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【短編小説】YOASOBI「夜に駆ける」を私が書くなら

3年くらい前に書いたやつ。
すてきな設定は原作リスペクト。
YOASOBI「夜に駆ける」 Official Music Video (youtube.com)


青野晶「きる」

 引き伸ばされた夜を断つように、その音は鋭く透明に鳴り響く。氷雨の手首は白百合のようにしなって柔らかく、まるで力なんか宿らないように見えた。それでも氷雨は確かな手つきでフェンスカッターを握り、冷たい鋼の編み込みを一本、また一本と断ち切り、丁寧にそれをほどいていく。
 廃墟のビルは四階建てだった。私はスウェットのポケットに小銭入れを押し込み、半袖のTシャツの袖を外側に折って巻き上げ、ノースリーブの形にした。手相の溝にたまった汗を空中に払って準備を整える。不法侵入なんて久しぶりだ。
 ビルを囲う柵は「冊」の字型をしていて、私の腰までの高さしかなかった。有刺鉄線は張られていない。柵の上部を両手でつかむ。昼間の気温を吸い込んだ鋼は、まだぬくもりを残していた。
 真夏のしめった夜だ。天の川は星の錐を地上に投げ、花の香はよどみ、コンクリートは午後にたくわえた激しい太陽の熱をほのかにまとう。そのマンションだけが去年の冬を閉じ込めて保存していたかのように、空間を直方体に切り取っていた。夜の廃墟にはただ、女がフェンスを断ち切る音だけが響いていた。
 鉄を切る音は真冬の朝の空気に似ている。吸い込んだら肺が凍ってしまいそうなほどに、それは透明で痛く、清らかなのだった。ビルは全身でフェンスの切られる音を吸い込み、体内でそれを反響させた。スマホの懐中電灯を頼りに、私はビルの体内を進んでいく。人の気配はない。明かりに寄ってくる虫もいない。床や壁にも目立ったひび割れはなく、灰色の鉄筋コンクリートが深い息をして眠っていた。
 二階に続く階段には外の柵よりも高い鉄格子でしっかりと封をされていた。格子の隙間を埋めるように、向こう側には分厚い木の板が貼られている。しかしその封は甘いもので、階段の正面の部分しか塞げていなかった。一階の住居は廊下に面して一直線に並んでいる。玄関の向かいには柵があって、つきあたりの部屋の前に、二階に続く階段があった。つまり、部屋の前にある柵と二階に続く柵はつながっていて、斜め上に折り返して伸びる柵と、階段の天井には隙間がある。上り口を封じる鉄柵と分厚い板を底面とした、直角三角形の隙間が。私はスマホを小銭入れとは逆のポケットにしまい、柵の手すりを両手でつかんだ。塗装がところどころ剥がれ落ちている感触。むき出しになった鉄は雨に濡れたのか錆びていて、指先がざらざらした。左足を手すりにかける。天井に頭をぶつけないように身をかがめたまま、右足も手すりにかける。斜めに傾いた手すりに縮こまったアマガエルみたいに乗って、私は湧き上がる鼓動を噛み潰し、階段の踊り場めがけて飛び降りた。
 屋上に続く扉には大きな錠がかけられていたけれど、それはすでに壊されていた。まるで何か錠に恨みでもある人間が思い切り叩きのめしたみたいに、鍵穴を境に半分に朽ちて床に投げ捨てられていた。耳を澄ますと、金網を切る音がまっすぐに夜をつんざいていく。それはビルをかけめぐり、鳴り響いて、床によどんだ冬の残り香を巻き上げていった。背筋にきりりとした緊張が走る。冷たさが胸につまるような感覚が心地よかった。フェンスを揺らす音がする。切ったところにできた網のほころびから、女はフェンスをほどいているらしかった。
 両腕に体重を預け、重い鉄の扉を力いっぱいに押し開けると、そこは八月の夜の底の、廃墟の屋上だった。青いタイルが隙間なく並べられ、月の光を浴びて鋼の海のように波打って見える。ビルのフェンスはその海を「ここからここまで」ときっちり四角く区切っていた。女はフェンスの前に立っていた。その手元で、あの音は生まれていた。引き延ばされた固い闇をブツンとそこで食い止めてしまうような、力強い音だった。鉄が切られるその一瞬、世界が真空に落ちてしまう。次の瞬間には元通りに息を吹き返す。また真空が来る。この世界にあるすべてのものが止まって死んで、百分の一秒も経たないうちにそっくりそのまま生き返った。私が扉を開けても、音は鳴りやむことがない。それは機械的に、私が生まれた時から今日にかけて同じ速度で、ここに響き続けていたのかもしれなかった。
