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小説 | フェイス・トゥ・フェイス (1)

1


営業部の人間が出払って閑散とした12時40分、わたしとスミちゃんは給湯室で昼食の準備をはじめていた。
 自分用のマグカップに緑茶のティーバッグを入れて、スミちゃんの横に並ぶ。スミちゃんはポットの真下にカップ麺を置いて、しつこく給湯ボタンを押しつづける。コシュッ、コシュッとポットの中身が尽きた音。
「ここのお湯、今朝入れ替えてなかったんだ。ごめんなさーい。米田さんのお湯、なくなっちゃいましたぁ」
 スミちゃんは、毎日カップ麺でも平気な女の子だ。小柄で肌もかさかさなのは、生まれつきだからではないと思う。髪も毛も茶色く、日本人の標準的なメラニン色素が足りていなさそうである。けれども、仕事ぶりはちがう。どこにそんなパワーが潜んでいるのかわからないくらい、猛烈に仕事をこなす。
「水、満タンに入れとこうか。営業さんたちにまた怒られちゃう。わたし、お茶だけだから下の自販機に買いにいくわ」
「あ、下に行くんだったら気をつけてくださいねー。朝から怪しいおっさんがいるんですよ。白い河童みたいな、てっぺん禿のおっさん」
 スミちゃんはそう言いながら、ポットの把手と底を持って流しまで運んだ。
 そういえば午前中、彼女はパソコンのディスプレイの裏をのぞきこむように、朝からたびたび立ちあがっていた。あれは窓から外の様子をうかがっていたのか。
 その白い河童が、カーキ色のベストを着ていたかどうか訊いてみたかったがやめておく。自販機まで行くのもやめて、ポットが沸騰するまで待とうと、いったん給湯室をあとにした。
 制作部では、佐田くんが音楽雑誌を見ながらコンビニのおにぎりを食べていた。彼はバンドをやっているらしく、前髪が口に届きそうなほど伸びている。黒いスキニーパンツを穿いた脚は、わたしの腕くらいの太さしかない。
 窓際のスミちゃんのデスクへ行ってみる。おそるおそる窓から下をのぞいてみた。この雑居ビルは商店街のアーケードがはじまる角地にあり、わが社〈モリ企画〉はその2階だ。歩道には、たくさんの自転車がガードレールに沿ってとめてある。
 スミちゃんの言うとおり、白い河童頭のおっさんが自転車の列の端に立っていた。半袖のTシャツにカーキ色のメッシュのベストを着、わたしにはおなじみの格好だ。米田克之。わたしの父。誰かの自転車の荷台に青いリュックサックを置き、たこ焼きの舟を口許まで持ってきている。日ごろかぶっていたヤンキースのキャップはなく、禿げあがった頭頂部が7月の強い陽光を反射している。それ以外は白髪が7、8センチ伸びてザビエル状態。会社に勤めていたころは、側頭部の髪を無理矢理あげていたけれど、いまはそこまで手がまわらなくなっている。
 見なかったことにしよう  、わたしはそう決心した。
 自分のデスクへもどり、バンダナで包んできた弁当をひろげた。
 ふりかけの包みの端を切り、タッパーの容積三分の二を占める白いご飯にぶちまける。のこり三分の一は、ゆで卵とマカロニサラダ。右手で箸を持ち、左手でスマホを操る。制作部の人間は、栄養の偏りなどまったく気にしない。
 午前中、頭のなかで小説の構想を練っていた。たまっていた言葉をスマホのメールに打ちこんでいく。家に帰ってからPCで清書し、日付が変わらないうちにnoteへアップロードするのだ。


