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ひとり映画鑑賞会『青めぐる青』

 最近、Podcast で読書会をしている人たちの配信を聴いて、”読書会”って楽しそうだなぁという憧れを抱いてしまい、自分も似たようなことしてみようかという気持ちになりました。ただ、本についての感想もいいのですが、以前から、「自分が note に書いてる映画の感想って本当にざっくりとしか書いてないし、作品にしっかり向き合ってない気がする……」という罪悪感のようなものがあったので、映画の読み解き(のようなもの)をやってみようと思いました。(ひとりだけど)

 今回は初めてということで、ショートストーリーのものを選びました。

 宮崎彩監督の『青めぐる青』という作品です。17分くらいの映画で、この記事を執筆時では YouTube でも公開されています。大分市ロケーションオフィスという映像製作をサポートする団体が宮崎監督に「大分で映画を」というオファーを出して実現した作品のようです。

 実は数ヶ月前、すでにこの作品を鑑賞しているのですが、正直に言うと「なんか分からなかったけど、閉塞感のある作品だったな」という感じで鑑賞が終わってしまいました。ただ、すごく意味深なセリフも多くて、「自分のできるところまで読み解きたい」と思った作品だったので、今回のひとり鑑賞会に選んだというところもあります。

 YouTube の概要欄からあらすじを引用して、鑑賞会をスタートします。

コロナ禍、一地方都市。後藤健人は、息苦しさや埋まらない孤独を感じていた。そんな中、高校の同級生・江藤との再会で過去に思いを馳せる。 陸上部のエースとしてどこまでも走れていた高校時代、どこか諦めた表情の同級生・藤田皐月を、確かに追いかけていたのだった。

YouTube 短編映画『青めぐる青』

 まず、主要登場人物の名前に「藤」の字が共通して入っているのは、意図しているのかいないのか? (これはさすがにわからない) 

 最初は、子どもたちを連れてお喋りをしているお母さんたちのシーン。あるお母さんの「息詰まる生活、嫌やなぁ」に対し、皐月「ずっと詰まってない?」。このあと、高校生だった時のシーンがあるけど、高校生の頃から”息苦しさ”が続いていたことが示されている? コロナ禍で息が詰まっているのではなく、「以前からすでに詰まっていたんだ」というニュアンスも含まれていそう。

 駐車場のシーン。皐月の夫である健人の不倫が描かれている。車内で女性に手を出しているが、女性が去ったあとにマスクをするのが印象的。「(健人の視点で)現実に戻らくてはならない」「現実が息苦しい」という示唆だろうか。皐月は偶然、同じ駐車場内で健人の車が走り去るのを目撃する。リアクションから想像すると健人の不倫に気付いているように見える。

 ガソリンスタンドで江藤(同級生)と再会する健人。江藤の口からも「息が詰まる」というセリフが出てくる。主要登場人物の三人、全員息が詰まっているようだ。江藤は「相変わらず?なら寂しいやろ?」と言って去っていく。江藤は(この後の高校生編でもそうだけど)観察眼とか洞察力とか優れているのかもしれない。あと、これは監督とキャストの対談動画(YouTube)を見ると分かるけど、江藤も皐月に対して恋心を持っていたようなので、皐月の人柄のようなものを周りよりは見抜いていたのかもしれない。

 洗車のシーンから、舞台は高校生編の水族館のシーンへ繋がる。健人も皐月も水槽を見ている。他の生徒は同じ部活の部員だろうか。皐月は水槽をじっと見つめていて、部員との会話にも心ここにあらずの状態。「水槽」というのは閉じられた空間であり、水中は人間にとって呼吸ができない場でもあるので、「息苦しさ」の表象なのかもしれない。すると、息苦しさを自覚して眺めているようなシーンだろうか?

