「アルカエア」第1話

 俺の仕事は――こと、今回にあっては、拷問官だ。

 ……聖職者は、無論、生ける存在を傷つけてはならない。

 だが、生きていない物は、その限りではない。

 よって、『吸血鬼は存分に傷つけて良い』というのは、俺が生まれながらにして、刷り込まれてきた信念だ。今回に限らず、対吸血鬼戦闘においてであれば、俺はいつだって拷問官と言えただろう。

 概念的には、俺は恐らく、刷込や洗脳といった手法を用いて、感情をコントロールされているのだと分かる。だが、俺にとって吸血鬼は、生き物ではない。

「嫌……っ、やめて……」

 泣きじゃくる、俺と歳が変わらなく見える、幼い少女姿の吸血鬼は、外見上は何も人間と差異が無い。パチンとバタフライナイフを広げた俺は、無感情に、そんな吸血鬼を一瞥した。吸血鬼の力を無効化する、仏諜報機関DGSEが開発した、特別な銀製の手錠が、高い音を奏でている。

 恐怖から血走った白目、涙が止めど無くこぼれ落ちていく頬。

 理性では理解できる。この『人間の子供と同じ姿』をした存在が、恐怖し、助けを請い、死にたくないと訴えているのだと。そして吸血鬼などという非科学的な、それこそ民間伝承の中における架空の存在など認めない人間が見たならば、即座に拘束されるのは己の方であるとも理解ができる。

 吸血鬼に歩み寄り、俺は華奢な左手を持ち上げる。それから握るように、吸血鬼の人差し指を、左手で握った。右手では、バタフライナイフを、第一関節へとあてがう。

 ――誰も、非人道的だとは言わない。

 吸血鬼を殲滅しない事こそが、人類への冒涜であると、俺は教わって生きてきた。善悪の観念など、既に麻痺しているのかもしれない。躊躇う事なく俺はナイフを引いた。少女が絶叫しているが、この時には既に、俺の三半規管は麻痺してしまったかのように、人ではないその存在の声を拾わなくなっていた。あるいは――聞きたく無かっただけなのかもしれない。

 左手の人差し指の第一関節から肉を削ぎ落とし、最後は骨を切った。ナイフからは特殊な酸が滲み出ているから、楽に切断可能だ。暗いこの地下牢において、黒く見える血飛沫が、俺の顔を濡らす。だが、目深に被った帽子と、暗視ゴーグルのおかげで、皮膚に直接的な被害は無い。

 俺にとって少女の鮮血は、ただの邪魔な水滴だ。
 直ぐに、二本目の中指に取り掛かる。

 本日の俺の任務は、この少女姿の吸血鬼の、右手五本の第一関節から先を、全てそぎ落とす事だ。滑稽で下らない部類の仕事である。何の感慨も抱く事は出来ない。黒く見える吸血鬼の指の肉にも、そこから覗く骨の白にも、絡みつく黄色い脂肪の線にも、そのいずれにも、憐憫など想起しない。

 涙と鼻水と涎が入り混じった吸血鬼を見れば、痛覚があるのは理解できる。他にも、人間と吸血鬼の類似点として、思考や感情がある事も、既に判明している。だからこそ、こうして古典的な手法で拷問を行っている。

 この吸血鬼に罪はない。偶発的に別の吸血鬼に噛まれ、その後は他の人間を噛む事もなく、街の空家の片隅で蹲っている所を、俺が所属する機関が発見しただけだ。緩慢に瞬きをしながら、俺はその事実を思い出す。だが――吸血鬼とは、存在が罪なのだ。よって、元々の『この吸血鬼に罪はない』という前提が誤っていたのだと、考え直す。

 ――早く楽にしてあげれば良いのに。

 俺の中で、悪魔の声が囁いた。生きてはいない吸血鬼にも、『死』は、在る。完全なる活動停止を、我々はそう表現している。我々というのは、この機関に所属する、対吸血鬼専門部隊の人間全ての事だ。

 床を一瞥し、俺は落下した人差し指の肉を見た。蠢いている。元の位置に接着すべく、振動している。他の血液も融合するように集まっていく。それらは群となり、やがて床で手の形を象り始めた。これは吸血鬼の思考が、自分のその部位を、人間の少女の手と同一だと考えているがために起きている現象だ。吸血鬼の血液には、旧源菌と呼ばれるある種の系統が見られるのだが、それは、どの『生物』の持つ系統とも異なる。

