見出し画像

短編小説 | ある初夏の、禍と鍋と

 目的地周辺に着きました。案内を終了しますーー。
 カーナビの画面から道らしきものが消え、矢印がチェッカーフラッグのまわりをくるくると回った。タイヤの擦れる音がだんだん大きくなってくる。小石がホイールかなにかに当たる高い音を聞くにつけ、この車、まだ1万キロも走っていないのに、と思う。山道に入る手前まで戻ろうにも、ときどき京都市内の街中を運転するだけなので、両脇からシダ植物が押し寄せている細い登り道をUターンすることは至難の技だった。
 ここへは一度、修斗の車で連れてこられた。二年前、修斗が家具職人として独立し、人里離れたこの山奥に工房を構えてすぐのときだ。そのとき無理だと判断した。山奥まで彼について行く気が起こらなかったし、嫌いになったわけではないけれど、恋愛関係を解消した。
 後部座席には空の段ボール箱を置いている。修斗からひょうたんの苗を三株ほど貰うことになったからだ。移住前からやっていたことだが、彼は毎年ひょうたんを栽培をしていて、春先に20個ほどポットに種蒔きをする。発育の悪い苗も出てくるので多めに種を蒔くのだが、そのうち八割くらいは発芽するので、育てきれない苗を知人にあげたりしていた。四月から五月にかけて、フェイスブックにひょうたんの苗要りませんかと呼びかけるのが恒例行事になっているのだが、今年は緊急事態宣言が出たせいか、なかなか引き取り手が現れないようだった。別れた間柄とはいえ、ひょうたんの苗の行末は毎年気にはなっていたから、ゴールデンウィークが終わると同時に自分から苗が欲しいと名乗りをあげた。私が勤めているインテリア雑貨とカフェの店が五月いっぱいまで休業で、県を跨ぐ移動ではないし、修斗の住む山奥の古民家に行くだけならばウィルスの脅威には晒されないだろうとの理屈をつけて、京都市内の自宅を出てきたのだった。
 道幅が少し広がった中腹の谷側に、白い軽トラが停まっていた。サイドミラーの片方が割れて、セロハンテープでぐるぐる巻きに固定してある。突然、その軽トラの向こうの草叢が激しく揺れた。そこへ痩せ型の男が現れる。修斗だった。髪がかつてない長さに伸びていて、前髪だけ邪魔なのか、ちょんまげのように結えていた。首回りが伸びたくたくたのTシャツの下に、膝下がずぶ濡れの作業ズボンを履き、足元は黒長靴。マスクはしていない。私を待ち構えていたかのように、修斗は手を振りながらこちらに寄ってきた。
「そろそろ実加ちゃんが来るかと思っててん。ちょっと手ぇ貸して欲しいねんけど」
 道のど真ん中だったが、車は他に来ないだろうと言うので、私はサイドブレーキを思い切り引いて車から降りた。修斗は上から爪先までノースフェイス製品で揃えた私の服装を眺めまわし、「この格好やったら、川まで下りれるな」とにんまり笑った。マスク越しにアンモニアが焦げたような臭いが漂ってくる。私は鼻をすんすん言わせ、修斗に顔を近づけた。
「なんか、獣の臭いがする」
「鹿を洗っとったからな」
「鹿を洗う?」
「今朝、牡鹿が罠にかかっとってん。実加ちゃんも来るし、麓の集落の人らともみじ鍋できると思ってな、内臓抜き出して川で洗ってあんで」
「鍋? このご時世に会食? 手ぇ貸してって、私に何をさせる気?」
「川からここまで鹿を運ぶの、手伝って欲しいねんけど」
 冗談かどうかわからないまま、修斗のあとをついていくことになり、林立する杉の幹につかまりながら落ち葉で滑る傾斜を下りていった。紐が緩かったのか、トレッキングシューズに小石が侵入してくる。しばらくすると川のせせらぎが聞こえ、視界が急に明るくなった。
「鮮度が落ちる前に内臓をさっさと取り出してな、部位ごとに分けて川で冷やしてある。生レバーめっちゃ美味いで」
