。だからママは私にフルートを持たせたんだ。シンドバッドが手に負えないサルたちに楽器を渡して手なずけたようにね。こいつらは私と同じ。ママはシンドバッドで、私はサル」
 広子はそう言った後ひとりで大笑いして、シンバルをたたくサルたちにスマホを向けて手を振っていた。
「……というわけで、私は人を殴らずに生きていくためにフルートを吹いてるわけです。あっ、でも『下手』とかは、私の拳の届かない場所で言うようにしてください!」
 お客さんたちはこの日一番の笑いと拍手を広子に送った。
広子はマイクを置き、フルートの歌口に唇を乗せる。キーを指で押さえずに息を吹き込んで、フルートをあたため始めた。次の曲が始まる。お客さんたちは自然に静かになっていく。サルに演奏家の魂が宿っていく様子を、誰もが息を潜めて見守っていた。
私がフルートもピアノもソルフェージュも習ったことがないのは、「サルじゃないから」らしい。私にはわからない演奏家や音楽理論の会話が繰り広げられ、広子が演奏するフルートやピアノが響き、そうでない時はCD音源のクラシック音楽で満たされている家は、私だけを仲間はずれにする。パパにはバイオリンが、ママにはピアノが、広子にはフルートがある。でも私には何もない。「サルじゃないから」。
コンサートが終わると、何人かのお客さんが広子に小さなブーケを渡して写真を撮り始めた。広子はブーケを小脇に抱えてフルートを分解し、短く二本に分けたフルートを頭に刺すポーズをとった。ピアノ伴奏を担当した二人の女の子に「もーなにしてるの」と苦笑されて、二重奏で一緒にフルートを吹いた子には「え、それ私もやる」と真似されていた。四人が笑い、記念写真の順番待ちをしていたお客さんたちも笑う。私たちが「お疲れ様」を言う順番はなかなか巡ってこないみたいだったから、三人で先に帰ることにした。
「山本さん?」
 突然知らないおじさんに呼び止められて、私は振り返った。誰だかわからない。けど、左胸にネームプレートがついている。ネーム? 「マネージャー」とだけ書かれた、金のプレートだった。
「あー、やっぱり! 広子ちゃんの……妹さん、でしたっけ?」
「姉です」
「ああ、お姉さんか。笑った時の横顔だけ、ちょっと似ているような気がしたんだ」
 レストランの店長だと言ったその人は、私の隣にパパとママがいることに気付いて深く頭を下げた。
「広子さん、いつもあんな感じで、上手な演奏とトークで盛り上げてくれます。また、コンサートを頼みたいと思っていまして。どうぞよろしくお願いします」
 パパとママは「ほんとに娘がすみません」と繰り返し頭を下げながら、誇らしげだった。
 深い礼を繰り返していた店長ははっと顔を上げて、私を見た。
「そうだ。聞きたかったんだ。お姉さんも何か楽器を演奏されますか。もしよかったら、今度姉妹で」
 そっか、この人もそう思うんだ。と思った。妹がフルートを吹けるのは、きっと姉が先に習っていたからだ、って。広子の知り合いはたいてい、私に対しても「フルートが吹けるはず」と期待する。けど、私はサルでもムーミンでもない。
「すみません。私は何もできないんです」
 すみません、ともう一度、私は苦笑いした。
 
■山本美咲【13】
朝、大学に向かう途中の駅で途中下車した。スマホに見慣れない電話番号が表示されている。二度の着信。まさか。電話に出ると「内定おめでとうございます」と言われて、私の就活は終わった。都内の私立大学からだった。
「会って話したいから、一度大学まで来てくれる?」と言われて、私は春から働くことになるらしい大学の本キャンに向かった。人事課は比較的新しくできた棟の一階にあって、窓口で「あの、内定者の山本です」と言うと、「人事部長が待っているので第一会議室に行ってください」と言われた。第一会議室は人事課のすぐ隣にあった。
開口一番「私の名前、本当に合格者名簿にありますか?」と聞いたら、人事部長は大きな声で笑った。
「謙虚だねえ。本当に合格だよ」
「でも……」
 私は採用試験の面接で言ったことを思い出す。