 海岸の道路沿いを部活の仲間たち(?)と自転車で走っているシーン。皐月はここでも他の部員との会話には意識が向いていないような感じ。部員のセリフには棘がある感じなので、その会話に参加したくないし、そういう関係に疲れているのかもしれない。一方、江藤「藤田っち、中2のとき向こうで100(m)の記録もってたらしい」のセリフ。部活=陸上部であり、皐月は中2の時は競技者として成績を上げていたという2つのことがわかる。(ここのセリフ、聞き取りにくいのが少し勿体ないかも)。以降の会話から、健人が皐月に対して恋心を抱いていている、ということを江藤が気付いているということがなんとなく伝わる。「なんでマネ転向したんだろう」というセリフ。皐月は競技者として成績がいいにもかかわらず、マネージャーに転向したという事実が分かる。理由は最後まで明らかにされないけれど、それだけの挫折や理由があったのかもしれない。

 駅に着き、皐月は電車に乗るため駅のホームへ。健人は江藤との遊ぶ誘いを断り、再び駅へ向かう。ここの江藤の表情がとてもいい。先程も言ったように実は江藤も皐月に恋心を抱いていたようだけど、監督の解説では「皐月のようなタイプの子に言っても(想いを伝えても)どうしようもない」と江藤は思っているようだ。健人は100mのタイムの計測を皐月に依頼する。健人も江藤の気持ちを分かった上で皐月へ想いを伝えるのを急いだのかもしれない。そしてそれをも分かった上での江藤のあの表情?

 皐月と健人、自転車のシーン。健人「(皐月は)先のこと見てるっていうか……」というセリフ。皐月は意に介さず。何か諦観している感じ? 「先のこと見てる」というのは実は重要な伏線かもしれない(後述)。

 健人「好きな人いる?」。皐月「いる」。(リンリン)というベルの音。どちらかの自転車の不具合でベルが鳴っているのか、幻聴的なものなのか。これも伏線。

 自転車で川沿いを走る2人。ここからが結構難解なセリフ。皐月「教室から駐車場が見えるじゃん? ずっと横に乗ってみたくて。こないだアケノで見つけた、家にとまってるの。ベランダに制服が干してて。何もないんだって。私の若さにはなんの価値もないんだって」。このセリフの詳しい考察はあとにするとして、「アケノ」はどうやら、「あけのクロスタウンショッピングセンター」のことじゃないかと思う (Google マップで調べてみた)、間違ってるかもしれないけど。ショッピングセンターだとしたら、冒頭の健人の不倫を指し示す予言めいたセリフだ。お母さんたちの集まりはあけのクロスタウンショッピングセンター内で開かれていて、あの駐車場はそこの駐車場ではないか?

 健人視点の光景。教室から駐車場を見下ろす。男と皐月が同じ車に乗り込む。直前の皐月のセリフを受けての光景だけど、後ろから皐月に声をかけられ反応したあと、再び駐車場に目を向けると車はない。おそらく、幻覚のようなもの? 健人が作り出してしまったイメージだろうか。制服を着た少女は皐月だろうけど、男は誰なのかは分からない。

 競技場で皐月は青いミサンガを健人へ渡す。健人「藤田(=皐月)のこと好きなんやけど」。皐月「今だけだよ」。ここも難しいけど、皐月はやはり諦観している感じ。「そんな恋心も今だけだよ」と、「そんなに走ることができるのは今だけだよ」。この2つの意味がありそう。恋心については冒頭の通り。走ることについては後述。

 皐月「「後藤(=健人)くんの走る姿、いいと思う。若さとか自分の先を信じていて疑わない」。ここは、1回目に鑑賞したときにかなり引っかかったセリフだけれども、再鑑賞でもう1回考察し直してみる。皐月から見ると健人は「走っていて」、今の自分や周りを「(少なくとも皐月自身よりは)信じている」ように見える。一方、皐月自身は「走ることをやめて」いて、自分の若さや未来を「諦めている」。とても対照的だけど、皐月は健人に対して否定的ではなく「いいと思う」と言っている。一種の憧れのようなものがあるのかもしれない。ちょっと前の例の難解なセリフ「ずっと横に乗ってみたくて」の相手は健人であるとも読み取れる。そのうえで「今だけだよ」と言い放つほど諦めている。