 女はなにもかもが白かった。髪も、まつ毛も、爪も、うぶ毛も、雪のなかから生まれてきたみたいに。何重にも重ねたカーテンのように白く淡いワンピースを薄い体躯にまとわせて、タイルの上にまっすぐ力強く立っている。私に気付いていないのか、女はフェンスを切り続けていた。水を含んだ熱風が私たちを吹き抜けると、女の長い白髪はその流れになびいた。繭糸のような髪の一本一本がいっせいにつやめく。歳は十八、十九といったところだろうか。百合の花弁のような指にはフェンスカッターが握られていた。フェンスカッターは月光を反射して白銀に光り、一本、また一本と固い針金を切り落としていく。一音ごとに宇宙のすべてが死ぬ。次の瞬間にはすべてが生き返る。まるでめちゃくちゃな時計が世界中をひっかきまわしているみたいだ。
「何をしているんですか」
 私が叫ぶと、白い女は手をとめ、ゆっくりとこちらを見た。その時初めて、彼女には唯一白くないものがあると知った。瞳だ。もしかしたら北極海の水で作った水晶かもしれない。それは青く深く、底なしに透き通っていた。
「何って」
 女は表情に色を付けずに、フェンスカッターを空高く掲げた。
「真夜中に廃墟のビルの屋上でフェンスを切ってるわ」
 フェンスカッターの刃が星の光を集めて、きらっと白い錐を放った。私はそれに刺されぬようぎゅっと目を細める。
「それは、わかるけれど」
 どうしてそんなことを。声に出したつもりはなかったのに、しっかり音になっていたらしい。鉄を切る女は答えた。
「廃墟の屋上でフェンスに穴をあけようとしてるのよ。飛び降りるための他に理由があるかしら」
「あなた、死ぬつもりでいるの」
「まさか。そんな勇気ないもの」
 女は呆れたようにこちらに歩み寄り、床に腰をおろした。つかれた。ちょっと休憩、と言って。私はどうしたらいいかもわからないまま立ち尽くし、座り込んだ女を見下ろした。頭皮が透けてしまいそうなほどに細く白い髪の束が熱風にそよぐ。むきだしになった肩は大人びているようで、まだやはり少女の面影を宿している。タイルに投げ出されたふくらはぎは細いのにうっすらと筋肉の陰影が浮かんでいた。青いタイルと白いふくらはぎを月の光が手のひらでつつむ。目を閉じれば潮騒が聞こえてきそう。
「死ぬ勇気がないのに、飛び降りるためにフェンスを切っているの?」
「うん。いつかその時が来た時のためにね」
 女は氷雨と名乗った。私が「氷雨」とオウム返しをすると、彼女は「ヒサメ」と自身を確認するようにつぶやいた。氷雨は私に「あなたはどうしてこんなところに来たのよ?」と聞いた。私はただ、あなたのことがどうしても気になったのだと答えた。
 だって、そうでしょう。深夜にアイスでも買おうかなと思ってコンビニに行こうとしたら、鉄を切る音が聞こえてくるんだもの。どこから聞こえてくるんだろうと思って見上げたら、ビルの屋上でフェンスを切ってる女が見えた。それもただの女じゃない。遠目から見てもその女が不自然に白いことがわかった。変わった趣味の幽霊かと思ったけれど、それにしては存在感がありすぎるというか、消えてなくなってしまいそうには見えなくて、しっかりとそこに存在する何かだって確信が持てた。あなたのこと、近くで見てみたいって思ったら、ここに来ていた。ちょっとコンビニに行くだけだからと思って古いスウェットを履いていたの。それが幸運だったわね。普段の恰好じゃ柵を越えるのは難しかっただろうから。子どもの頃、廃墟のビルに友達と忍び込んで遊んでいたの、私。その頃のことを思い出して懐かしくなっちゃった。ああ、私、まだこんなことできたんだ、って。
 話すと、氷雨はほとんど興味が持てなかったとでもいうように「ふうん」とうなずいた。氷雨は裸足の親指で、タイルの上の細かな砂をなぞっている。白い足の指の隙間にも、やっぱり砂がついていた。何も気にしていないように氷雨は目を伏せる。長く伸びたまつ毛は精巧なガラス細工を思わせた。
「見て、夜が明けるよ」
 その声が誰のものなのか、私は初めわからなかった。氷雨がふと顔を上げるのを見た時、私はようやくそれが私自身の声であったことに気付いた。フェンスの向こうに指をさす。ビルとビルの隙間から朝がやって来る。太陽が雲を照らして東の空は青紫に光り、燃えるように広がっていく。床のタイルはちらちらと朝日に騒ぎ出し、氷雨の白を引き立てた。これを見るために、私はここに来たのかもしれなかった。