 最も似通っているのは、原核生物だろうか。我々の機関では、吸血鬼の実態は、変化した血液中の旧源菌だと捉えている。理論的には、旧源菌が、吸血鬼の牙により、人間の血液に注入されると、人間は死亡し、その後は旧源菌がその者の体を操作するのだと提唱されている。ただ旧源菌は、意図的に、脳機能のみ保全する。これは蟻を操るある種の菌と類似した働きだ。人の脳機能が保たれている方が、旧源菌にとっては有益らしい。しかし本来、肉体が死すれば、脳機能もまた損なわれる。

 現在、解明出来ていない吸血鬼に関する事柄としては、三つある。一つ目は、何故旧源菌が、人の脳機能を保全するのかという疑問だ。二つ目は、何故旧源菌に感染すると、死した肉体が再生能力を保持するようになるのかという問題である。最後に、三つ目であるが、理論上仮定されている旧源菌が、いかなる手法においても、未確認であり、推論の域を出ない――即ち、どうすれば旧源菌を確認できるのかという、命題だ。

 仮に旧源菌を確認できたならば、その時点で、この行為は、吸血鬼に対する戦闘行為では無くなる。未知の旧源菌という存在に冒された死体の処理と、名前が変わるのだ。あるいは、病者への屠殺処置となる。病者は生者だ。つまり、俺達は人殺しだという事になる。

 この観念――自分達が人殺しでは無いかと、人間を恐怖させる事を目的として、旧源菌は、敢えて脳機能を残し、人と類似した言動を肉体に取らせているのでは無いか。

 この一連の考察を俺達の機関に齎したのは、吸血鬼研究の第一人者である、ブラックベリー博士であると言う。

 確認する事が出来ないにも関わらず、俺達人間も、この系統が存在すると、認める以外の術がない。証明する事が出来なくとも、存在する事を、本能的に理解している。そして、目の前には、現にこうして吸血鬼が存在している。

「オロール卿は、何処だ?」

 痙攣している吸血鬼に、俺は問いかけた。これが、ここ連日の拷問の主題である。初日は、指の皮膚を、一本ずつ剥いた。二日目は、爪を引き抜いた。そして三日目の本日が、第一関節の切断だ。明日は、第二関節、明後日は手の指の全てを切り落とす。では、五日目は? 足に移る。その後は? 顔の部位だ。既に死している吸血鬼は――そのような拷問にかけてもなお、死なない。このままならば、この少女姿の吸血鬼に待ち受けるのは、肉塊と等しい姿のままでの、永遠の生だ。

 吸血鬼を殺害する方法は、唯一だ。人間の血液を摂取させない事である。

 しかし、この少女姿の吸血鬼の首筋には、輸血用の血液パックが突き刺さっている。傷つける手法は、古より伝わる特別な銀など用いるまでもなく、こうして対人時と同一でも問題は無い。問題は、彼らが、『死なない事』及び『人間を食料とする事』である。

「Il est au Japon」

 震える唇でそう紡ぐと、吸血鬼は意識を落としたようだった。

 ――嫌な夢を見た。

 ここは、フランスではない。こめかみに張り付く金髪を、指でくしゃりと撫でるように持ち上げる。戸籍的には日本人であり、血縁的には、俺はクォーターである。金髪と一口に表しても、俺の場合は、祖母のプラチナとは異なり、ダークブロンドだが。

 俺は祖母を、写真でしか目にした事が無い。

 移民政策化で困窮していた元第二身分――白色人種と古の爵位を誇りとしていた我が祖母は、最も大切な誇りを、俺から見ると売り飛ばしたと言える。旧とはいえ、仏貴族社会にあっては蔑みの対象ですらあるが、金で家柄を売り飛ばしたのである。それも、婚姻などというような、生易しい階級移動の手法では無い。己の卵子を売り飛ばしたのだ。

 買ったのは、DGSE――仏諜報機関に属する、対ル・ヴァンピール特殊部隊の研究班だった。そして、協力関係にあった、日本国CIRO――内閣情報調査室庶務零課から精子提供を受け、実験として、『日本で言う所の霊能力が強い子供』を生み出した。それが、俺の父だ。DGSEは、各国の『スピリチュアル』な力……国連定義の霊性とは異なる意味合いにおける、それこそ『能力者』を求めて、人工授精を繰り返したようである。