【第35話】
 オレはいま、空港にいる。手荷物受取のベルトコンベアの前だ。
 いま何時だろ? 腕時計を見てみる。
 7時16分。これは日本時間。
 ここトロントの時間は、えーと、えーと、あった!
 出口のところに赤い文字のデジタル時計が。
 19時16分。そういえば時差は12時間って教えてもらっていたっけ。
 オレの荷物が流れてきた。
 青いスーツケースにベタベタとシールが貼ってある。YTO、PAR、DTT……世界各地の空港コード。これだけ世界を翔びまわってきたのだ。17歳の男の勲章。
 これからは、ここ、トロントが拠点になっていく。
 マネージャーさんがやってきた。
「堀くん。荷物は全部受け取ったかな。これからウェイツコーチのいるグリーン・クラブのリンクに向かうけど、その前に腹ごしらえして行くかい?」
「そんなにお腹は空いてません。ウェイツコーチに早く会いたいです」
「よかった。向こうからも、練習のあとでショーマといっしょに食事に行きたいって言われてるんだ」
 オレもさっそく今日から練習に参加できるのかな。背中がゾクゾクしてきた。武者震いってヤツだろうか。
 今年の3月の世界選手権。オレは初出場ながらも銀メダルを獲得し、世界に堀翔馬の名前を知らしめた。
 それからだ。周りがバタバタしはじめたのは。次期オリンピックの金メダル候補を、日本人の無名コーチがついてていいのか、みたいな空気になってきた。
 高校の単位のことも、オレの知らないところで話がついていた。
 地元の友だちにサヨナラもろくに言えず、こうしてカナダにやってきた。
 でも、オレは寂しくなんかない。
 それだけ金メダルを期待されてるってことだから。

 noteに公開している小説は、実在のスケーターの名前をそのまま拝借し、彼らの日常や試合の舞台裏を勝手に妄想して描いたものだ。いつしかスケート連盟から訴えられるんじゃないかとヒヤヒヤしているが、〈妄想小説〉だと断り書きを付け、また特定の選手の応援アカウントだと唱ってないせいか、連載をはじめて十カ月経ったいまも平穏に継続できている。
 現在18歳の堀翔馬選手は、負けん気の強さと華麗なジャンプを武器に、ここ数年で頭角を現してきた。八重歯をのぞかせる笑顔が少年ぽく可愛らしいので、そのギャップで女性たちのハートを鷲づかみにしている。わたしとしては、翔馬くんの日常を妄想し萌え萌えしたい女子に向けてこの小説を書いている。そう、完全にふざけているのだが、ちょいと胸キュンするような話を書いたあとには、noteに〈スキ〉と絶賛コメントが次々と舞い込むのだから面白くてしかたがない。
 スミちゃんが、蓋をしたカップ麺を両手で持ちながらそろそろと歩いてきた。隣はパソコン以外の作業用デスクで、スミちゃんはそこのパソコンチェアーを足で引き、そっと腰かけた。
「米田さん。今日もお弁当、真っ白ですね」
「ふりかけは白くないよ」
 自分は毎日カップ麺のくせして皮肉を言われる筋合いはないと思いつつ、ひたすらスマホに文字を打ちつづける。
「メール、長文ですね。彼氏ですか?」
「彼氏なんて  、もう7、8年いないよ」
 食欲そそられる化学調味料の匂いとズルズルと麺をすする音が、顔にまとわりついてきた。小説に集中できなくなくなったので、メールをいったんPC用アカウントに送る。ついでに、メールの受信箱を確認する。noteから40件以上届いていた。昨晩更新した記事に〈スキ〉がついたというお知らせだ。履歴の一番古いのは、おなじみの人物からだった。アイコンは楽曲のヴィオラだ。

翔クン、ついにカナダへ渡りましたね。今後、新コーチのウェイツがどんなキャラで描かれるのか楽しみでーす!

 今年3月の世界選手権直前、〈ヴィオラ嬢〉という人物がはじめてnoteの記事にコメントを寄せてきた。真夜中のことだった。現地でしか観られない公式練習の様子を実況中継風に書き込んできて、わたしやコメント欄の常連たちは一目置かざるを得なかった。最初は誰だこいつと警戒したけれど、更新するたびに小説の感想を入れてくれるので、コメント欄自体が盛りあがってきたのだ。
 ヴィオラ嬢とは直にメールするようになっていった。わたしの妄想小説のために、たびたび堀選手絡みのネタを送ってくれるのだ。なんと彼女はFIFAの関係者で、世界各国に友人がいて、堀翔馬が海外でどんな日々を過ごしているのかも耳に入ってくるらしい。一般のnote利用者に選手のプライバシーを漏らしていいのかと問いただしたこともあったけど、あなたの記事のファンだから役立ててほしいのだとヴィオラ嬢は言ってきた。そもそもわたしにネタを提供し、彼女が得することなど思い当たらない。いまやファンどころか、すっかりわたしの右腕だったが、LINEでは連絡を取り合っていない。直接顔を合わせたことのない人物と、そこまで距離を縮められなかった。
 スミちゃんはカップ麺の汁まで飲み干すと、自分のデスクにもどって窓から外をのぞきこんだ。
「白い河童、まだいる?」と訊くと、彼女は「います」と答えた。

