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小説 | フェイス・トゥ・フェイス (2)

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 昼食を済ませたあと、わたしは商店街のお散歩マップのデータ3パターン、A3用紙にプリントアウトして社長が営業部から出るタイミングをうかがっていた。社長はたいてい一時過ぎに、部下より遅い昼休憩に入る。お散歩マップはずっと放ったらかしにされている自社制作の広告で、社長からなにも言われないのをいいことに、自分からデザインを見せにいくこともなかった。しかし、父と暮らしはじめてから、考えが変わってきたのだった。
 父は博物館の一般サポーターをはじめてから、生き生きしてきて肌艶もよくなった。子どもたちの反応や動線など気づいた点をパソコンで箇条書きにし、博物館の上のひとに提出したりしている。ときには煙たがられたであろうが、父は一定の信頼を得たようで、夏休み期間が終わったいまも引きつづき博物館へ通っている。
 社長が玄関に来たところを、さも偶然通りかかったかのように声をかけてみた。
「社長、いまからランチですか?」
「おう。米田ちゃんはまだなの? いっしょに行く?」
 社長は車のキーをチャランと鳴らしながら、靴を履きはじめる。
「わたしはもういただきました」
「そっか、残念」
「社長、随分前になりますが、うちの商店街のお散歩マップをつくってみてっておっしゃってましたよね。それ、どうなりましたか? もう、やらない方向なんですか?」
「ああ」と社長は顔をあげ、腕を組んだ。「それね。ぼくも忙しくて手がまわらなかった。いや、いつかはちゃんとつくりたいと思っているんだけど」
「あの、枠組みだけですけど、デザインを3パターン考えてみました。ぱっとでいいから見てもらえますか?」
 社長の目が、度のきつい眼鏡越しに大きく見開かれる。わたしの積極性に驚いたようだ。
 腋の下からさっと、プリントアウトした3枚の用紙を差し出す。社長は真剣なまなざしで見比べはじめる。数秒考えて、「これがいいかな」と可愛らしいデザインの1枚を持ちあげた。
「米田ちゃん、今日残業できる?」
「はい」
「ぼく、このまま外に出て、帰ってくるのは夜の7時過ぎになると思う。そのあとこのマップのこと、具体的に詰めてみようか。これ見たら、別件の企画とくっつけたくなってきた」
「はいっ!」
 わたしは社長を見送ると、3枚の用紙を胸元に抱えて踵を返した。
 制作部の扉を開けると、スミちゃんが佐田くんの傍らに立っていた。わたしの顔を見るなり、慌てて自分のデスクにもどる。
 ひと月前に、スミちゃんが佐田くんのライブを観にいってあげてから、ふたりの距離は縮まったようだ。たまに「ケイスケ」と、スミちゃんが佐田くんを下の名前で呼んでいるし、デスクの場所が背中を向けあう位置関係のせいか、仕事中もふたりはLINEのやり取りをしている。しかし昼休憩では、スミちゃんは必ずわたしの隣に来て食べる。男に縁がない制作部の年長者の機嫌を損ねてはいけないという配慮なんだろうか。あまりいい気はしなかったが、それに抗うには、仕事を頑張るしかないのだった。
 ふたりの存在を無視するように、わたしは颯爽とデスクについた。キーボードの前に置いていたスマホを手に取る。メールが1件入っていた。
ライスさま
最近、お忙しいのですか?
翔馬がカナダへ行ってから、記事が3回しか更新されていませんね。
寂しいです😢
ヴィオラ嬢
 そうなのだ。父との同居生活がつづき、思う存分パソコンを使えなくなっていた。いっそ、自宅のパソコンを父におもちゃとして与えておいて、自分専用のノートパソコンを買うのもありかもしれない。
ヴィオラ嬢さま
メールありがとうございます。忙しくはないのですが、例の居候の知人がいるせいで、自宅でなかなか記事を更新できないでいます。
ライスより
 送信したあと、「ふふっ」というスミちゃんの笑い声が聞こえてきた。彼女もスマホをにぎって画面を凝視している。さっきまで佐田くんと直で話していたのに、もうLINEなのか。わたしはさらに冷めた気持ちになった。