 そうして生まれた――生み出された父は、第一身分……三部会の制度を引きずっていた、聖職者家庭に生を受けた母と恋に落ちた。母もまたプラチナブロンドだった。俺のこの、日本人離れした髪の色は、父の暗い髪の色と遺伝学を考えるならば、母譲りでは無いが――少なくとも、三歳まで、俺は愛を疑う事なく育ったはずだ。

 しかしながら、実験体かつ戦力と、単体戦力であった、父と母は亡くなったと聞いている。死因は――吸血鬼に、喰い殺されたそうだ。今となっては、この事実関係すら、俺には不明だ。なにせ、俺の最古の記憶は、DGSEの面々が、幼い俺を迎えに来た光景なのだから。

 以降俺は、ただひたすらに、吸血鬼を排除しなければならないとして、育てられた。どのようにして拷問し、どのようにして殺傷し、どのようにして人類を存続させていくか。それが俺にとっての全てであり、他の世界は存在しないと言えた。

 愚鈍に歩く通行人を見る度に、俺は感じたものだ。

 ――吸血鬼という脅威がすぐそばにいるのに、知る事も叶わず、平和だと妄信している、愚かで哀れな存在だ、と。

『Il est au Japon』

 ――彼は、日本にいる。

 少女らしい吸血鬼の声が蘇った。契機が訪れたのは、まさにあの『拷問』の頃だった。俺はあの頃、『オロール卿』と呼称される、ディフュージョンされている国際手配書『深緋』の吸血鬼を追いかけていた。Auroreは女性名詞であるが、歴とした男性型吸血鬼である。オロールは、この国では、黎明という意味だ。現在では、その者は、『夏瑪夜明』と名乗っているらしい。端緒、俺は、仏諜報機関より、オロール卿の討伐のために、この日本という国へと派遣された、祓魔師だったのである。

「ねぇ、精子を売ってくれない?」

 初任日に、俺はそう声をかけられた。てっきり、仏での噂を、その日本人女性も耳にしているのだろうと考えた。聖職者である俺は、一度でも姦淫の罪を犯したならば、永劫、この身に宿る力を使う事が出来なくなる。大和撫子は過去の幻想だという言説が誠であり、現代の日本人女性が獣に成り下がった事を、俺は嘆こうとした。だが、彼女は言った。

「そうすれば、貴方の人生の借金の半分は返せるもの。人生は謳歌しないと勿体無い!」

 ……その言葉を聴いて、俺は初めて彼女の顔を正面から見た。

 白い肌に、そばかすの痕が残る、俺よりも十歳年上の女性だった。
 当時、俺は十三歳だった。

「知ってるの、私。ルイくんは、大叔父様達の借金が終わるまでの間、DGSEで働かなければならないんでしょう? 大叔父様が、精子提供をしたと聞いたの。つまりルイくんと私は、またいとこ」
「それが、何?」

 その時の俺は、目を細めて、無表情で返答した自信がある。

「DGESがね、私とルイくんの子供を作るならば、これからは、ルイくんを日本国籍にしても良いと話していたんだって!」
「――体の良い厄介払いか」

 ポツリと、俺は返した記憶がある。移民政策への反対という世論が巻き起こって久しかった。いくら『能力』があろうとも、国策に合致しない人間など、存在価値は無いのだろう。別段俺は、驚かなかった。そもそもが、大別するならば基督教徒がしめる仏において、異教徒の血が混じっているにも関わらず、『敬虔』だとされる自身の方に違和すらあったからだ。

「……そんな事は無いと思うよ?」
「それで? この国で、俺を引き受けて貰う条件は?」

 淡々と俺が聞くと、彼女は両頬を持ち上げた。

「まずは、私のお婿さんになってもらいます! いやぁ、玲瓏院家は今ね、私しか後継者がいなくて困っちゃってるんだ」
「婿? この国の戸籍制度について、俺は何一つ詳しくは無い。好きにして。後は?」
「……、……子供を、作ります」
「へぇ」

 俺が適当に頷くと、彼女は笑みを強ばらせた。東洋人は若く見えると耳にした事もあるが、俺はそうは思わない。149cmの僕の身長と、彼女の身長は、ほぼ同じだ。しかしながら、肌ツヤを見る限り、僕は子供と表するに相応しいが、彼女は老化している。