 時間は冒頭のショッピングセンターのシーンと同じ時代へ。同じ日の夜だろうか。室内。青いミサンガで遊ぶ女の子。女の子の名前を呼ぶ母の声。声の主は皐月。青いミサンガは健人に手渡されたものだったから、冒頭のシーンと合わせると皐月と健人は夫婦で、娘がいることが再確認できる。皐月はベランダへ洗濯物を取り込みに行く。外は夜なので当然暗い。ここで例の(リンリン)という自転車のベルの音。視線を下に向けると車(健人の車だろうか、確定はできない)。健人の不倫に意識が向いているのだろうか。ここで視線の移動があって何かを見ている。これは後述もするけど、健人の全力疾走を見ているのではないか。(リンリン)という音は、この音において「同時である」ことを示す効果を担っているんじゃないか。皐月はひとつ呼吸する。「閉塞感」はこの作品のテーマのひとつのように思うけど、この一瞬だけ「息が詰まっている」ことから開放されたのだろうか。それともため息のニュアンスだろうか。目を閉じている。何を思っているのだろう。川沿いで自転車を2人で走らせた時を思い返しているのだろうか。諦め、期待、安堵、不安、回想、懐古、いろいろあり得るかもしれない。

 ここで川沿いでのあの難解なセリフを、考えたい。「教室から駐車場が」から始まるやや長めのあのセリフだ。あのセリフの「教室」という出だしを「家」に置き換えると、高校生の自分から母親になった自分への予言のようなセリフになる。
・「家から駐車場が見えるじゃん」……たしかに、家の下に駐車場があって車が止まっている。
・「ずっと横に乗ってみたくて」……信じて走ることができる健人(おそらく車の持ち主でもある)への憧れかもしれない。ただ、夫婦の関係としては冷え切っているからこその、乗ってみたくて?
・「こないだアケノで見つけた、家に停まってるの」……ショッピングセンターの駐車場で健人の車を見ている。
・「ベランダに制服が干してて」……ベランダに干していたのは自分の子の園服ではないか (「干してて」という言い回しはこのためか)。冒頭の子供、園服を着ている。
・「何もないんだ。私の若さにはなんの価値もないんだって」……ここはまだ、正直読み解けない。たしかに高校生のときの皐月はそこに対して諦めていたようだったけど、そこは変化したのだろうか。冒頭のシーンからは「息が詰まっている」感じは続いているようだけど……。目を閉じているときに何を思っているのだろう?

 シーンは変わって川沿い。今度は健人がひとつ呼吸をする。クラウチングスタートで全力でひたすら走る、走る。ただ、高校生の時のように走り続けることはできない。途中で止まってしまう。皐月の「今だけだよ」という予言めいた言葉は2つとも的中していることになりそうだ。(リンリン)というベルの音。先を信じてきた健人が初めて後ろを振り返る。高校生のときの記憶が蘇っているかもしれない。なにか、後悔の気持ちが発生しているようにも見える。

 ここでエンドロール。


 キャストの対談でも「どの時代にもある曖昧さや、何かに委ねておこうみたいなところを切り取った作品」「観るひとによって解釈は違ってくる作品だと思う」という言葉が出てくるように、登場人物の気持ちや考えてることが読み取りにくい作品で、そこを楽しむ作品であるようにも思います。最後の呼吸のシーンひとつでも見方・受け取り方は何通りもありそう。閉塞・鬱屈している作品であると思うし、ラストシーンにおいても、少なくともなにか分かりやすい形で希望が描かれているということはありません。この強い閉塞感から鑑賞者は何を持って帰ることができるか、というのもテーマのひとつのように思えてきました。次の世代に受け継がれる青いミサンガに、私たちはどのような想いを込めればいいのでしょうか?



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