 先へ進む修斗が、見えてきた川を指さして言った。
「修斗はいつから狩猟するようになったん?」
「こっちへ来てすぐに罠猟の免許を取った。実加ちゃんとこの店で一時、ジビエ料理フェアやっとったやん。あんときから、いつか狩猟やりたいと思っててな。あっ、今日の鹿はインスタとかに上げたらあかんで。狩猟期間は三月中旬までやから、違反してんのバレる」
「腹裂いた鹿なんかネットに上げへんわ。ましてや、誰かと鍋したなんて絶対にあげへん」
「そんならええけど。俺、皮剥ぎから精肉まで自分でやるようになってんで。皮なめして楽器にするまではなかなか難しいけど、肉処理ならば任して」
 修斗はそう言うと、川に向かって駆け出した。彼が向かっていく川縁に、牡鹿が横たわっていた。
捕獲するとき動きを封じるためなのか、牡鹿は目から顎にかけてガムテープでぐるぐる巻きにされていた。先に取り出された鹿の内臓はジップロックに満タン入っており、修斗のリュックサックに収まった。修斗が前脚、私が後ろ脚を持って牡鹿を軽トラまで運ぶことになる。冷水に二時間浸っていた牡鹿は硬直し、逆さまに持ち上げると首だけ反り返って垂れた。
「鹿は今日を狙って仕留めたん? 違反までして」
「たまたま引き揚げ忘れた罠にかかっただけや」
「私がおらんかったら、どうやって運ぶつもりやったん?」
「たまに大家さんの手ぇ借りるけど、たいがい一人でやってるな。猪やなくて鹿やったら楽勝」
「じゃあ、なんで私に手伝わすねん」
「なんでって、こういう体験もしてみたいかと思て」
 出た。久々の修斗節。皆が皆、自然と戯れることを欲しているという押し付けがましい思考回路。まあいいや。今日はなんでも付き合ってやる。
「〈テラス〉の社長が修斗にまた家具つくって欲しい言うとったよ。私がここに来られたんも、修斗と逢うんやったら、店の商談にもなるしって許可してくれて」
「元カレに逢うんも、都心部では許可がいるようになったんか?」
「そうやないけど、どんな会社でも上から自粛の指示が出た人は、たいてい従って家に籠ってはるわ。リモートで仕事してる人多いで」
 修斗の軽トラの荷台にはあらかじめブルーシートが敷いてあって、荷台のあおりを下ろしたあと、せーので投げ入れるように牡鹿をその上に横たわらせた。素手で持っていたので手の臭いを嗅いでみると、自分の腕に一本の黒い筋が付いていることに気がついた。
「キャァァァァ! これ、蛭とちゃうん? いやぁ! 取ってぇ!」
 身体じゅうを叩きながら絶叫している私を、修斗は笑いを堪えて眺めている。
「修斗! ただ見てるだけやなくて取ってや!」
「まあ、落ち着いてや。他に付いてへんか見たるさかい、じっとしてて」
 修斗は私に両手を上げさせ、正面、背中、首筋と隈なく点検していった。「こうしてる俺も、どっかに付いてるかもしらんけど」と言い出すので、私は「もう、いややっ! 鹿なんて持つんやなかった!」と修斗から離れて、自分の車に乗り込んだ。

 修斗の自宅兼工房は二年前に来たときよりも周辺の草が刈られ、縁側に面した庭には真新しい物干し台が設置してあった。修斗は物干し竿の真下に軽トラのお尻を突っ込んだあと、運転席からロープを出してきた。牡鹿の後ろ脚をやや開いた状態で角材に固定し、物干し竿と角材をロープで繋ぐ。運転席に戻って軽トラを前へ移動させると、牡鹿は荷台を離れて、物干し竿から逆さ吊りになった。物干し台の傍らで私が立ち尽くしていると、修斗が申し訳なさそうに手刀を切ってきた。
「放っといたら肉の鮮度が落ちるから、俺、このまま皮剥ぎはじめるわ。ごめんな、疲れたやろ。先に家んなか入ってお茶でも飲んどき」