「俺に、おばさんを抱けっていうの?」
「私まだ、二十三歳なんですけど」
「僕は十三歳だけど?」
「……ええと、人工授精します」
「生殖可能だけど――とすると、能力を遺伝させつつ、俺にも力を残したいんでしょう?」
「え、ええ、まぁ」
「採取してくるから、精液採取キットを」

 慣れていたので俺が伝えると、彼女は呆気にとられたように目を丸くした。それから赤面した彼女を見て、その時になって俺は、初めて気がついたのである。見た事こそあったが、一応同僚である彼女の名前すら知らない事に。

「名前は?」
「紗衣です!」
「俺は、ルイ・ミシェーレと言うんだ」
「知ってます! お婿さんになってもらった場合には、『縲』くんってどうかな!?」
「どうかなと言われても……」

 掌に漢字を書いている紗衣を見て、この日の俺は、多分馬鹿にしていたのだった気がする。彼女というよりも、俺は女性を見下していた。卵子を売り払った祖母と彼女が重なったのだ。記憶に無い母だけが、俺の中で象徴的な女性だった。

 ――一年後。

 俺は会議に出ていた。

「ルイくん!」

 その時、会議室の扉が、音を立てて開け放たれた。俺が視線を向けると、そこには紗衣が立っていた。

「生まれたよ! 代理母だから、私、立ち会ったんだけど、本当に良い、もう一人のお母さんだった!」
「?」
「私達の子供! 双子! 絆と紬にするね!」
「は?」

 俺はこの時、一年前の話など、すっかり失念していた。逆にこの頃になると、玲瓏院紗衣という名前の彼女の頭が奇天烈であると、俺は学んでいた。やる事なす事意味不明なのである。

「会議なんて放っておいて、早く来て!」
「……」

 正直な話、『何言ってんだこの馬鹿』と、俺は思った。ジェットババーは、名前も政府対応も適当であるが、一度事故を起こしたら、凶悪な存在だ。

「早く!」

 しかし、彼女が叫ぶ。俺が無表情を保っていると、会議室の視線が集まった。俺はもうすぐ十四歳になる子供だが、この国の官僚達から見れば、異国から来たエリートらしい。

 説明用のモニター脇にある手術台と入口を、俺は交互に見た。

「れ、れ、玲瓏院のご息女のお言葉ですしなぁ」
「そ、そう! 紗衣殿の!」
「ミシェーレ氏は、婿殿だとか……」
「ええ、ええ、我が派閥も心得ておりますぞ!」
 しかし、日本の政治家達は、机の上の書類と紗衣を見比べた。誰も俺の事は見なかった。結果、二分後には、俺は、会議室を追い出された。
「……」
「行こっ、ルイくん!」
 二十四歳になったらしい玲瓏院紗衣は、俺の手を握ると、恋人同士のように繋いだ。その柔らかさが――気持ちが悪い。これまでの間に、俺の周囲に、このように柔らかく暖かいものは、殺害対象しかいなかったからだ。
「ルイくん?」
「離せ」
「やだ」
「……じゃあ、死ぬ?」
 投げやりに俺が聞くと、紗衣が驚いた顔をした。それから彼女は眉を吊り上げた。
「冗談でも、そんなこと言っちゃダメなんだよ。この国では、特に! 言霊っていうのがあるんだからね」
「それ、神道の概念なんじゃないの? 君さ、仏教徒でしょ」
 俺は的確な指摘をしたつもりでいた。しかし――直後に軽く頭を、撫でるように叩かれた。まさか、彼女が手を挙げるとは思っておらず、俺は目を見開いた。
「関係ないわ」
「っ」
「死んだら、全部終わりなんだよ。何を犠牲にしても、生きなきゃダメ」
「……」
「いい? ルイくんも、何よりも、自分の命を大事にしてね。そうしてこそ初めて、命を奪う他者を、怒って良いんだからね!」
 その後、彼女は破顔したのだったが、俺の胸は妙に疼いていた。
 ――この年、俺には、彼女との間に、人工授精で二人の子供が生まれた。しかしながら、日本という国において、十四歳の俺は、妻帯できない。よって、手続き上、十八になれば婚姻できるように、戸籍を用意してもらう事が叶った。仏に、戸籍が無かったわけではない。より、婚姻しやすい状況を整えてもらったというのが相応しい。

 例えばそれは金銭面だ。これは、分かりやす過ぎるか。
 紗衣は――とにかく、俺が求める事柄を、一歩先を回るように処理してくれた。

 だが。

 だが、それがなんだ?