 社長との打ち合わせで残業したため、アパートに着いたとき、夜の11時をまわっていた。
 玄関の扉を開けると、台所の向こうの六畳間から、腰にバスタオルを巻いただけの父が「お帰りぃ」と声をうわずらせながらやってきた。
 靴を脱いで台所を見ると、担々麺用の肉味噌の入っていたジップロックが、シンクに張り付いていた。寸胴鍋のあるコンロから流し台、床へと、水がびちゃびちゃに飛び散っている。その上に素麺の袋が開封されたまま置いてあった。袋にまだ素麺の束がのこっていることを知り、わたしはため息をついた。
 父は妙にそわそわしていた。卓袱台を見ると、赤茶色く汚れたどんぶり鉢と箸、醤油の小びんが、食べた状態のままになっている。
 デスクトップパソコンが立ちあがっているものの、ブラウザは開いておらず、ファインダーの画面になっていた。キーボードのまわりに、丸められたティッシュが3つほど転がっている。
「朝子は晩飯食べたのか?」
「会社で菓子パン食べただけだけど。お父さん、なんで裸なの?」
「それは  、風呂あがりだから」
「風呂に入る前に自分で素麺茹でて食べたのね。左手が不自由でも、食器を流しに持っていくことはできるよね」
「すまん  
「肉味噌に醤油かけたんだ? お父さんのために、わざわざ薄味でつくったのに意味ないよね」
「肉味噌が味薄いってのも、意味ないと思うんだけどなぁ」
 こめかみがピキピキと音をたてていく気がする。わたしは口の端まで来た悪態を飲み込むように、黙々と食器とシンクまわりを片付けた。 
 父はきまり悪そうにパンツを穿き、テレビをつける。
  朝子。ちゃんと送れないメールがあるんだ。なにが原因か見てくれないか」
「いやだ」
「意地悪言わないで見てくれよ」
「いやだ。そのパソコン、不潔だからもう触りたくない。その汚らしいティッシュ、早く捨てて!」
 父は慌てふためいてティッシュをゴミ箱に片付ける。自慰の後始末もうっかり忘れていたようで、わたしは心底呆れ返った。
「そのパソコン、お父さんにあげる。代わりにノートパソコン買ってください」
「おお。そうしようそうしよう。なにがいい? 朝子はマックじゃないとダメなんだよな」
 父はネットで買い物すらできないようで、わたしはノートパソコン購入のために、結局汚らわしいキーボードを触るはめになった。

ヴィオラ嬢さま
記事の更新、もう少々お待ちください。居候がわたしのためにノートパソコン買ってくれることになりました✌️
これで、スタバでもネットができます。あとはネタの問題です。日本が舞台のとき、色恋ネタはかなりやったので、どういう展開にしていこうか頭を悩ませています。
ライスより

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 翌日、昼休憩にスミちゃんとわたしが弁当をひろげはじめると、佐田くんがはい、とスミちゃんに紙袋を渡してきた。漫画の貸し借りをしているらしい。
 興味なさそうにしていたのに、スミちゃんは「米田さんも読んでみます?」とわたしの前に紙袋を置いた。
「BLものなんですけど、読んだことあります?」
 わたしは首を横に振った。BLものどころか、漫画自体をほとんど読まない。無関心でいるのも失礼かと思い、紙袋から1冊取り出してみた。パラパラとめくってみると、金髪の男の子が黒髪の男の子をじーっと見つめているシーンがあった。
「〈明日はどっちだ!〉って、スミちゃんの漫画?」
「はい。正確には、双子の姉の漫画なんですけど、結婚して実家に置いていったんです」
「スミちゃん、双子の妹さんなんだ。お姉さん、いつ結婚したの?」
「21です」
「スミちゃん、いま、25だったっけ? お姉さん、早くに結婚したんだね。スミちゃんは手に職つけて、バリバリ働いているのにね」
 その年齢で結婚することは、むかしは普通だったのだ。なぜか父の顔が浮かんできた。佐田くんも「面白かったですよ」と薦めてきた。
 数ページ読んだところで、一大発明を思いついたかのような武者震いがわたしを襲った。
「これ、借りていってもいいの?」
 就業時間後、わたしは社長と顔を合わせないよう会社を出て、サンマルクで軽く夕飯を済ませ、借りた漫画を読みふけった。
 小説の今後の展開はこれしかない。〈明日はどっちだ!〉以外にも2冊読み切ったところで、ヴィオラ嬢にメールを送る。