「科学館で開催された夏の特別展でバイトリーダーをつとめました。また、私が個人で出展したブースではガウス加速器の解説を、子供にもわかりやすいように工夫しておこないました。この企画は来場者人気投票の結果一位となり……」
「私は文系なので科学のことは全然わかりませんでした。でも■■大学の学生のみなさんが丁寧に教えてくれました。そのおかげで、ガウス加速器の原理説明くらいならできるようになりました」
「失敗経験ですか。一年生の時の話ですが、プラネタリウムでバイトした時についお客さん気分でプラネタリウムに見入ってしまったことがあります。それで館長さんを困らせてしまいました。でも、次からは気を付けようと決めて、例えば館長さんの神話の解説中、レーザーポインターの電池が切れてしまった時、真っ先にバックヤードに走りました。今では『とても助かるよ。次のイベントでもお手伝いしてくれる?』と言われます」
全部嘘だ。
「本当だよ。本当に内定。実は、僕は山本さんのことを一次面接の頃から見てたんだけど」
「え?」
「覚えてない? 僕はその時から『採用したい』と思ってたよ。集団面接の時、みんな台本を読むみたいに事前に考えてきたことを喋ってたじゃない? でも、それじゃみんなが本当はどんな子かわからないなと思った。誰も回答の台本を持ってなさそうなことを聞かなくちゃいけないと思って。それで僕は『誰かの夢を叶えた時の話をしてください』って言った」
「あ、それは覚えてます」
「あの時は山本さんも素で答えてたよね。なんて言ったか覚えてる?」
「『そんな立派な経験、ないです』」
 人事部長は爆笑した。いいね、いいよね、それ。あはは。
「その場で作り話をしてよかったのに。っていうか、他の人はみんなそうしてたよね。友達のバスケを応援してあげて、大会優勝できましたとか。全部が嘘じゃないのかもしれないけど。でも山本さんはそうしなかった。就職活動の採用試験という大事な局面で、予想外の質問をされて追い詰められた時、山本さんだけはとっさの嘘をつかなかった。この人は嘘をつきたくない人なんだなと思ったよ」
 私は何と返せばいいのかわからなくて、曖昧に微笑んでせわしなく両指の先をいじった。座り心地のいいはずの会議室のソファが、妙に居心地悪かった。
「『アルバイト先でのあなたの立ち位置について教えてください』って言ったら、たいていの子は『バイトリーダーです』って言うんだよね。山本さんも科学館でバイトリーダーをやったんだよね?」
「ああ、それは、まあ……」
「でも、科学館バイトリーダーをした時の話は詳しくしなかったでしょ? 他の人たちがバイトリーダーとして店の売り上げをいくら伸ばしたとか話す中で」
「だってそれは、もう勝てないと思ったんです。私、売り上げ伸ばしたとかそういうの、わからないので。それで、塾のバイトで勉強のできない子ばっかり押し付けられる立場だって、そんな、ぜんぜんすごくない話になってしまいました」
「勉強のできない子たちにはいろいろ理由あるはずで、ただ『バカ』って決めつけて切り捨てちゃダメだって。そういう子を諦めることは、自分を諦めることと同じだと思ってるって。あの話。僕はバイトリーダーをしたって話よりいいなと思ったよ。大学にもいろんな事情を抱えた学生がいる。山本さんなら、そういう子たちのことをちゃんと見てくれるでしょ?」
 私は黙った。不意に、毎回の授業で眠る速水くんの横顔が浮かび上がる。もしも、速水くんが中学を卒業したら。高校を卒業したら。大学生になったら。誰が速水くんに、寄り添ってくれるだろう。誰が頭ごなしに怒らないで、諦めたりしないで、速水くんに話しかけてくれるだろう。速水くんは誰かを信じたり、頼ったりできるだろうか。少しでも楽しいとか、嬉しいとか、誰かの思いやりに触れたと思える瞬間を、心に感じることはできるだろうか。
「見たいです。私が、見てあげたいです」
 本当のことは無防備で、こわい。口にしたら前を見ていることができなくなって、うつむいた。理由のわからない涙が浮かんだけれど、こぼさないように、私は笑った。


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