 7時前に営業担当の男の子が制作部へやってきて、「遠野くん、今日遅くまで大丈夫?」とスミちゃんに新しい原稿を渡していた。クライアントの飲食店との打ち合わせはたいてい開店前になるので、彼らは日が暮れてから仕事を持ってくるのだ。
 スミちゃんは、「いつまでですか?」と訊いている。営業担当の子は手書きの原稿を指さしながら、「オモテ面だけでも明日の朝ほしいな」と言っている。これから終電まで、彼女はぶっつづけで作業することになるのだろう。
 アルバイトの佐田くんは、今日はバンドの練習があるとかで6時半ごろ帰っている。おなじ身分のわたしも、いつもなら6時でさっさと帰るのに、だらだらと長引かせてやっていた。会社の前で出待ちしている父を諦めさせるためだった。
 クラウドから、つくりかけの地図データを引っぱり出す。ここの商店街のお散歩マップで、うちの社長が商工会に持ちかけた企画だった。まだ紹介する店も決まってない。近々発行予定のチケット広告は概ねできてしまったし、あとは改稿と校正のくり返しで、急ぎの仕事はのこっていなかった。
 チケット広告は一紙面に複数の店の紹介がされるので、地図がやたらと必要だ。会社はエリアを拡大し10ページ程度のフリーマガジンに形態を変えつつあるので、新規の店が増えていく一方だった。ここで働きはじめて3年になるが、地図と画像のトレースといった単純作業ばかりやらされている。1年ほど前から紙面デザインもやらせてもらえるようになったが、デザイン科卒でもないので器用に対応できなかった。美術の非常勤講師の仕事がなくなって、せめてパソコンの技術でも身につけたいと飛び込んだ業界。しかし、町の広告屋が目指すところは、ポップ書体をふんだんに使ったド派手な新聞の折り込みチラシで、30過ぎてから頑張って身につけるべき技術でもないか、と平穏無事を優先していた。
 残業しようにもたいした仕事量はなかったが、会社を出たときには空腹を通り越していた。1階の立ち飲み屋から漂う串カツの匂いで、胃液が口までせりあがってくる。
 さすがに父の姿は見当たらない。いつぞや父は高校の同窓会の掲示板に、自分の娘は芸大を出て大手広告代理店でデザイナーをやっていると書き込んでいた。今日ここへ来てみて、そうではないとわかったはずだ。いや、そもそもすべてを知った上で、誇張して書きまくっているのかもしれない。

