詩詞評|『BI』FINLANDS
作品紹介
当楽曲は2018年の作品です。
アルバム名と同じタイトルをもつ表題曲であり、曲順はセットリストを締めくくる最後です。時代としては珍しく約7分の中長尺で、構成はオーソドックスな展開を聞かせます。
タイトルの『BI』は読みを「バイ」、<両性具有性>を指します。つまり、<一つの個体が二つの異なる属性を有すること>です。英語の接頭辞として「バイリンガル」や「バイセクシュアル」のように他の語と結びつきます。
『BI』が指している<BI>とは何のことでしょうか?
この問いだてが『BI』を読み解く際の大きな指針となります。
読解
本稿では、楽曲をパート分けし、その箇所を翻訳していく形で読解を進めていきたいと思います。「」内は翻訳ないし解釈、パート分けは下記とします。(※1)
パートI|イントロサビ
『BI』が指している<BI>とは何のことでしょうか?
それは<記憶と記録>です。さらにもう少し踏み込むと、『BI』は<記憶/主観/主体>と<記録/客観/客体>を巡るストーリーです。
「曖昧なものはいらない」「確かなものが欲しい」
冒頭の第一連は、記憶よりも記録の方が優位な場面を描いています。その感情は、後に続く『離れていくなら手を繋いでいよう』や『期待をしている目覚ましの鳴らない/日々になんかにじゃない』というフレーズがより温もりをもって表現しています。後者の『目覚ましの鳴らない日々』というのは、単純に言えば「夢」のこと、「いつまでも眠っていていいから 気持ちよくて心地はいいけれど 曖昧で不確かなまどろみの日々」のこと。
「不確かなものがある」
他方で、第三連は、記憶の方が記録よりも優位な場面を描いています。『透明は青だあなたが言うなら/きっとそうだったはずだろう』というフレーズは、「二人で一緒に見たものは 白だったと私は思う 青だったとあなたは思う でもどちらも記憶だから確かなことは言えない」というひとつの<諦念>を表明しています。(※2)それは、同じ出来事を「あなたが感じているように わたしは感じられていない」という<やりきれなさ>、同じ出来事から<あなたが感じていること/をわたしは感じていない>という<わかり合えなさ>でもあります。
この冒頭部分では、<記憶と記録>は<葛藤>しています。
パートA|メロディーA
「思い出を形にする作業」
この部分は、記憶よりも記録の方が優位な場面を描いています。最初の二つの連は「形の無い物を形の有る物に変える」印象的なフレーズになっています。第一連の『稲妻』も『飛行機雲』も形はありませんが、『瓶』と『手』でなんとか捕まえようとしています。その試みがより身近なものとして表現されているのが第二連と第三連です。前者は「アルバムを作る」、後者は「気まぐれな恋愛をするわけにはいかない」という意味。
パートA|アッパーA
このアッパーにあたる部分は、パートAとパートBで一つ繋ぎになっています。ですので、ここでアッパーBも合わせて解釈を行います。
「不確かなままでいることの危うさ」
この部分は、記憶よりも記録の方が優位な場面を描いています。『それでも忘れてしまうからさ』の『から』は、そのまま後ろのパートに接続される、と考えるのが順当でしょう。続くフレーズは『あなたの記憶もわたしはいらない/……』という、記憶よりも記録の方が優位な場面なので、このパートはその補強部分として読みます。
アッパーAとアッパーBをまとめると、疑う→笑う or 泣く→忘れる、という日常が描かれています。そして、その其々の後に『あなたの記憶もわたしはいらない/記録を揃えて生きていたい』『あなたの記憶もわたしはいらない/彷徨うだなんてもう沢山だ』というフレーズが続きます。「二人の日常が 水に流れていって あやふやなものになっていくから どうかこれを確かなものにしたい」。
パートA|サビA
前半部分と第四連は、これまで同様、記憶よりも記録の方が優位な場面を描いています。第三連がわかりにくいので、整理しながら読み進めます。まず『崩れた指針を疑いもせずに/さっきのような何十年前も/期待をしている』を一つの繋がりと見ます。次に、その其々のパーツを解釈し、意味を繋げていきます。この一番最初の『崩れた指針を疑いもせずに』のフレーズは両義的に解釈できるため、読解が難しい部分となっています。このサビAが全体的に記憶よりも記録の方が優位な場面であることから、第三連も同じくその方向性で読み進めます。すると、『崩れた指針を疑いもせずに』というフレーズは、メロディAに登場したフレーズ『其々の愛にしがみついて/風向に従うわけにはいかない』と同じ意味を持つフレーズとして読むことができます。すなわち、『崩れた指針』=『其々の愛にしがみついて風向』=「気まぐれな恋愛」と読み、「気まぐれな恋愛を疑うことなく」=「気まぐれな恋愛に惑わされることなく」というふうに解釈します。続く『さっきのような何十年前も』というフレーズは、昨日のように思い出せる、という慣用句と同じく、「遠い昔のことでもさっきと同じくらい鮮明に」という意味です。まとめると、「気まぐれな恋愛に惑わされることなく さっきと同じくらい鮮明な遠い昔を 期待している」となります。