ヴィオラ嬢さま
ネット小説、BLものにしていこうか検討中。やるとしたら、翔馬と誰をくっつけたらいいでしょうか? 外国人選手がいいですよね。
ライス

ライスさま グリーン・クラブはリンクが五つあるのでほかのコーチの門下生もいますし、相手役にはペアの選手なんかが知名度もそれほどなくて狙い目だと思います。ウッド/ハリソン組のポール・ハリソンは、野性美溢れるスケーターなのに噂ではホモだと聞きます。でも、一般的には相方のメアリー・ウッドの恋人だと誤解されてるんですよね。面白い展開がつくれそうじゃないですか?
ところでノートパソコンの件、おめでとうございます🎉
これから記事の更新頻度があがりそうで楽しみです。
ヴィオラ嬢



 【第39話】
 午前10時。基礎練習のあとウェイツ門下生は30分の休憩に入った。
 そのあと、陸トレが待っている。
 喉はそれほど乾いていなかったが、自販機に向かう。
 英語がうまく聞き取れないオレは、こういう時間はひとりぼっちだ。
 自販機手前の角をまがるとき、1、2、3とかけ声が聞こえてきた。
 オレははっと息を飲んだ。
 ウッド/ハリソンペアがリフトの練習をしていた。天井に届かんばかりのTの字。190cm近いポールの片腕に、枝のように細いメアリーがのっている。
 ポールはオレに気づいてにっこり笑った。その場で2回まわる。流れるようにメアリーを床へおろす。
「ハイ、ショーマ。きみもやってみるかい?」
 ポールは黒いタンクトップからのぞく腕に、力こぶをつくってみせる。
「ノーノー、無理だよ」
 馬鹿にしているのだろうか? オレは166cmの身長で体重も52kgしかない。いくらメアリーが小柄だといっても、お姫様だっこが精一杯だ。
「ショーマ、体重何ポンドだ?」
「体重? えっとー、52kgだからポンドで計算すると
  
 ポールが近寄ってきた。オレの脇腹をすっと両手ではさみ、軽々と頭上へ持ちあげた。
 オレはとっさに両腕をひろげる。暴れてバランスを崩したら、かえって危険だった。
 ポールがその場をまわりはじめる。さすがに「やめてっ」と声を出した。
 ポールは腕の力をゆるめ、オレを胸に抱きかかえた。
 きゅん。あれ、なんだろ? 変な気持ち。
 ポールの青い瞳がじっと見つめてくる。オレは体をひねって床へおりた。
「ショーマって本当に細いし軽いよね。きみが女性だったら、ペアのパートナーになってくれって頼んだよ」
 メアリーがそばにいるのに、どうしてそんなこと言うんだろ?
 どういうわけか、オレの胸の鼓動は早まっていった。
「ごめん。ロジャーのところへもどらなきゃ」
 来た道を駆け足でもどった。
 腰のあたりに、ポールの分厚い掌の感覚がのこる。オレは妄念を追い払うかのように、首を左右に振った。

〈ヴィオラ嬢〉
更新待ってました! 39話サイコーです!
腹筋が痛いよ🤣 🤣 🤣 40話が早く読みたいでーす😇

6


「米田ちゃん。先日打ち合わせたやつ、あれからどうなった?」
 就業時間終わり間近に、制作部に社長がやってきた。
 ネット小説の40話の構想は頭のなかで概ねできあがっている。これからスターバックスへ行き、買ったばかりのノートパソコンから記事を更新するつもりでいた。わたしは内心舌打ちする。
「すいません。チケット広告の締切が近かったので、あれ以後、全然進んでないんです」
「ああ、そうなの?」
 社長は目を細めたあと、にこっと笑った。このひとは、決して怒ったりしない。期待できないヤツには常に笑顔で接してくる。
「あのー、じつは父が家出してわたしの部屋に来てるんです。手が不自由なんで、早く帰っていろいろ世話しなくちゃならなくて」
「へー、いつから?」
「三カ月ほど前です」
「そんなに前からだったんだ。家出って、お母さんとなにかあったの? 離婚調停中とか?」
「そんな大げさなものでは  。退職してから家でずっと顔付き合わせて暮らすのが、父も母も耐えられなくなったようでして。わたしだったら朝から晩まで会社に行ってるし、気が楽みたいで居座られちゃいました」
「そっかー」社長はネクタイのゆがみを直しながら、からだをスミちゃんの方へ向けた。「遠野くん。いまやってるチラシ、いつが締切だった?」
 スミちゃんは、くるっとパソコンチェアーごと振り向いた。
「明後日です」
「わかった。それ終わったら、また相談するわ」
 社長が制作部を出ていったあと、わたしは会社のパソコンの電源を落とした。「おさきー」