 氷雨はため息をつき、勢いをつけて立ち上がる。踵をかえし、屋上の扉のドアノブを握った。
「帰るわ」
 氷雨は左手でドアノブを握り、まるでリビングのドアでも開けるかのように軽々と引いた。私はその扉を両手で押し開けたのだ。いったいこの細い体のどこにそんな力を秘めているのだろう。私が聞こうとすると、氷雨はさえぎるように言った。
「今日はもう死ぬのには明るすぎるみたい」
 氷雨の右手にはしっかりフェンスカッターが握られている。また違う日にこの義務の続きを遂行せねばならないとでもいうように。空からは夜が逃げていく。太陽が宝箱のフタをあけるように輝きだし、夜は朝日のまぶしいさざなみに追われ、砂城のように溶けていった。
 その日、氷雨から四度目の自殺予告を受けて、私は廃墟に侵入していた。初めて会った日以来、氷雨はこれまでに三度も「さよなら」と私に電話して寄越した。そのたびに私は柵を乗り越えて廃墟に侵入したけれど、屋上では氷雨が床に座って待っていた。私の姿を見るなり「来た来た」と言って、フェンスを切り始める。少し切ったら、鉄の編み込みを解こうとフェンスを揺らす。その綻びはまだ人が通れるほどには緩んでいない。氷雨はまるで死ぬようには見えない。けれど少しずつ、確実にフェンスはほころんでいく。
「どうして人間が死に無関心でいられないか、あなた、知ってる?」
 あなた。氷雨は私を決まってそう呼ぶ。私の名前を聞かないし、知ってもそれを呼ぶ気はないのだろう。私はフェンスを切る氷雨の背に向かって答えた。
「それは人間が死に無関係でいられないからでしょう。生まれたものはいつか死ぬに決まってる。私たち全員、生まれた瞬間には死が約束されてるじゃない。生まれる希望には死ぬ絶望が縫い合わされてる。生まれる絶望に死ぬ希望が縫い合わされてると考えることもできるけど。どのみち、死から解放されてる人間なんて存在しない。だから人は死に無関心でいられない」
 一理あるわね、と氷雨は唇だけを動かして答えた。氷雨はこちらに背を向けている。背中まで伸びた白い髪が月の光を深く吸い込む。まっすぐに落ちる滝のように氷雨の髪は冷たく輝いた。そして今日もあの服を着ている。ここに立つ時にはそれを着なくてはならないかのように、氷雨は白いひざ丈のワンピースを着た。薄氷を何枚も重ねて白く見えるような、あの透き通る、袖のないワンピースだ。
 夜の底を鋭い音がキッと割いていく。また一本、鉄が切り落とされた。
「でも、もっと単純な話かもしれないわ。人間が死に無関心でいられない理由なんて」
「たとえば?」
「死神が特別に美しい、とか」
 月光が肌を洗う。氷雨の方は真珠のようになめらかで丸く眩しい。なにそれ、と笑ったけれど、氷雨はその手を止め、こちらを振り返った。
「ねえ、これは嘘じゃないのよ。私、死神が見えるの」
 しんと冷たい海の瞳がきらりと揺れた。その青の先に、私は囚われている。深い水底に私はいて、逃げることはできない。そして望まない。
「どんな姿をしているの、死神って」
「いろいろよ。真昼の白い月、よく研ぎ澄まされたナイフ、それから」
「それから?」
「あなたの死体」
 私は言葉をつぐんだ。氷雨はフェンスに向き直る。氷雨の手に握られたフェンスカッターは再び鉄の網を切断し始めた。
「どうして、氷雨は死にたいと思うの」
 ぴんと張りつめた鉄がまた切り落とされる。時が止まる。私の肺も心臓もそれに合わせて石になった。でも次の瞬間には、血の通う臓器に変わっている。また音が聞こえる。そのたびに私は命を奪われ、また新しい私を氷雨の手によって吹き込まれた。その音はきっぱりと終わりを告げるように、潔く、ただ夜の底に固く響く。氷雨は作業の手を止めない。
「私、正確に言えば死にたいなんて思ったことないわ。死ぬって体の細胞のすべてが息の根を止めるってことなのよ。生かそうとしているすべての力にあらがうんだから、しんどくないはずがないじゃない。そんな目に合うなんて御免よ。でもね、そんな時限爆弾を抱えながら生きていることのほうが、不幸なんじゃないかって思わない? 一番いいのは生まれないことね。死にたいと思うことと生まれなければよかったと思うことは別なのよ。私はただ、生まれなければよかったと思っているだけ。死にたいのとは違う」