 縁側に発泡スチロールの箱があって、ひょうたんの苗かと思って覗きに行くと、やはりそうであった。黒いポットに植わった苗が八つ入っていて、そのうち二つは葉が黄色く、見るからに発育が悪い。自分なりに貰っていく苗に目星をつけたあと、縁側に腰を下ろし、修斗の皮剥ぎを見物することにした。
 修斗は後ろ脚の先から、丁寧にナイフの刃を皮膚と肉のあいだに入れていった。白い筋の下に赤紫色をした身がのぞく。皮は上から下へ、腿から腰へと削がれていく。前脚のところまでくると、修斗はノコギリを持ち出して付け根から骨ごと切断し、「うまそー」と呟いた。
 肉の解体作業が終わり、塊を小分けにして片付けていると、家の前に軽バンがやってきた。肌の浅黒い目元のぱっちりしたおじさんが降りてきて、後部ドアから段ボール箱を取り出した。修斗は「勝男さん!」と言って慌てて手を洗い、駆け寄った。おじさんは私を一瞥し、「お客さんて、女の人やったんや」と意外そうに言った。
「ひょうたんの苗が欲しいっちゅうんで、取りに来てもらったんです」修斗が私のほうへ振り返り、手招きする。「紹介します。彼女、涌井実加さんて言います。京都市内のインテリア雑貨店で働いてまして。涌井さん、こちら大家の山添さん」
 私は立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。「はじめまして。涌井です」
 おじさんも頭を下げながら、段ボール箱を抱えて縁側までやってきた。段ボール箱から長ネギが飛び出している。
「わーは孫とも同居しとるし、小林くんとは家族ぐるみでワイワイやりながら飯食う機会も多いけえど」
 おじさんは段ボール箱を縁側におろすと、海老が後退するようにすすっと軽バンまで戻った。
「小林くん」おじさんは修斗の方へ向き直る。「もみじ鍋な、せっかくやけど、うちではできんわ。こんなご時世やでなぁ、嫁さんも呼吸器系弱いさかい。そこに置いた野菜はここで鍋に使うてや」
 修斗は激しくかぶりを振った。
「山添さんちが無理なんやったら、鍋っていうても二人だけやし、お野菜もいただくわけにはいきませんて。鹿肉も食べ切れへんし、困ったな。こんな田舎に新型コロナウィルスなんて、ないと思いますけど」
 修斗の言葉に、おじさんは「田舎やから怖いだで」と返す。「もし感染者が出ても、近くに病院はにゃーで。そちらさん、彼女、京都市内で販売の仕事してるだぁや。よそから入ってくる人が怖いっちゅうか。でも、野菜は食べてや。うちげで採れたもんだっちゃ」
「余った肉、また薫製にしてもろてもええですか?」
「おう、やったるわ。明日の朝、うちげに持ってきゃーよ」
 露骨にバイ菌扱いされて、唖然としながら二人のやり取りを見ていたけれど、おじさんの歯に衣着せぬ感じが修斗とは波長が合うのだろうと思った。
 修斗と付き合っていた頃、なんの集まりかわからないところへ連れて行かれることはたびたびあって、いまだにそれをしようとしている彼に少し戸惑う。もともと、男女分け隔てなく職場の同僚や友人を何かの集まりに連れて行きたがる人で、飯は大勢で食べたほうが美味しいに決まっている、という考えなのだ。しかし、田舎の人の集まる場で、京都市内からわざわざ逢いに来てくれた女性だと紹介すれば、交際相手だと誤解されそうなものなのにーー。されてもいいのか、誤解を。どうなんだ修斗、と、心のなかで問いかけた。
 
 家のなかは、はじめて来たときよりも、家屋のあちこちが修繕され生活しやすいようになっていた。台所と一体化している土間には板材を組んだだけの簡素な棚が取り付けられていて、梅酒や穀物などの瓶が並んでいた。
「そうや。お土産があるねん。これ」