2


快速電車に乗り10分で、自宅の最寄り駅に着く。帰り道、弁当屋を境に商店が途切れる。晩ご飯をつくる気力もないので、のり弁を買っていくことにした。
 田畑と中学校のグラウンドにはさまれた道路は、街灯がほとんどなく、その先にあるコンビニが唯一安心できる光源だった。その裏の3階建ての古びた鉄筋アパートが、わたしの現住まいだ。
 食後のデザートを買おうと、コンビニへ寄ってみた。入ってすぐトイレのほうへ目をやると、成人向け雑誌棚の前で男性が数人立ち読みしている。手前にいる大柄の男が雑誌を棚へもどし、その場を立ち去ると、カーキ色のチョッキが目に入ってきた。父だった。
「なんで?」
 思わず大きな声が出てしまう。
 父は、肘を曲げた左腕を胸元にぴたりとつけて、顔をつけんばかりに雑誌を読んでいた。足元には青いリュックサックが置いてある。
「お父さん! なんでここにいるのよ」
 父は顔だけをこちらへ向け、右手をあげる。
「よう! 朝子さん、こんばんは!」
 雑誌をバサリと床に落とした。女性の肌の色と下着らしき白色が、開いたページからぼやっと見える。
「今晩、朝子の部屋に泊めてくれよ」
「今日、会社の前にずっといてたでしょ。泊めてほしいからってやめてくれない?」
「気づいてたなら、出てきてくれたらいいのに」
「同僚も不審がってたし、行けるわけないでしょ」
 4メートルほど距離を保ったまま言い合いする親子に、いつのまにか好奇の視線が集っていた。成人雑誌は開いたままぶざまに床の上にある。
 食後のデザートは諦めてコンビニを出た。角を二つ曲がれば、そこがわたしのアパートだ。足音がついてくる。どうせ、1階のわたしの部屋も確認済みなんだろう。
 鞄から鍵を出した。「朝子。おい、朝子」と父の声が迫ってくる。わたしは自分の部屋の扉を見つめながら、きっぱり言い放った。
「終電まで時間はあります。自分のうちへ帰ってください」
「家出してきたんだ。もう、1週間帰ってない」
 わたしはようやく父に顔を向けた。
「は? 1週間、どうしてたの?」
「ビジネスホテルに泊ってた。でも、空調がからだに合わないんだ。外食ばかりも、きつくなってきたし」
 父は軽く拳をにぎった左手を、右手で支えている。4年前に脳梗塞で倒れたあと、左手に麻痺がのこっていた。
「お母さんに電話するよ」
「したっていいぞ。この1週間どこに泊っていたのかも、いちいち報告してあるんだ」
 部屋の前で立ち話をつづけるのもどうかと思い、とりあえず父を部屋へあげることにした。
 父の言うとおり、電話口の母はいたって平然としていた。父が家を出たときも、玄関まで見送ったと言う。
「お父さん、このまま帰らなくてもいいの?」
『気が済めば帰ってくるでしょ、家事もひとりでできないんだし』
「わたしは困るわよ。お父さんに居座られたら」
 母はフェルト工芸教室を実家のリビングで開いていた。父が倒れて半年ほどは看病のために教室を休業していたが、1年前に再開した。父が長年勤めた製薬会社を早期退職したので、自分が稼がなければという思いもあるのだろうが、日がな一日家にいる父の存在が疎ましくなっているのだろう。父は父で、母の生徒さんが家に出入りする状況に耐えられなくなったようだ。多くを訊かなくても、家出の理由は察知できた。
『朝子は普通に会社へ行って、自分の生活してたらいいのよ』
「そういうわけにいかないでしょ。外食が合わなくてうちに来たって言ってるんだし」
『あのね、わたしもお父さんと毎日顔を付き合わせてたら息が詰まってくるの。ちょっとくらい親孝行だと思って面倒見てあげてよ』
 わたしが電話する横で、父はスマートフォンを操作していた。左手はだらんと膝の上に垂れている。塩分の多い外食をこれ以上つづけていては、体調を崩すと自分で察したのだろうか。時計は10時半をまわっていた。今日のところは、泊ってもらうしかなさそうだ。
 わたしは電話を切ると、数日間のことだと覚悟した。
「晩ご飯は食べたの? わたしはこれから食べるけど」
「とっくに食べたから、どうぞ、わしに構わず食べてください」
 テレビをつけて、台所へ行って湯をわかす。弁当箱を洗い、自分と父の分の茶を淹れた。父はときどきスマートフォンから顔をあげ、ニュース番組を見ていた。その横で、わたしは買ってきた海苔弁当を食べはじめる。
「ここはシャワーしかないからね」
「それも、お気遣いなく」
「わたしは冬布団で寝るから、お父さんは夏布団で寝てよね」
「朝子、以前借りていた部屋は、こんなボロアパートの1階ではないよな。どうして引っ越したんだ?」
「仕事変わって、時給1050円になったんだもん。仕方ないでしょ」
「そんな時給で生きていけるのか? うちへ帰ってくればいいだろう。まわりに住んでいるのは身寄りのないじいさんばっかじゃないか」
「あなたも、家出してこのアパートへ転がり込んで来たじいさんでしょ」
「あっ!」
 父が顔を突き出し、わたしの頭上を凝視した。うしろへ振り返ってみると、大きなゴキブリが壁の上方でじっとしており、突如流れ星のように下方へ移動した。パソコンラックの隅へと消えていく。即座にゴキジェットを持ち出したが、見失った。
「朝子、ここはコンビニの真裏だからゴキブリもしょっちゅう出るだろう」
「まぁ、ね」
「金は出してやるから、もっとマシなところへ引っ越せ」
「いや、だ」
「なんでだ? ゴキブリとじじいに囲まれて暮らしたいのか?」
「それは、お父さんが同窓会の掲示板で自慢できないからでしょ?」
「え?」
「娘は一流企業のデザイナーでもないし、仕事も専門学校出の子の下請け作業しかやってない。第一志望の大学にこだわって二浪し、さらに院まで行った娘が、こんな貧乏暮らししてるのが許せないだけでしょ」
「なんだ? 専門学校出の子の下請けって」
 わたしはスチール棚から背幅伸縮ファイルを取り出した。フリーペーパーが重なって2センチほどの厚みになっている。
「うちの会社はね、こういう家にポスティングされるようなフリーペーパーつくってんの。そしてわたしは、このなかのちまちました地図を作成するアルバイトなの。そんなことも知らないで、娘はデザイナーだとか言いふらさないでよ」
「芸大卒業しても、こんな仕事しかまわってこないのか?」
「油絵科卒業だし、面接時にパソコンも満足に使えなかったんだから、そうなるよ」
「わざわざそんな会社選ばなくても、もっとマシなのがあるだろう。なんのための学位なんだか」
「あのねぇ、芸大出ようが、有名私立大出ようが、うちらの世代は女子の就職希望者なんて余ってたの。ほとんどの子が派遣社員でボーナスもなく頑張ってんの。そのなかで、パソコンのスキルが身に付いて、次につながる仕事をわたしは選んだつもりなの。お父さんの時代とは全然ちがうの」
 これ以上なにもしゃべりたくなくなった。食事が済んだあと、わたしはパソコンを起動させた。ディスプレイと向き合い、父を視界から追い出す。
 テレビはついたままだったが、しばらくしてバスルームからシャワーの音が聞こえてきた。わたしは収納ラックからバスタオルを取り出しバスルームの前に置くと、すぐにパソコンの前へ引き返した。父のために1秒も時間を使いたくない。
 座っていても落ち着かず、立ちあがり、襖を開け、布団を引っ張り出し、卓袱台を横に立てて部屋をふたつに仕切った。トイレに近い側に父用の敷き布団と夏布団を置いて、その反対側に自分用のマットレスと冬布団を敷く。
 これで小説に集中できる。まずは昼間、携帯端末から送っておいた下書きを受信する。メールはほかに32件来ていた。そのなかに、ヴィオラ嬢からのメールもあった。