パートB|メロディーB
第一連と第二連は、それぞれ、情景中心の描写と心情中心の表現というように対になっています。沈んでいく夕日に、じぶんたちの姿を重ねて見ている。「熱く燃え上がった太陽が 冷たい水によって鎮められていく それは綺麗だ/わたし達もそういうふうになるのだろうか? そのとき わたしは何を感じるだろうか?」。
そうして、第三連で『わたし』は自分の気持ちを確かめていく。『あなたの事を信じていない』というのは文字通り解釈すると違和感が生じます。信じられない人のことを『酷く愛している』?けれど、『あなた』の浮気な性格や不誠実な態度は描写がありません。なので、『信じていない』のは直接的に『あなた』自身であるわけではなさそうです。おそらく、『あなたの事』=『あなた』の何か、が信じられないのでしょう。ここで、これまでの解釈を踏まえて、信じられるもの=確かなものは何なのか、を考えてみます。第三連で表現されている確かなものは「わたしのあなたへの気持ち」です。ここから、信じられないもの=確かではないものは「あなたのわたしへの気持ち」だと類推します。「あなたのわたしへの愛が本物かどうかわからない それなのに こうも わたしのあなたへの愛は本物なのだ」。(※3)
パートB|アッパーB
パートA|アッパーAでの解説に同様。
「二人の日常が 水に流れていって あやふやなものになっていくから どうかこれを確かなものにしたい」。
パートB|サビB
第一連の後半部分、これまで『記録を揃えて生きていたい』とリフレインされてきたフレーズが『彷徨うだなんてもう沢山だ』というフレーズへと変わっているのは、メロディーBを経た心情の変化の現れだと思われます。不確かなものに惑わされることに対する決別をはっきりと表明しています。前パートを踏まえると、「あたりは不確かなことだらけ だけど じぶんの気持ちははっきりした だから 前に進もう」。
続く『守るなら手を急いで離さなさないと/思った』(原文ママ)というフレーズは、それ自体では解釈が難しい表現となっています。というのも、今までは繋いでいた手を離すのか、離さないのか、が明示的ではないからです。『守る』のは、おそらく、わたしの気持ち、すなわち、二人の日常を失わずに続けていきたいという願いのことです。もしくは、直接的に、二人の日常、二人の関係と考えても問題はないでしょう。ここでは、手を離すことが『守る』ことに繋がる、という説得的な表現やサブストーリーがなく、これまでの文脈からして、手を離さないことが『守る』ことに繋がる、という解釈の方が説得力があるため、後者の方を優先します。「二人の日常を守りたいなら あなたを手離してはいけないと思った」。
当パートの後半部分は一例として具体的に解釈します。「過去の失恋か 大切な人との死別か あるいは この愛が突然終わりを迎えてしまうことか そんなことを恐れている」。
この通り、第一連と後半部分を踏まえて前後の繋がりを考慮すると、第二連は、手を離さない、という解釈が整合的だろうと思います。
パートC|つなぎ
前半部分は四季、春、夏と生命が芽吹き隆盛を迎え、秋、冬と生命が枯れていきその鳴りを潜めていく情景に、じぶん達の時間の推移を重ねています。「未来が輝きを失ってしまったのは 時間が過ぎたり 時代が変わったりしたからではないし 当の未来が実現しているはずの今が そこまでいいものではないのも 時間や時代の所為ではない」。
後半部分は、『ベランダ』というフレーズが「安全地帯」を表現しており、『外の未来』を実現するためには、『ベランダ』の柵を飛び越える=「安全地帯」を捨てなければいけないことを示唆しています。「その未来は 今いる場所では到底実現しなくて 危険でも飛び出していかなければいけない そんなことはもうすでに知っていたでしょう 向き合わないと」。
パートD|サビD1
このパートは当作品の転換点です。
一見するとそうとはわからないくらいさりげなくキスシーンが描かれています。このシーンを一言でまとめれば、<身体を媒介にした記憶と記録の融解>、つまり、<記憶と記録>の<BI>となります。お互いの身体に触れることを通して、それまで朧げであった記憶を記録と同じように確からしいものにしようと試みています。「触れることで わたしがあなたをあなただとわかるようになりたい 触れることで あなたがわたしをわたしだとわかるようになって欲しい」。