 バッグから〈テラス〉の商品であるアロマオイルの小瓶を取り出す。修斗が好きな匂いだった。付き合っていた頃、彼の部屋に行くと、いつもこの匂いがほのかにしていた。
「わざわざ持ってきてくれたんや。ごめん、アロマはいまはやってへんねん」
「なんで?」
「この辺、そこらじゅうに大麻とか生えてるねんで。家んなかでお香とか焚いとったら、それ目的で来たヤバいやつって思われるやん」
「なるほどなぁ。修斗、大丈夫なん? ここでちゃんと暮らしていけてるん?」
「暮らしてます。心配ご無用」
 修斗は黒長靴からサンダルに履き替え、お茶の用意をはじめた。カセットコンロ一台ですべて調理しているようだったし、食器棚のなかもすかすかで、がらんとした印象が強かった。
 お茶を飲んだあと、裏庭にある工房を見せてもらった。柱と梁をポリカーボネートの波板で覆っただけの小屋だったが、コンクリートの土台から修斗が造ったとのこと。小さな工具は壁掛けに、大型工具は棚に収納されていて、気持ちのよい空間だ。身なりには無頓着だけれど、仕事に対する折り目正しさには目を見張るものがある。作業台には欅の一枚板があって、リボン型のチギリのほぞが数カ所彫られていた。部屋の端に木工旋盤があって、テーブルの脚になる材が、薄い削りかすをつけて作業途中のままになっている。生の木材を加工し、乾燥させ、ときには割れ目が広がらないようチギリまで埋め込む。修斗が素材からこだわった家具づくりをするには、独立するしかなかったのだと思った。
「そのテーブルは修斗に発注があったものなん?」
「うん。これ終わったら、同じやつ、もう一脚つくらなあかんねん」
「順調そうやね」
「ここ半年くらいかな、まともに注文が入るようになったんは」
「修斗が独立する前はさ、あの会社も〈テラス〉も、SDGsのイベントの什器を請負ったり、後々残っていかない仕事ばかりやったもんね。修斗は本当にやりたいことを、ここでやっとできたんやね」
「まだまだ一枚板を使うような注文は少ないで。合板の特設什器みたいなもんも結構やってる。仕事を選べる立場ではない」
 修斗は口元に笑みを浮かべながら、道具を壁の所定の位置に戻している。私は話を続けた。
「でも、こんなご時世になって、修斗の選択は間違ってなかったんやって思った。あのとき独立してなかったら、いまごろ会社から来るな言われて自宅でじっとしてなあかん事態やったで」
「誰とも会わへんことが、コロナ感染の最大の予防になるんやな。1カ月月誰とも口利いてへんな、やたらと鳥のさえずり聞こえてくるなて思ったとき、背中が寒うなることもあるけど、コロナにはええってことか」
「嫌味で言うたんとちゃうねんけど」
「拗ねてるように聞こえた? 悪いけど、俺はここの生活楽しんでるで」
 それから、もみじ鍋の準備のため二人で台所に立った。流し台の位置がやたらと低く、修斗は腰を折るようにして生肉に包丁を入れていた。私も出汁を取ったり長ネギを細切りにするまでは手伝ったが、あとは修斗がやると言うので、卓袱台を拭いたり食器の準備に回った。
 修斗と出会ったのは、〈テラス〉と修斗が勤めていた会社の人たちとの飲み会がきっかけだった。その席で意気投合したわけではなかったけれど、二次会まで残ったメンバーに私も修斗もいて、その会が解散したとき私はすでに終電を逃していた。翌日仕事が休みだったし、24時間営業している店で朝まで時間を潰そうとしていたところ、修斗が「女の子が夜中に一人でうろうろするもんとちゃう」と言い出して、自宅まで送ってくれたのだ。徒歩で、1時間以上かけて。それから何回か顔を合わすようになり、付き合うようになった。最初のデートが比良山頂へのハイキングで、慣れない登山靴で私の足首が真っ赤に腫れ上がったとき、麓までおぶってくれた。私がアウトドアブランドが好きだったから、山登りが平気な女の子だと勘違いしたらしいけど、そうではないと判明し、その後のデートは古民家カフェ巡りになった。
