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『令月のピアニスト』7/13 追われていない顔

 クライアントへの仕様書提出は、こちら側で仕上げたものに赤字を入れてもらうことで決着した。急ぎの案件もないし、この日も9時前には会社を出られそうだった。
 残業が伸びない日は、家でピアノ。つまずいている『イマジン』5小節目が目下、飛び越えるべきハードルになっている。
 いっぽう、つまずきの要因も見えてきた。楽譜に書かれた音符が多く、リズムが複雑化すると、音符の音への変換機能がフリーズしてしまうのだ。
 和音を奏でる楽器にふれた経験はあっても、ギターはタブ譜、いわば型を覚えてしまえばなんとかなる。ところがピアノはそうはいかない。1音1音が独立していて、演奏を単純化するための公式がない。
 ピアノの特性が、とてつもなく巨大な壁となって立ちはだかっている。
 どうすれば膠着状態を打ち破れる?
 退社時間が近づくと、翌日の仕事の段取りもそこそこに、新しく現れた課題に真剣に取り組む自分がいた。
 障壁の原因は? 左右の音のタイミングが違うところでつまずくとなれば、右手と左手の動きを独立させて動かせるようにしなければならないということだ。楽譜で弾けないわけだから、何かしらの橋渡しが必要になる。アドバイスをくれる先生はいない。任子に尋ねることもできただろうが、彼女の多忙への気遣いもあったしなにより気恥ずかしかったのでやめた。自力でどうにかしたいという意地もある。
 どうすればいい?
 鞄にケータイとノートパソコンを詰め込んだとき、そっか、と閃いた。タブ譜を作ればいいんだ。時系列に並べた図面化した鍵盤で弾く音を追って理解する。可視化すれば音をつかまえられるはずだ。
 自宅。イラストレーターで鍵盤図をつくり音の長さを考慮して打ち出した。おさえる鍵盤に目印をつけてあるから……。音をヴィジュアル化するとピアノ演奏が向こうから近づいてくれたような気がした。足踏みしていた5小節目。どう弾けばいいのかがわかる。
 弾いてみる。
 これだ、この音。合ってる!
 やたっ!
 歩みは相変わらず牛歩だったけれども、そうこうしているうちに数日でイマジンの折り返し地点(1コーラスの半分だったが)を超えていた。

「田所さん、なにかいいことあった?」
 数日後、デスクワークをしているぼくに粕賀が耳元に口を寄せ訊いてきた。
「いや、とくに。なぜだ?」、くっつきすぎた顔から上半身を逸らせて離れると、
「ここのところ、追われている顔してないから」と奇異なことを言う。
「顔が追われていないって?」
「そう」、粕賀が背筋を伸ばしてぼくとの距離をとった。
「なんだそれ?」
「楽しそうなんだもの。キーボードたたく指がリズム刻んでるし」
 ため口は相変わらずで、いつも以上に馴れ馴れしい。それに、気になることもある。粕賀に、ピアノを弾いていることを見抜かれている? まさか。
「不思議か?」、粕賀の投げかけに惚けてみせた。返答は元気な「はい!」。 粕賀があまりに嬉々とした顔を見せたものだから、裏に潜む思惑を勘ぐり底意地悪く、「不思議や秘密のひとつやふたつは誰にだってあるものさ」とはぐらかしたら泣き出しそうになったのでバツを悪くしてしまった。
 目の端が、粕賀の唇の動きを捉えたような気がした。動きに韻を当てはめたら「いじわる」と綴ることができた。いや、本当にそう言ったのかどうかの確証はもてない。唇が動いたかどうかも疑わしい。ただ、そんな気がしただけだ。