 会社を出てからも、スタバでパソコンを取り出してからも、うしろめたい気持ちが付きまとった。ついに、父を言い訳のダシに使った。スミちゃんたちも知っていることだし、決して嘘ではないから、良心の呵責は多少薄められてはいる。が、社長の期待を今回も裏切ったことにかわりはなかった。
 最初に取った席はガラス壁の前だった。外から丸見えだ。もし営業さんにでも見つかったらと思い、ひと目のつかない奥へと移動する。
 こんなことまでして書きたいネット小説ってなんなのだろう?
 ドラッグやアルコールなど、からだに悪いとわかっていても手が伸びてしまうひとって、こんな感じなんだろうか。
 40話の記事をアップロードすると、10分もしないうちにコメントがついた。ヴィオラ嬢からだった。

今回も笑わせてもらいました🤣
ウェイトトレーニングでポールの胸の筋肉にドキドキする翔馬がカワイイ😄もっと過激なBLになっても、わたしはついていきます!

7

 
【第42話】
 ジリリリリリ。非常ベルのような呼び鈴の音。
 このコンドミニアムに来て、はじめて鳴らされた気がする。
 オレはカーディガンを羽織り、ベッドを出た。
 玄関のドアを開けると、ポールが立っていた。紙袋を抱えている。
「ショーマが風邪で練習休んでるって聞いたんだ。しかも、きみのお母さんは日本に一時帰国してるんだって? 食料品買ってきたよ」
「それは、どうもありがとう」
 ポールが室内に入ってきた。はじめてなのに、何度も来ているような自然な感じだ。キッチンへ躊躇いなく向かっていく。
 シンクに洗い物がたまっている。オレは焦った。
「ごめんよ。片付けができていないんだ」
「気にしないで。ぼくは今日、きみをお世話しにきたんだから。ところで、夕食はなにか口にしたかい?」
「ノー」
「じゃあ、お粥をつくってあげよう。日本式じゃなくて、北米式だけど構わないかい?」
「どういうやつ?」
「グリッツっていうトウモロコシの粉のお粥さ」
 正直なところ、食欲がなかった。ポールの好きにすればいい。希望を言う気もなくなっていた。
 ベッドのなかで20分ほど待っていると、ポールが鍋と砂糖の容器とミニボウルを運んできた。鍋の蓋を取る。白くてドロドロしたものが湯気越しに見える。
 ポールはグリッツをミニボウルに取り分ける。ねちゃねちゃ混ぜたあと、砂糖をザザッと振りかけた。オレは一瞬目を見張った。
「ほら、おいしいから食べてみなよ」
「ごめん、ぼく、猫舌なんだ」
 砂糖の入ったお粥なんてとても口にする気にはなれない。
 しかし、ポールはグリッツをひと匙掬うと、ふうふうと息を吹きかけた。
「冷ましてくれてありがとう。でもこれ、なんだかアレを想像しちゃうんだ」
「アレって?」
  男の、白い、アレさ」
「ああ」ポールはくすっとほほ笑んだ。「ショーマは男のアレ、飲んだことある?」
「な、ないよ! 飲みたくもない」
「ぼくは、ショーマのアレ、飲んでみたいな。ねぇ、パンツを脱いでごらんよ。気持ちよくしてあげるよ」