ライスさん、こんばんはー
カナダ在住の友人からの新着情報です!
ひとつは、翔クンの新プログラムが完成しましたー。今シーズンのショートプログラムは〈テイクファイブ〉なんですが、これが超カッコいいんですって! 少年の雰囲気から脱皮し、これまでにはない色気があるんだとか。もうひとつはジャンプ構成。昨シーズンより難度をあげるんだそうでーす。これは報道陣にも公開されてないレアな情報ですよぉ。ぜひぜひ小説に役立ててくださーい♪
ヴィオラ嬢より

 読んでいる最中に、父がバスルームから出てきた。用意しておいたバスタオルは使っているが、ろくすっぽ拭かずナメクジみたいに板間を濡らし、畳の間にやってくる。実家にいるときもそうなのだが、風呂あがりは全裸で前を隠そうともしない。思春期のころの父への嫌悪感がよみがえってくる。家族がいやがることを、見せつけるようにやるのが父の行動パターンだ。
 無視、無視。ハラスメント気質のおっさんは無視するに限る。ヴィオラ嬢が胸躍るようなメールを送ってくれたというのに、不快感でいっぱいになった。記事を更新するテンションもさがってしまう。
「ここのシャワー、突然、熱いのが出てくるんだな」
「文句言うなら使わないでいいよ」
「それにここ、体重計ないんだな。朝子、いま体重何キロだ?」
 出た。体重何キロ攻撃。
 実家に帰れば必ず訊かれる「朝子、体重何キロだ」。女性に体重を訊くなんてと抗議したり閉口するわたしを見て、父はいつも嬉々としていた。最近はハラスメントおっさんの歪んだ自己主張だと理解して、適当に答えることにしているが。
 メーラーを閉じて、パソコンの電源を落とそうとすると、父が「待って」と寄ってきた。
「わしもメールを見たいんだけど。家出てから、まったく見てないから」
「からだをちゃんと拭いて、パンツを穿くまでは使わせない」
「あ、はい」
「やっぱ今日は使わせない。わたしのメールが見放題になるもの。今晩中に、お父さんが勝手に見られないように設定するから明日にして」
 父はバスタオルを肩にかけたまま、スマートフォンをいじりはじめた。定年退職したおっさんに、毎日チェックしなければならないほどのメールが来るというのか。あるとしても、どうせ同窓会関係だろう。
 わたしはメーラーから自分のアカウントを削除し、受信メールもすべて捨てた。同じものは、ブラウザのメールアカウントからも見ることができる。ヴィオラ嬢との蜜月メールを父に見られるのは絶対にいやだった。ミーハー丸出しのわたしがそこにいる。
 パソコンの電源を落としたあと、わたしはバスルームに入った。
 幼少期に、わたしは父といっしょに風呂へ入っていた。その習慣は思春期になるにつれ、自然となくなるはずだった。が、小学校中学年、高学年、そして中学生になっても、父はわたしの入浴中に扉を開けようとした。先に入っているとは知らなかったと惚けてやってくるのだ。わたしは入浴中に父の気配を察すると、大声で歌ったり、物音をたてて抗戦し  
 この部屋でいっしょに住むなど不可能だ。そうしか考えられなかった。

