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乗り物と私①

以前、映像で見たチベットの鳥葬場は、摺り鉢状の格好をしていた。解体した遺体を置くと集まってきた鳥が群がって食べ、残った骨がガラガラとすり鉢の中心部分に自然に集まっていくという為の形だったと思う。

鳥はヒッチコック の映画のように黒いシルエットとなり、葬儀場の周りをグルリと囲んでいた。(映像を見たのは昔なので私が勝手に追加してイメージしたのかもしれない。)

効率の良い形式ができているということは積み重ねた工夫があるわけで、初期の形とは異なるのだろうが、とにかくその摺り鉢型葬場は非常に良く出来た構造だなぁと感心したし、感情ときっぱり切り離されたような機能的な様が妙に清々しかった。

また、生きている間に、散々殺生して食い散らかした自分の肉体が、出来る限り少ないエネルギーで消え失せ、知りもしない鳥の血肉となり糞となれば、なんらかの循環に関われるようで悪くないなぁと、信仰心も無く、環境問題に取り組んでもいないのにしみじみと思った。

当時付き合っていた人にその話をしたら、いくら死んだとしてもあなたの目玉が嘴に啄まれたりほお肉が引きちぎられて、食いちらかされていると思ったら嫌だなと憂いを帯びた目をして言った。死んでいるので大丈夫じゃないの、とか、食い散らかすというより鳥は案外綺麗に食べるよ、などという言葉が手前迄出かかったが、このまま話を続けると、まだ死んでもいない私への恋愛感情が失われそうな気がしたので、確かに万が一死んでも痛みがのこっていたら嫌だよね、などと言って話は終わった。

身体は単なる乗り物であろうと思っているが、身体がなくなった後に魂や心のようなもののみが肉体がある時と同じ形で存在するとは思えない。でも生きている間は肉体を乗り物だと思う方が自分には合うなと思っている。痛みと自分を乖離させる便利もあるが、それだけでなく肉体と自分が全て一体だと思うと、つまらないような気がする。

端的に言えば私の欲望だと思う。感情や言葉や肉体から離れてのみしか、捉えられないものがあってくれないと困ると思っている。巷に溢れるスピリチュアル的なものとも違う。名前がつく前のもの、概念になる前の何か。嬉しいとか悲しいとか優しいとか可哀想とか祈りとか幸福とか不幸とかその場しのぎのものではない何か。ふと捉えたと思った瞬間に必ず逃げていくもの。もしそれを「分かります。そういう『素敵な』瞬間ってありますよね」としたり顔で言われたら黙り込んでしまうだろう。もしくは返す刀で「『素敵』って何ですか」と言って険悪なムードにしてしまいそうだ。

外部と肉体、肉体と私は連動しながらも別々に存在している。独立したそれらの間のものを示すためにそれを連動させて形にしていく。肉体がある間にのみ出来ることだ。だから、鳥の鳥葬場が機能的であることに感心しても、肉体が死んだ私が魂として存在していて欲しいわけではない。死んでからの無限よりも、生きている間に概念と結びつかないものを捉えたい。

普遍化され共通語となったものは、現実であらゆる事を円滑に進めるが、油断していると機能と肉体と私の連動が鈍くなり何もかもが曖昧になっていくような気がする。分かりやすく見かける言葉で言えば、幸せをお祈りすると言い続ければ幸せのことが分からなくなるだろうし、病や死を気の毒や不幸とすれば永遠にそれを捉えることはできないだろう。便利に油断して痛みなく過ごすうちに肉体も私も擦り減り、いつしか何のために生きているか分からなっていく。かといって無言で死んでいくことも出来ない。

黙っていられないならば、私はせめてあの時、恋人に鳥葬場の話をし続けなければならなかったのだろう。

私は、自分が死んだ時にどんな葬られ方をしたいかを話したかった訳では無いのだ。

「鳥葬における摺り鉢状」がいかに効率的か延々と語り、恋人の目が憂いから幻滅に変化する様を見届けたら良かったのだと思う。





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