 昨今の若い連中は、飲みに誘っても体よく断ってくる。5才年上の年長を除けば、あとの4人はみな20代である。彼らは自分を大切にする。仕事が忙しくても、終われば自分の時間に戻っていく。彼らは組織に粘度の高いつき合いを求めない。粘度の高いつきあいは良くも悪くも集団力を上げる。高度成長期にはそれが業績や経済にレバレッジをかけた。
 だが今は違う。
 集団力は悪しき一面を浮き彫りにした。つき合い残業がその象徴だろう。もちろん、今の会社にも残業はある。だがここの残業は圧力をかけた集団力によるものではない。結束によるものだ。与えられたものではなく自発的意志でつながる結束だ。目標を見すえ、分担した業務の責任をそれぞれが担う。集団力の他人の顔色で結びつくのとは違う。今の部署に結束はあるが集団力はない。そしてその結束は身勝手なエゴイズムの集まりではない。結束は業務によって形成され、たとえば誰かの仕事が滞っていれば見逃すことなく手が差し伸べられる。
 年長者も含めて5人の部下は業務による結束を心得ているしある意味完成しているから、ぼくは誰も誘わない。粕賀も誘わない。それぞれがいい距離感で均衡が保たれている。
 ぼくはその中で、自分の役割をまっとうしている。スタッフをまとめ、求められる仕事の精度をちょっと高めて納品する。「いい仕事」と評される仕事は、社内での、そして社外とのつながりを好循環させる潤滑油だ。
 そしてぼくもまた潤滑油。社内の風通しに気を遣うソフトウェア。ソフトウェアは、与えられた仕事を完璧にこなすためにある。ぼくは今、部署に意志を与え、結果をまとめ、会社を循環させている。
 社内での役目が終わればぼくもまた自分の時間に戻っていく。新たにつかんだ戻るべき自分の時間へ。
 夕方、家族構成変更届の確認をしてほしいと総務部に呼び出された。傷口はなかなか治癒してはくれなかったが、支えができたおかげで痛みがいくぶん和らいできたようにも思う。もう、ゴミ袋が大きくふくらむこともなくなった。キッチンもきれいに片づけられている。歯ブラシは、まだ1本のままだけれども。それでも、何という魔のタイミング。瘡蓋(かさぶた)になりかけた擦傷跡を上から強烈にこすられた思いで出向くと、担当の年配女性に「たいへんね」と同情めいたことばをいただく。彼女もまたこの会社の社風に染まった社員である。「3組にひと組が離婚する時代ですから、あんまり深く考えないことね」に、噂話に臍で茶を沸かす粘着性の下心は感じられなかった。彼女もまた仕事が終われば自分の時間に戻っていく。高校生の娘をもつ彼女もまた3組のうちのひと組、同類である。

 子どもができると世に幼児があふれていることに気づくと言うが、ピアノの気づきも似たようなものだ。たまにランチで出かける手作りカレーの喫茶店は年に数度プチ・コンサートを開催することもわかったし(手作り雑貨を並べる棚と化していたアップライト・ピアノが実は稼働していることを知った)、打ち合わせで使うホテルのカフェのピアノが日本ではマイナーだが高級機とされるメイソン&ハムリンであることもネットで調べた。
 新宿駅までの道のり途中の牛丼屋となりが、中古輸入ピアノの販売店という直球ド真ん中であったことにも今さらながら意識が向いた。
 気にかけていないと、何も目に入らない。もしかしたら、ぼくは妻の、気にかけなければならなかった大事な何かを見過ごしていたのかもしれない、そう考えたら、また胸がずきんと疼いた。確信のない安心感、きっとそのようなものにあぐらをかいていたのだと思う。ぼくは楽しさの共有こそが仲を結ぶつなぎになると信じていた。だけど楽しさの共有だけでは、きっと頼り合うことなどできなかったのだ。思い返すと、外食をしているとき、ぼんやりと窓の外を眺める妻がいた。休日の列車旅でスマホに見入る妻が驚いて口に手をあてたり、ため息をついたりしたこともあった。友人や同僚とのやりとりに、そんな喜怒哀楽はあってあたりまえだ。だから気にとめることはなかったし、尋ねたこともなかった。隣にいるのに、そばに寄り添っているという実感を、ぼくは与えてこなかったのだろうか。送られてくるシグナルに、ぼくは気づかなかった!?

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青村 音音(アオムラ ネオン)
この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。