<身体を媒介にした記憶と記録の融解>というのはどういう状態でしょうか。例えば、わたし達は特に意識することなく、日本語を発音し、その語句を用いることができます。これは記憶によるものですが、記録のように確かなものです。同じように、サッカー選手は自然と様々にボールを扱うことができ、武術経験者は転んでも自然と受身をとることができるでしょう。わたし達はこのように、身体を媒介にすることで、物の確からしさを感知し、また、確かなものを表出ないし表現することができます。
ここでは、<記憶と記録>の<葛藤>は解消しており、これまでのような優劣関係はなくなっています。(※4)
パートD|サビD2
サビD1以降は、リフレインで使用されていたフレーズも意味が変わります。
この曲のキーフレーズである『あなたの記憶もわたしはいらない』というフレーズは、これまでのような拒絶の感情ではありません。その次に重要なキーワードである『離れていくなら手を繋いでいよう』という後続のフレーズは、これまで、物の持つ確からしさが二人の関係を確証するものとして『わたし』に確信をもたらすことが期待されている様子、を描いてました。そして、当パートでは、そのフレーズの後に『見えない手を』というフレーズが続くことで、物の持つ確らしさに頼ることなく『わたし』が二人の関係を確信している様子、を描いています。これは、記録に頼らなくてもよくなった、ということを意味しています。記憶に対する拒絶と釣り合っていた記録に対する希求がなくなったことで、自然と記憶に対する拒絶も弛緩します。
どうして記録が求められなくなり、
そして、記憶は拒絶されなくなったのでしょう?
作品の冒頭では、『透明は青だあなたが言うなら/きっとそうだったはずだろう』と、同じ出来事に対する二人の感じ方の違いから生じる<やりきれなさ>や<わかり合えなさ>が表現されていました。それらはここで『透明は白だわたしが言うなら/あなたいつだってわかってくれた』と、解消されています。これは「わたしとあなたは同じものを違ったように感じる でも わたし達はお互いがどう感じているかを知っており さらに それを知っているということもお互いに知っている」という状態です。この一連をまとめると、<わたしが感じていること/をあなたも感じていること/をわたしは感じている>となります。作品冒頭の頃は「『あなた』が感じていること/を『わたし』は感じていない」状態でした。サビD1の転回以降は、「『わたし』が感じていること/を『あなた』は感じていること」に気付き、そうしてそれに続いて「/を『わたし』は感じている」状態に至ります。これを経て、さらに、「『あなた』が感じていること/を『わたし』は感じている」状態へ転化していくだろう展開が伺えます。これは<主体と客体>の<BI>です。<記憶と記録>の<BI>は、この<主体と客体>の<BI>と並行しながら相互にかかわって進行し、最終的に、記憶と記録のそれぞれに対する強い感情は解消されます。(※5)
『期待をしている』というフレーズもその対象が変わります。
『茶化さず聞いておくれよ』というのは、「普段なら茶化されることを今から言うけど 馬鹿にせずに聞いてほしい」ということです。明示されてはいませんが、この流れから推測するに、おそらく、告白をするのでしょう。なので、『わたし』が『期待をしている』のは、その告白が『あなた』に受け入れられること、だと思われます。
『心配なんていらないさ』、最後のワンフレーズです。
ポイントは、これが誰の台詞なのか、です。順当なのは、『期待をしているだから/茶化さず聞いてくれよ』という『わたし』のお願いに『心配なんていらないさ』と『あなた』が応えた、という解釈です。他方で、『わたし』が自分自身で『心配なんていらないさ』と内言した、という解釈も十分ありえます。ここで、このパートで展開されてきた解釈を振り返ってみます。かつては<わかり合えなさ>を感じていたところが、今や二人は<わたしが感じていること/をあなたも感じていること/をわたしは感じている>状態です。これをもとにこのフレーズを解釈すると、「『心配なんていらない』と『あなた』が感じていることを 『わたし』は感じている だから『心配なんていらない』と『わたし』も感じている』となります。そもそもは、『茶化さず聞いておくれよ』というくらいなので、『わたし』はいくらか不安な感情を抱いていたのだと思います。そこから最後に、『わたし』が『心配なんていらない』と感じるようになるのは、『あなた』が『心配なんていらない』と感じているから、でもあり、『あなた』と『わたし』は<BI>であることを感じたから、でもあります。このように『心配なんていらないさ』は二重の構造になっており、この台詞の主語は『あなた』と『わたし』の二人とも、となります。この状態であるならば、二人で『外の未来』を生きていけると思ったのだと思います。