 わかるかしらね、と氷雨が息をつく。わかるよ、と私は答えた。
「氷雨も私も、自分のことが一番好きなんだ」
 空は東から少しずつ朝に侵食されて、朝と夜の境界は青紫にしぶきをあげていた。もう少しだ。朝が来れば氷雨は決まって言う。「今日はもう死ぬのには明るすぎるみたい」と。そうして永遠に機会を逃し続ければいい。何も決められないままで、私たちは生きていく。
「私たちの精神は私たちの肉体を容れ物としているだけ。つまり、私の核はこの容れ物の中にある。私はこの容れ物を特別に気に入っているわけじゃない。もっと良い容れ物を持ってる人はたくさんいる。でもね、私はこの容れ物の中にいる私そのものを何よりも深く愛している。だから自分を殺そうなんてことは一ミリたりとも考えられない。『自分が一番大事な人』って言えばいいのかな。私はそれ。氷雨もね」
 そしてこれは決して悪い意味ではないの。そう言うと、氷雨はうなずいた。「わかるわ」。氷雨はこちらに歩み寄り、私の手を握る。大丈夫、と耳元でささやいて。指に触れるフェンスカッターの金具が冷たい。冬の始まりに降る氷雨みたいに。私はゆっくりと瞑目し、真昼の白い月を思い描いた。念じる。この世で最も美しいのは真昼の月だ。それは青白く架かる三日月。ああ、見つけたと思うのに、すぐに忘れ去られてしまうもの。ゆっくりとまぶたをあげると、氷雨は真昼の三日月に姿を変えていた。私の目の前にいた白い女はどこかに消え、代わりに手のひらほどの大きさの三日月が浮かんでいた。白く光る月は私の目線にあって、青い靄をまとっている。床の青いタイルにはゆがんだ鏡みたいに三日月をぼんやり映していた。手にはまだ氷雨の手の感触があった。たしかに氷雨はここにいる。
「死神は見る者にとって、もっとも美しい姿を見せる。死を愛させ、死にいざなうために」
「氷雨。あなたは死神だったのね」
 私はよく磨き抜かれたナイフを思い描いた。再び私自身に言い聞かせる。この世で最も美しいのはナイフだ。よく磨き上げられた、切れ味のいい、銀色に光る刃だ。そうすると、月と青い靄は砂のように瓦解した。幻想の砂は私の足元に降り積もり、やがて真夏の熱風に舞う。砂が青いタイルの上をさらわれるように流れていくと、砂山の中からは銀色の刃物が姿をのぞかせた。ナイフだ。
 空を見上げると、本物の月がそこにある。宇宙が丸ごとはじけてしまったかのように、星は遠く散らばっていた。ナイフの刃は月光と星々の光のすべてを反射して、白銀をたたえる。痛いほどに冷えたその身を、裸のままに地に横たえて。私は透明な手の感触を握り締めたまま、地に落ちたナイフを見つめた。氷雨の声が聞こえる。「生まれなかったことにだってできるのよ、あなたのこと。死んだ時、人は二つに一つの選択を取れる。死体も、他者の中にある記憶も残すか。それとも、肉体も、人々の心に残ったあなたの記憶さえもすべてを消してしまうか。後者を選ぶなら、あなたはほとんど生まれなかったということにできる。そうでしょう? あなたの身近にいる人間も、きっとそういう選択をした人がいるわ。でもその人の記憶はまるっきりあなたの中に残っていない。死体もない。だから誰も死んだことを知らないし、生きていたことさえ知らない。きっとあなたは、そんなことを望むでしょう。私にはわかるの」
 無意識に止めていた息を解放する。深く吸って吐いて、もう一度目を閉じた。氷雨。私の氷雨。視線を右手にうつすと、白い手が私の右手に指を絡ませていた。離れないように。編み込むように。足元のナイフも砂も初めから存在していなかったかのように消えて、氷雨だけが私の隣にいた。私たちは真昼の月で、研ぎ澄まされたナイフだ。美しいと思うことと、大事だと思うことは同じことなのかもしれない。
「いい提案だと思う。私の死神が氷雨でよかった。でもね」
 氷雨の薄い肩を抱きとめる。背中に指を這わせ、指の腹でぎゅっと氷雨の体躯を私に押し付けた。
 向こうに見える地表から太陽の白い光の矢が無数に放たれて、高層ビル群の窓という窓を駆け抜けていく。朝は夢のように煌めき、夜のベールをめくりあげ、私たちをあらわにしていった。
「今日はもう死ぬのには明るすぎるみたい」

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