 彼女の行いは、俺にとっては、無価値だった。平穏に暮らせる事、安寧など、俺は求めてはいなかった。俺が理解できるのは、白と黒だけだった。それはあるいは、生と死だ。血肉を柘榴のように、切り刻む時だけが、俺の生きている瞬間だったと言える。

 いつか、仏の書評家が寄稿しているのを見た。

 グロテスクな描写を飲食描写と重ねるのは、酷く下品であると。対談していたこの国の小説家は、直近の著作で、脳症とストロベリーを混ぜ合わせていた。俺は思う。滑稽だと。しかし俺の意見は、誰も、耳を傾けてはいないのだ。

「離せ」
「早く私達の子供を見に行こ――」
「お前が勝手に生んだ子供だろう。いいや、産みすらしなかったのか、俺を付き合わせるな」

 そう告げて俺が手を振りほどくと、彼女が奇妙なものを見るような顔をした。

「ルイくんは、私に生んで欲しかったの?」
「――は?」
「私はそれでも、勿論構わないけれど」
「何の話をしているんだ?」
「だって、不貞腐れているように見えるんだもの」

 俺はそれを聞いて、掌に爪を突き立てた。本当は、俺を馬鹿にしている彼女を殴りつけたい衝動にかられたのだが、仏人の男として、弱者の彼女を嬲る自分が許容できなかっただけだ。

「だけど、そんなルイくんが、好き」
「……黙れ」

 俺がそう吐き捨てた時、俺達がいる場所からよく見える場所を、ジェットババーが走り去っていった。辟易した気分になる。すると、紗衣もまた溜息をついた。

「ひらがな、って、感じ」
「ひらがな?」
「ニュアンス。気が抜けた」

 彼女が何を言いたいのか、俺にはさっぱり分からなかったのだった。

 ――結局その日、俺は生まれたという『我が子ら』を、見に行かなかった。理由は簡単だ。エントランスへと向かう途中で、危険な怪異が現れたという一報が入ったからである。そもそも俺は、オロール卿の搜索のために、仏政府より派遣された。よって、それ以外の――吸血鬼以外の怪異への対処は、あくまでも『協力』していただけである。

 この時、見出された怪異は――日本という国では珍しい、まさに、吸血鬼による犯行としか思えないと、惨殺遺体から推測されたものだった。

 連絡を受けて、俺はすぐに現場へと向かった。一緒にいたからなのか、紗衣もついてきた。この時の俺は、彼女の存在を鬱陶しいと思っていたが、同時に『便利』だとも感じてはいただろう。

「うわぁ」

 現場に着くと、彼女が笑顔のままで、そう口にした。平坦な声音だった。
 俺達の目の前には、バラバラになった女性の惨殺体が転がっていた。

 入口の正面に、生首が鎮座していた。左の眼窩から、眼球が垂れている。視神経が見て取れた。右目は潰れていて、濁った血が穴からこぼれ落ちていた。鼻は、無い。ベーコンのように、削ぎ落とされているようだった。

 その少し後ろに、胴体が転がっていた。他は、指、手首、肘、肩で、切断されたらしく、様々な肉片が散らばっている。それらを目視した時、血腥さを嗅覚が訴えた。ポケットから、半透明の手袋と、白いマスクを俺は取り出した。

「完全に、喰い殺されてるね」

 場違いなほど、明るい紗衣の声が谺する。俺はそれを聞いて、目を細めた。

「まずは、死者に祈りを――」
「案外、ルイくんってロマンティストなんだね」
「っ」
「肉片に祈っても、何も良い変化は生まれないよ」

 朗らかに笑いながら、紗衣は手袋をはめていた。彼女と、怪異が起こした事件の現場に来るのは、思えばこの時が初めてだった。遠巻きに、同じ場所にいた事はある。だが、二人きりに等しい状況化で、こうして同じ事件に立ち会ったのは、初めてだったのだ。