3


「うわー、それはきついですね。帰ったら、お父様がお腹空かせて待ってるって」
 スミちゃんは顔を歪ませ同情したあと、カップ麺の汁を半分ほど飲んだ。今日の昼休憩もわたしの隣に来ている。
 今朝は早くに目醒めてしまい、父の昼ご飯用に、胡瓜と春雨の酢の物とだし巻き卵をつくっておいた。よって、今日のわたしの弁当は真っ白ではない。
 スミちゃんには、昨晩コンビニで父と鉢合わせし、自分の部屋に泊めたと報告した。でも、白い河童が父だとは言ってない。そこまで彼女に面白い話を提供する気にはなれない。
「お父様、一日中、米田さんの部屋にいるんですよね? 退屈じゃないのかな」
「ずっとパソコンでトランプゲームやってるか、エロ画像漁って見てると思う」
「娘の部屋でエロ画像見てるって、想像しただけで虫酸が走ります」
「実家でもそうだったし、絶対にやってる。母が歳を重ねるごとに生き生きしてきたのと反比例して、やることなくて惨めな感じなの」
「お父様、なにか趣味はないんですか?」
「釣り  。ああ、言ってなかったっけ、父は4年前に脳梗塞で倒れたのよ。左手に麻痺がのこってからは車の運転ができなくなったし、釣り竿に餌も付けられなくなって、やめちゃったの」
「そうなんですか  。それだと無碍に追い返せないですよね」
 デスクに置いていたスマホが鳴動した。〈父・克之〉と表示が出ている。
「父だ」と言って席を立とうとすると、スミちゃんと佐田くんが「お気になさらずに」と目配せしてきた。面白がられているようにも思ったが、手短かに済みそうであればここでもいいかと電話に出た。
『朝子、今日は晩ご飯つくらなくていいからな。夕方に母さんがこっちへ来る』
「ホント? 迎えにきてくれるって?」
 わたしの電話の反応に、スミちゃんは手をちいさく叩く仕草をした。佐田くんも目が合うとかすかにほほ笑んだ。早くも一件落着な雰囲気だ。
『ちがう。おかずつくって持ってきてくれるんだよ。朝子の分もつくってくるってさ』
「なんなのそれ。わたしへの気遣いってこと? おかず持ってくる暇があるんなら、お父さんを連れてかえってよって話」
 スミちゃんが、両手で顔をはさみ〈ムンクの叫び〉のポーズをとった。パソコンに向き直っている佐田くんからも、にやけた横顔が確認できた。
「とりあえず、ふたりでじっくり話し合ってよね。なんなら、お母さんを夜まで引きとめておいてよ。わたしも言いたいことあるし」
『わしに帰る気がなければ、話し合っても同じだけどな』
 帰る気がない、だとぉ?
 昨日の残業が帳消しになるくらいに、わたしは就業時間終了直後、会社を飛び出した。
 電車をおりてからは早足で帰った。コンビニとアパートの隙間から、わたしの部屋の窓が見える。カーテン越しに灯りが漏れていた。ああ落胆。
 玄関の扉を開けてみた。三和土に母の履物らしきものはなく、わたしのサンダルと父のスニーカーだけが並んでいる。
 父はパソコンの前に座っていた。左側にマウスを置き、トランプゲームをやっている。
「ただいま。お母さんは? とっくに帰っちゃった?」
「ああ。冷凍庫に八宝菜があるぞ」
 父はおかえりも言わず、なんだかつんけんしていた。
「お父さんは食べたのね。なに、お母さんと喧嘩でもしたの?」
「いや。母さんは3時ごろ来て、部屋の掃除をして帰っていった。駅まで見送ったよ」
「じゃあ、なんで機嫌わるいのよ」
「白い河童の糞じじい、だってさ」
 いきなりなんの話だろう。まさか昨日会社の下にいたとき、スミちゃんの声が聞こえていたのだろうか。
「母さんを見送ったあと、N公園に行ったんだ。散歩するには、ちょうどいい広さだしな。あそこに池があるだろ。中学生ふたりが釣りをしてたんだが、ほとんど釣れてなくて話しかけてみた。なに釣ってんだって? ブルーギルって言うから、そんなの弁当ののこりでも針に付けといたら馬鹿みたいに釣れるだろって言ったら、じゃあ、おじさんやってみてよって釣り竿渡されて」
「中学生に喧嘩売ったんだ」
「下手だからアドバイスしてやっただけだ。でも、左手がこれだから断ったんだ。そしたら、あいつら言いやがった。白い河童の糞じじいって」
 父はパソコンに向かって背を丸め、カチッ、カチッとマウスを動かしている。なんだか見ていられない。
 冷凍庫を開けると、母のつくってきたおかずがジップロックに小分けされてぎっしり詰まっていた。ひとり分の夕食を用意したあと、テレビをつけてみる。9時のニュースがはじまったところだった。2、3日前から話題になっている、いじめによる中学生自殺の最新情報が流れる。学校名を聞く限りでは、半径数キロ圏内の地域だ。カメラに映った校長先生が、学校側にいじめの認識はなかったと話している。その途中で、父が「へっ」と言った。
「この事件、いじめた子らの名前がネットに流れていたな。今日のあいつらの学校かもなあ。追いかけて調べたらよかった」
 父が意気揚々とパソコンを操作しはじめる。わたしは愕然とした。父はついに、いじめの首謀者割り出しに興味を持つようになったのかと。
 国立大学を出て、大手製薬会社に勤めて、それだけが誇りだったようなひと。日ごろの鬱憤と生きる目標の喪失を引き受けた場所が、ネットの下世話な暗部だと思うと悲しくなった。どうか、身内以外のところで、この姿を晒していませんように。でも父のことだから、場所をわきまえずにやっている気がする。
 その晩、父が床についたあと、ヴィオラ嬢にメールを書いた。誰かに話を聞いてもらわなければ、どうしても寝付けなかったのだ。
 昨日、家出してきた知人がうちにやってきて困っている。この知人は病気の後遺症でストレスを抱えていて  、と父だと伏せて相談した。
 メールを送信したあと、わたしは小説の記事を打ちはじめた。その作業中にヴィオラ嬢が返事をくれた。