 修斗のナチュラル志向はどんどんエスカレートして、人里離れた生活へと突き進んでいった。それには付いていけないと、あのときは思った。しかし、こんな時代になってみると、都会におけるなんらかの志向は所詮ファッションであると、台所に立つ修斗の丸まった背中を見て考えた。
 ファッションとは、人との差異に喜びを感じて成り立つもの。ナチュラル志向でさえその一種であり、俗物と一線を画するため、自然環境を意識している自分に酔ってしまうのかもしれない。カフェでの読書、映画鑑賞、観劇、ショッピングといった都会でしかできないことが土台にあって、それを志向に結びつけて満たされるのだと、この自粛期間中に思い知った。この期間中の私は、ネット配信の韓流ドラマにはまる大勢のなかの一人だったのだ。

 もみじ鍋をはじめたのは、夕方5時過ぎだった。
 出汁に醤油と味醂と擦り下ろした生姜で味付けし、ネギや豆腐を鍋に入れ、蓋をする。カセットコンロの前の、角の欠けた皿に盛られたレバ刺しが、血の塊みたいにテラテラと光っていた。修斗が醤油を数滴垂らし、山葵を添え「どうぞ、召し上がれ」と言った。
「いただきます」
 火を通した形跡もなく不安がないわけではなかったが、新鮮であることだけは確かだったので、薄く切られた一枚を口に入れてみた。なんだこれ? とろりとした感触が口のなかで溶けて広がっていく。私が「うまっ!」と叫ぶと、修斗はしたり顔で笑った。
「絞めてすぐに内臓取り出したし、今日食べるからこんだけうまいんやで」
「これは、ワインか日本酒が欲しいところやなぁ」
「え? なに言うてんねん」修斗が急に真顔になった。「飲んだら車で帰られへんやん」
 私は返す言葉を失い、縁側越しに外を見た。空はまだ明るかった。お腹がそれほど空いていないと訴えたのに、やたらと早く鍋の用意がはじまったのは、私の帰る時刻を考えてのことだったのか。
「こんな山道、真っ暗になったらよう運転せんわ。帰らなあかんのやったら、ここをいますぐ出るわ」
「まだいけるやろ」修斗はきまり悪そうに外を見たあと、蓋の穴から水蒸気を出す鍋に視線を戻した。「さあ、煮えてきたで。肉入れるで」
「はじめて出会った日のこと思い出すわ」
「ん?」
「修斗が三条からうちまで送ってくれたやん。うちに着いたの夜中の2時で、申し訳ないから、なかでお茶飲んでってくださいって誘ったけど、いやいや、付き合うてる間柄でもないし帰りますって、帰っていった」
「当然やん。のこのこと家に上がっていったら、そういう下心があって送っていったってことになるやん」
「わかってるよ。私もすぐにどうこうなりたいわけやなかったけど、あの日の帰り道、楽しくおしゃべりできたし、送っていくと申し出てくれたことに、男らしい人やなーって感動もしてて。ただお茶を飲んで帰ってもらってもよかったし、そういう雰囲気になったらなったで、まあええかと」
 もくもくと沸き立つ鍋から、修斗は火が通った肉を掬い上げ、器に入れた。自分の分を入れたあと、私の器にもぽいと入れる。考え込んでいるようだった。
「けじめをつけたい人やってことはわかってる。でも、形にこだわってしまうのなら、私はいますぐ帰ったほうがええと思う」
 修斗は口を尖らせ、私の顔をまじまじと見た。私は聞き返す体で首を小さく傾げる。
「泊めてってか」
「ええやん。もう、さっぱりした関係なんやし」