 俺は、この時になって初めて、彼女という『個』を意識した。

 緩く肩のあたりで巻いた、色素の薄い髪。少し垂れている大きな黒い瞳。長いまつげ。豊満な胸元を見て、それから予想以上に華奢なくびれに気づいた。背丈はそう変わらないが、彼女の方が、ずっと俺よりも、柔らかく見える。

「ただ、吸血鬼の晩餐にしては、下品だね」
「――こういった、衝動的な遺体の損壊をするのは、成り果てたばかりの吸血鬼が多い。衝動的な犯行だね」
「そうなんだ? だとすると――この事件の犯人を噛んだ、より強い吸血鬼がいるという事になるのかな?」
「恐らくは、ね。そしてその存在は、後任指導をするような、善良な吸血鬼ではなかったんだと判断するよ」

 俺が答えると、彼女は腕を組んだ。その上に、豊かな胸が乗る。スーツ姿の彼女の、シャツのボタンが僕は気になった。漠然と、弾け飛びそうだなんて思ったのだ。

「ルイくん?」
「――オロール卿の関連事件だと考えていたんだ」

 自分の思考を誤魔化すように、俺はそう告げていた。その際初めて、俺は、彼女の柔らかさを認識するだけで動揺する自分に気がついた。甘い香りと柔らかさが、すぐそばにあるだけで、胸が騒ぎ立てる。しかし、いつもは僕にちょっかいを出す彼女は、事件の前では真剣だった。

「仏の専門家がそういうんだもんねぇ。それに今、この国で確認できている吸血鬼は、数少ないからぁ……その中で、簡単に吸血鬼を増やしそうなのも、一人だけだし。オロール卿かぁ」

 彼女はそう言うと、勢いよく俺に振り返り、ポンと俺の肩を叩いた。

「相手にとって、不足なし!」
「――え?」
「ルイくんが追いかけてきた、『敵』だもんね。調べに行こう!」
「どうやって?」
「そこで潜入調査をします。犯人の可能性がある吸血鬼が、ある大学にいます。そこに質問者という形で話を聞きに行きます。朝儀くんと縲くんの自由研究――というような雰囲気で、進めていこうと思います。民俗学的に不思議なものを発見した中高生と引率の先生の私、という流れで、対象に接触します。あとで、基礎的な今回の役割のプロフィールを送っておくね」

 藍円寺朝儀というのは、この対策班のメンバーの一人だ。
 その後帰還し、改めて説明があった。

「――それでは、今回の任務を改めて説明します。第一の任務としては、夏瑪夜明教授がオロール卿であるか否かの確定作業となります。それが第一です。討伐はその後の任務となりますので、当面は、確定作業に従事して頂きます」

 そのまま、昼食の時間になった――即ち自由行動が許可されている時間だ。
 俺は支給品のスマホを片手に、席を立つ。

 そして一つ上のフロアにあった、DGSEの出向室へと向かった。俺一人しか来ている者はいないから、ここはほぼ、俺の専用の部屋だといえる。一応、まだ『来ている』という扱いだが、あと四年ほどしたら、俺は日本人になるそうで、そうなれば、この部屋は俺のものではなくなるのだろう。

 朝、コンビニで買ってきたサンドイッチの封を切り、ツナサンドを食べてから、俺はスマホを見た。そこには、夏瑪夜明教授の詳細な情報が送られてきていた。

 一体、オロール卿と思しき教授は、どんな研究をしているのか。
 まずはそれを確認しようと決めたのである。

「縲くん! ここにいたの!?」

 ノックの音がして、扉が開いたのは、その時のことだった。入ってきた紗衣に視線を向けながら、俺はスマホを鞄にしまったのだった。

「みんなと一緒に、ご飯を食べようよ」
「断る。もう食べた」

 俺がそう述べると、紗衣がダストボックスに投げておいたサンドイッチの包装を見た。それから眉根を下げて、俺の正面の机に、水色のトートバッグを置く。

「お弁当を作ってきたんだよ? 今日から毎日作ってくる予定なの。言っておけば良かった――というのもあるけど、それしか食べないのは不健康だよ! まだ入るでしょう? 食べて!」
「お弁当……?」

 初めて聞く単語だったからだ。仕出し弁当とコンビニ弁当を、俺は日本に来て初めて学んだが……作って……?

「ほら! 見て!」

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