ライスさん、こんばんは。
私的な悩みを打ち明けられたのは、これがはじめてですよね。
距離が縮まった気がしてとても嬉しいです。
きっとこの知人さんは、ライスさんにとって大切な方なんですね。
左手が不自由ということですが、もとはどんな趣味をお持ちだったのでしょうか?
踏み込んだ質問だったらすいません。

ヴィオラ嬢さま
踏み込んだ質問だなんてとんでもない。悩みを聞いてくださってありがとう。知人の趣味は陶芸です。後遺症がなければ、うちのベランダで思う存分、ろくろをまわして欲しいんですけどね。

ライスさま
時間を持てあまし自分を無価値だと思いながら生きていくって、すごく辛いことですよ。その知人さんは、陶芸がお好きということですが、美術工芸全般の知識もおありなのでしょうか? いまどこの美術館でも、美術好きな一般人を募集し、週末の子ども向けのワークショップや作品解説のサポーターになってもらっていると聞きます。そういうのを勧められたらどうでしょう?

 この短いメールを読んで、胸が熱くなり、暗闇に一筋の光が差した気がした。世界各国に知り合いがいるようなひとだから、アドバイスにも視野の広さが表れている。
 父の得意分野は陶芸ではなく魚だ。ならば、美術館ではなく魚がいるところを探せばいいのだ。わたしは、ネットで近場の水族館を検索しはじめた。