 気まずくなり、私は鹿肉をネギごと口に入れた。煮込む前は赤々としていた肉だから、さぞや硬いだろうと思っていたけれど、柔らかく、普段食べる豚や牛とは違ってしっかりと頬張っている食感だ。ネギの辛みが肉の旨味と一緒に口内に広がる。生姜風味の甘辛出汁もいいけれど、大根おろしと一緒に食べたいような気もした。
 鍋のなかを一回さらってから、罠猟と鉄砲猟の違いについての話題になった。煮立った鍋を気にせず修斗は延々と講釈を垂れる。私が泊まっていくことに、敢えて触れないようにしている。女性には優しくあらねばならないと思っているところと、頑なにけじめをつけようとするところに、付き合いはじめた頃、もどかしく切ない気持ちでいっぱいだったことを思い出した。意図的に焦らしているわけではないとわかるから、よけいに色気を感じてしまったのだ。
 夕食後、ここで寝てと二階の六畳の部屋を案内された。
 砂壁がところどころえぐれている古い畳の部屋だった。まったく似つかわしくないデスクトップパソコンが隅の座卓に置いてある。その横に製図盤が並んでいて、描きかけの図面が貼ってあった。くたくたのTシャツを着た修斗が集中して図面を引いている姿を想像すると、付き合い出した頃の感情が蘇ってきた。自分の手で思い描いたものをつくりだせる人って、マイペースで頑固だけれど一緒にいてワクワクする。どうして私は、修斗の冒険に付き合いきることができなかったのだろう。
 ときどき、この家の間取りを思い出し、どうせ一人寂しく暮らしているんだろうと高を括ってきた。が、この自粛期間中、日常を綴る彼のフェイスブックを読んでいくうちに、この目で直接確認したくなったのだ。こちらは毎日自宅でじっと過ごす日々で、身も心もぶくぶく太っていた。自分からここへ来たのは、変化を欲していたのだろう。今日彼が、1カ月誰とも話していないと気づいたとき背中が寒かったと言ったとき、来てもよかったんだとほっとした。
 なかなか寝付くことができなかった。パジャマ代わりに修斗のスウェット上下を貸してもらったのと、修斗が日頃使っている布団を使うことになって、懐かしい匂いに包まれたせいだ。いろんな想念が頭のなかをぐるぐると巡った。薄暗い部屋のなかで、下から骨張って締まった上半身のシルエットを見上げたときに、いつも私から「好き」と言っていた。あのときは言わずにはいられなかった。修斗が本当に素敵だったのだ。
 襖を開け、廊下へ出てみた。力を入れないよう踏み出すだけなのに、ぎっぎっと木の軋む音が響く。立ち止まると、階下から何かが擦れる音がした。シャーッ、シャーッ。階段の降り口まで来ると、台所の灯りの下でなにか作業している修斗が見えた。
「寝られへんの?」
 階段を下りながら、修斗に声をかける。振り向いた修斗は、ノミを握っていた。砥石で刃を研いでいたのだ。
「そっちも寝られへんねや」
「修斗があんなこと言うからや。鳥のさえずりがーとか、背中が寒うなったーとか」
「え?」
「私、ここに住んでもええよ。今日は、そう言うてもええかなと半分思いながら来てん」
 修斗は持っていたノミに油をつけ、調理台に並べた他のノミの並びにそれを置いた。階段近くの上がり框に腰掛けると、私にも手を向け、隣に座るよう促す。私は修斗の隣で三角座りをした。
「実加ちゃん。勘違いさせるようなこと言うてしまって、ごめん」
「うん?」
「鍋食うてたとき、昔話しだしたから、なんか、実加ちゃんがそういうつもりになってしもたんかもと思って、考えてたら寝られへんようになった」
「うん」
「俺はいま、こっちに好きな人がおるねん。地元の女性や」
 両手で頬を挟んで、恥ずかしいという仕草をしてみせた。本当に恥ずかしかった。ちょっと上から目線で、ここに住んでもええよなんてよく言えたものだ。真夜中の思い込みって恐ろしい。
「〈テラス〉でなんか嫌なことでもあったん?」
