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乗り物がもたらす全能の時

新幹線や飛行機は、必ず窓際の席を予約する。
景色を見るためだ。

乗り物に乗ると、流れる景色を延々と見てしまう。
何も考えていない。
ただ見ている。
でも飽きない。

たまに、電車で座席に膝立ちになって窓の外を見ている子どもがいて、大概、ちゃんと座れせめて靴を脱げと親御さんに怒られているが、わたしは彼らに深く共感する。わたしもそれやりたい。

先日、東京からこだまに乗った。
都会のビル群を抜けて現れる家々、山々。
山あいからのぞく水平線。
田んぼと畦道。草を刈る人。
不自然に目立つ広告看板。必死に走る車。
遠くに在るそれらにはほとんど動きがなく、刻が止まったかのように見える。
でもこの中に生活を営むひとりひとりの人生があるのかと、感慨に浸る。

飛行機が着陸する時に眼下に広がる景色にも見入ってしまう。
特に夜はいい。
照明灯で浮かぶ縦横に伸びる道路。
点々と続く車のライト。家屋の灯りのつぶつぶ。
何層にも光る高層ビルも今は眼下にある。
ヘリポートのHのマークが見える。
小さな小さな人間という生き物は、こんな広大な星に、よくもまあコツコツとここまで色々な物を積み上げたものだ。
なんて健気な。と思う。
一体、何様だ。


それらを眺める時わたしは、全能感に浸っているのかもしれない。

生身では到達できない速度や高度からものを見ることで、自分をこの世の構成員ではなく、全てを掌握した神様であるかのように錯覚する。
そして、世界の傍観者として、人間の営みに感嘆するのだ。しみじみと。


乗り物から降りると、神は人間に還る。
足で踏み出した分しか進まない。
身長の高さでしかものを見られない。
ターミナルの人混みの一員となり、風景の一部となり、コツコツと生活を積み上げる小さくて健気な生き物に戻る。

地上に降り立つ時、毎回、あーあと残念に思う。
それは、旅が終わることではなく、全能感の終わりに対してのあーあ、な気がする。
その一方で、本来あるべき姿はこれだよなという、明るい諦めと安堵を抱き、積極的に日常に戻ろうとする自分も感じる。

全能が身の丈に合わないことを心得ている小心を、神様の名残があたたかい目で見ている。


おわり

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