まとめ
<BI>は、<一つの個体が二つの異なる属性を有すること>、すなわち、<記憶/主観/主体>と<記録/客観/客体>が一つの個体に属することでした。『BI』はこれを性愛という主題を通じて存分に表現していました。
作品の中では、<身体性>が<BI>に至る鍵として提示されていました。<身体性>の中でも特に<触れること>に焦点が当たっています。同様に、<聞くこと>や<見ること>、<喋ること>といった<身体性>も十分に有効だろうと思います。それ以外にも、より広く深い<身体性>を動員することも可能だと思われます。
『BI』を経て、今、わたし達の前に投げ出された問いは、「<BI>に至るには、どういう手段がありうるか」ということです。ここでの<BI>は<主体と客体の融解>です。作品は、その一例として、<触れること>を軸とした性愛を提示していました。けれど、それが<BI>に至る唯一の方法というわけではありません。作品で表現されていた<BI>の状態に至るには、どういう方法があるのか、わたし達は日々、それを模索し、試していくことが重要でしょう。もちろん、性愛が最良の道であることは、作品の訴えるところです。
その手段を考える上で、作品で描かれた<BI>の状態、すなわち、<わたしが感じていること/をあなたも感じていること/をわたしは感じている>という状態から逆引きしてその経路を考えてみることは、一つの近道だと思います。
最後に、本稿で取り扱ってきた悩み事の中心は、平たく言えば、「何が本物か」という一言で表現できます。本物は、誰にとってもその正体が確かなものです。歌詞は、アルバムを通して、普段はひらがなで表記するような言葉に漢字を当てているのが特徴的です。特に、当作品の場合は、漢字に縋っているような心象があります。この作品の中では、漢字は、その其々が意味を持つ確かな物のように振る舞っているようです。本稿もこれに倣い、当作品に沿うよう漢字を用いました。そのため、一部の文章が幾分読みにくくなっておりますが、その点も含め、ここまで本稿をご一読くださり、感謝申し上げます。
補論
当作品は漢字を特徴的に用いる、とは本論末尾にて指摘したことですが、他方で、それであればなぜ漢字を当てないのか、不自然なひらがなも作品には登場しています。それは「わたし」と「わかる」です。漢字を当てるということが、単に漢字表記をするということではなく、対象の確からしさを匂わせる表現手法として用いられているという理解に立つとき、漢字を当てないということは、対照的に、対象の不確からしさを匂わせる表現手法だというふうに考えることができます。すなわち、「わたし」と「わかる」は不確かなもの、というメッセージを読み取ることができます。これは、じぶんのアイデンティティに悩む時代、他者や異文化の理解が叫ばれる時代において、象徴的なメッセージだと思います。このことと、『わたし』が強く『記録』を求めたこととは背中合わせのことです。「自分という存在や他者の理解というものは移ろいゆく不確かなもの だから わたし達は本物がほしい」。その点では、歌詞の中で、そうすることが自然などの動詞でも「いる(居る)」を省略せずに表記していることも暗示的です。
注釈
※1:<アッパー>は「サビへの繋がりを滑らかにする部分」ということを意味する筆者の造語。
※2:この段階では明らかではないが、後のパートで『透明は白だ わたしが言うなら』というフレーズがあることから、『透明』を『わたし』は『白』、『あなた』は『青』と『記憶』していると考えられる。
※3:偶然かもしれないが、通常、「事」や「時」という表記は、具体的な物事を念頭に置いている場合に用いられる。反対に、個別性がない一般的な物事を想定している場合は「こと」や「とき」を用いる。このことからも、表記からして『あなたの事』は『あなた』の具体的な何かを指しているであろうことが読み取れる。
※4:類似の作品にYUKI『ビスケット』の『交わした約束 危うくて 未来は誰も解らないなら/火照った指で 探りあてて 体に印を 刻もうよ』がある。
※5:ちなみに、冒頭の頃から「『あなた』が感じていること/を『わたし』は感じていないこと/を『あなた』は感じている」という状態は実現していただろうと思われる。というのも、『透明〜』の描写は、過去のある時の出来事であり、サビD2ではその当時に『あなた』が『わたし』の感じ方を理解している様子が描写されているからである。