「うわー、やめてやめてやめて」騒ぐという反応に切り替える。この醜態、いくら私のことをよく知っている元カレと言えども耐えられない。「仕事で辛いことがあったから元カレに走るって、カッコ悪すぎる。そんなんちゃうねん。いま、店自体開けてへんねんから、嫌なことなんかあるわけないやんか」
「まあ、そやね」
「コロナでさ、生活が一変してしまったから、揺らいでしまった。だって、修斗のことは嫌いで別れたんとちゃうもん」
「ひょうたんの苗が欲しいって連絡あったとき、どないしようか迷ってん、ほんまは。だって車で来るって言うても往復何時間かかるねんって話やし、泊めることにでもなったら、俺は実加ちゃんにもいま好きな女性にも誠実やない態度を取るわけで」
「そうや。修斗も悪い」
「そうそう、俺が悪い。でも、完全に、プツリと、こっちに来る前の関係を切られへん自分がいる。疎外感は半端ないで、ここ。祭りのときなんかなーー」と修斗は言いかけて、両手で顔を覆い、鼻を噛むように小指側を合わせた。
「どないしたん?」
「ちょっと切なくなるんで言われへん。誰にでも開いていると思って生きてきた俺が、こういう類のことで悩むんやなと、自分自身で驚いております。昼間に野菜持って来てくれたおじさん、あの人が移住の斡旋をしてくれた人なんやけど、あの人の家族ぐらいやな、いまだに頼れるんは」
「好きな女性って言うのは?」
「あのおじさんの娘さん」
「せっま。めちゃくちゃ人間関係、せっま」
「たはは。笑って。笑っちゃってください」
「でも、その家の方と鍋しようと考えてたんやろ? 私が行ったらややこしなるやん」
「そこは、こそこそしてんと堂々とやれば、誤解されへんと思て」
「ちょっとな、修斗は失礼なとこあんで。誰に対して失礼って、私にや。前からちょいちょいムカついててんけど」
「あー、ごめん。鹿が今朝急に獲れたんで、肉の消費のことばっか考えてたら、つい」
「そやから、それが失礼やっつってんの!」
 明日は長時間運転せなあかんから、と私は二階へ戻った。
 そこからは、あっさりと眠れた。鳥のさえずりを聴くことはなかったが、階下から物音がして目が覚めた。陽がかなり高くなっていて、部屋のなかは自然光だけで充分明るくなっていた。
 服を着替えて一階に下りていくと、居間では修斗が卓袱台を布巾で拭いていた。台所から出汁のいい匂いがしている。
「おはようさん。朝食、用意してくれてんの?」
「おはよう。朝食やけど、昨日の鍋のおじやでええか?」
 台所に目を向けると、もみじ鍋で使った土鍋がコンロの火にかけられ、蓋の穴から水蒸気が吹き出していた。
「朝からご馳走や。うれしー」
 図々しいとは思いながらも、私はお客さんであることを決めこみ、卓袱台の前へ座った。
 緊急事態宣言が開けたら、私は〈テラス〉の社員として店に立つ。雑貨や家具はネット販売が主流になっていくとしても、私が担当しているカフェはどうなってしまうのだろうか。ジビエ料理フェアをやっていた頃は、これからは〈駆除と食用〉の〈需要と供給〉が一致していく時代になると思っていたのに、この数カ月でそれどころではなくなってしまった。
 もう、修斗と朝食を一緒に食べることはないだろう。私的な理由でここへ来ることもない。これからは、もっともっと〈対面〉が避けられる時代が来るのだから、この程度のことでうろたえることはないのだ。ネットでの買い物、オンラインでの職場の会議や学校の授業や医師の診察ーー、修斗とも、そういう繋がり方をすればいいだけのこと。物理的に離れた場所から、家具をつくる修斗を応援していけばいいのだ。

〈了〉


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?