 何組かの親子連れのあとに、わたしと父はバスをおりた。
 雲ひとつない晴天で、アプローチの石畳は目つぶしのように白く反射している。ピンクの蓮の花で埋め尽くされた池の向こうに、コンクリートの建物があった。
 玄関に、ひらがなの多いのぼりが何本か立っていた。自動ドア越しに、子どもたちの群れが見える。巷の小学生はもう夏休みなのだ。1階のロビーでは、水色のポロシャツを着た高齢のおじいさんがマイクを持ってしゃべっていた。子どもに恐竜の骨について解説している。
 父はポケットから財布を取り出し、2,000円を寄越してきた。これでチケットを買ってこいということだった。
 企画展は〈湖の生き物たち〉。この博物館は湖岸にあるが、ネットで調べたところ企画展がいつも水中生物とは限らないようだ。たまたまだけど、父の関心事のストライクでよかったと思う。
 わたしがチケットを買いにいっているあいだ、父は子どもたちに混ざって恐竜の話を聞いていた。遠くからでも、父の顔が自然にほころんでいるのがわかる。よし、今日は自分も童心に帰るぞ、皮肉を口にせず父をいい気持ちにさせるんだ、と心にかたく誓う。
 企画展示の最初のコーナーは、魚ではなく水辺に生息する昆虫だった。写真パネルがほとんどだったが、水槽も展示されていた。
「タガメだ! 見たか、朝子、タガメだぞ」
 父は目を輝かせて、水槽に魅入っている。
「なにそれ」
「絶滅危惧種なんだぞ。ほら、この前足が鎌みたいになったやつ」父は水槽の底あたりを指さした。黒っぽいゴキブリみたいなのが、じっとしている。「カエルや魚を食べるんだぞ。吸血鬼みたいに肉を吸いあげるんだ」
 気持ちわるぅ、と喉まで出かかったが、ふんふんとうなずいてみせた。
 それからは、わたしから質問を投げかけていった。父はなんでも饒舌に解説してくれる。いい兆候だ。
 2階の展示室へ移動する途中で、水色のポロシャツを着たおばさんが歩いていた。首からぶらさげた名札から、〈一般サポーター〉の文字が見える。そのひとが行ってしまったあと、「水色のポロシャツのひとは、一般サポーターみたいね」と父に言ってみた。
「一般サポーター?」
「うん。最近、どこの博物館でもそういう制度があるみたいよ。特に子どもがよく来るこういう時期に、展示の解説やったり、ワークショップのお手伝いしたりするの」
「ふうん」
「お父さんもやってみたら?」
「え?」
「わたしにこれだけ説明できるんだもの。お父さんだったら余裕でできるよ」
 2階の渡り廊下から1階のロビーにいる子どもの群れが見えた。恐竜の解説は終わっていた。子どもたちは紐のついた紙の束を首にぶらさげて、これからどこかへ行こうとしていた。
 父はその様子をじっと見ていた。どうにかやる気になってほしかった。それ、もう一息、とは思うものの、適当な言葉が見つからない。
「でもな、子どもから白い河童って言われちゃうかもな」
 父がぼそっと呟いた。案外、髪のことで傷ついていたのだ。
「むかしかぶっていたヤンキースのキャップはどうしたの?」
「散歩してたとき、風に飛ばされて池に落ちた。棒を持ち出したけど、掬いあげられなかった」
 そう言って、父は開ききらない左手を見つめた。代わりのキャップを買えばいいのにと思うけれど、言ってはいけないような気がする。父はお気に入りのキャップをなくして以降、家にこもるようになったのかもしれない。
「もうすぐ誕生日でしょ。お父さんに新しいキャップ買ってあげる。それにサポーターはボランティアだから、手のことだってあらかじめ言っておけば、配慮してもらえるんじゃないかな」
 父は黙り込む。さっきまで展示物を楽しそうに観ていたのに、眉間に縦皺を寄せている。無理に奨めて失敗だったのか。
 企画展を出るころには、わたしはすっかり諦めモードになっていた。
 1階のロビーにもどると、子どもワークショップは終了し、なごやかな雰囲気になっていた。周辺の子どもたちが、首から〈かんさつノート〉をぶらさげて満足そうに歩いている。
「朝子、やってみようかな」
「え?」
「一般サポーター。どうやって申し込めばいいのかな」
 わたしはすぐさま印刷物がまとめて置いてあるスチールスタンドを見つけた。そのなかに、〈一般サポーター募集〉のチラシが入っていた。
 手に取って読んでいると、サポーターとは色ちがいの白いポロシャツの男性が通りかかった。眼鏡をかけて、いかにも研究者っぽい佇まいだ。
 父はわたしからチラシを奪い取ると、その男性に話しかけていった。
 それから週に4日、博物館へ通いはじめた。


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