 朝方、低く金属がこすれた音のあと、ドシンと床から振動が伝わってきて目が覚めた。父が玄関から出ていったのだろう。台所を水浸しのまま放置されるのは、片手が不自由だからという理由で目をつぶってきた。けれど、玄関くらいはそっと締めることができるだろう。頭は半分眠りながらも怒りが込みあげる。
 充電中のスマホに手を伸ばす。何時なのか確認したかった。コンセントを引いてたぐりよせ、頭上でスマホを開く。まず目に飛び込んできたのは、時間ではなかった。コメント欄に82件という通知にぎょっとした。
 昨晩の記事の更新から、一夜にして最新話にこれだけコメントがついたのだろうか? おそるおそるメールを開いてみた。そのなかの1件目を見て、頭と目が一気に冴えた。
〈荒らし〉の到来だった。熱狂的な翔馬ファンがついにnoteを攻撃してきたのだ。
 グリッツという食べ物は、随分前にヴィオラ嬢が教えてくれたものである。もちろん卑猥なものとしてではなく、食の細い堀翔馬がカナダ人に勧められたグリッツを食べられなかったというエピソードとしてだが、わたしなりに小説に生かすとあのような話になったのだ。最近記事の更新が円滑にできるようになったので、調子に乗っていたのかもしれない。
 スマホを畳の上に投げ出して、頭まですっぽり布団をかぶった。こうしているうちにも、ヤブ蚊が集ってくるように次々と通知が来ていると思うと、いてもたってもいられない。もう一度、スマホに手を伸ばし、メールは見ないようにしてnoteを開けてみた。コメント欄は、刺々しい言葉の数々で埋め尽くされていた。糞ビッチ女、勘違いキモオタ、死ネ死ネ死ネ死ネ  
 とうとうやってしまった。鬱陶しさが胸元から首筋へと蛭のようにびっしりくっついて、顔へと這いあがってくる。ため息を連続で何回もついた。落ち着かないので布団を片付けて朝食の準備をしたが、まったく食欲が湧いてこなかった。
 父が早朝散歩から帰ってきた。わたしの顔を見るなり、「朝子、どうした?」と声をかけてきた。
「朝早く部屋を出るのは勝手だけど、ドアは静かに締めて」と言ってみるが、声に力が入らない。からだの具合でも悪いのか、と父がさらに心配してくる。それも煩わしくなって、わたしはいつもより1時間早く自宅を出た。

 会社には一番早くに出勤した。気を紛らわそうと、掃除機をかけるのと屑入れの中身の収集だけでなく、雑巾がけやら収納ラックの整理まで丹念にやってみる。
 スマホを確認すると、新着メールは78件あった。その中にはヴィオラ嬢からのメールも届いている。

ライスさん
コメント欄が大変なことになってますよね?
5ちゃんねるにライスさんの記事のアドレスが晒されてます😨
堀翔馬には強火担も多いから、一旦noteを非公開にされたらどうですか?
わたしも5ちゃんねるの様子を見ておきますね。無理にリプしたりすると、ライスさんが疲弊するだけですから、ここはわたしに任せてください。
ヴィオラ嬢より

 持つべきものは友だと思うと、温かいものが込み上げてくる。わたしは泣きそうになりながら、ヴィオラ嬢へお礼のメールを返した。
 9時半に朝礼がはじまり、制作部の人間も営業部の部屋に呼ばれた。今日の仕事の予定について、社長が営業職の社員を中心に訊いてまわった。
 朝礼がお開きになったあと、わたしと佐田くんは社長に呼びとめられた。手書きのメモを渡される。
「米田ちゃん。このアンケートすぐにつくって。それを200枚コピーして」
「なんのアンケートでしょうか?」
 メモを斜め読みするかぎり、地域限定の女性向けアンケートのようだ。路上調査みたいなことを、これからはじめるのだろうか。
「チケット広告入稿したあとだから、今日は暇だろう? このアンケートは、例の、米田ちゃんが手がけてくれている地元商店街マップの企画として使う。あのマップ、いっそのこと薄い冊子にしてしまおうかと思ってるんだ。佐田くんとふたりで、アンケート取ってきてよ」
 モリ企画は社員がチラシ配りまでするちいさな会社だ。noteの記事が荒らされた今日、パソコンの前から離れられることになって、気分的には楽になった。

 お昼休憩後に、わたしと佐田くんは、商店街のひと通りの多そうなところでアンケートを取ることになった。佐田くんが、その付近にある緑の庇をつけた喫茶店を一瞥したあと、振り返った。
「どうかしたの?」
「米田さん、おなじ場所で、ふたりでアンケート取っても意味ないと思いません?」
「それもそうだね」
「ぼく、スーパーの近くでアンケート取ってきます。米田さんは、ここでお願いします」
 いつもは愛想のない佐田くんが、爽やかに手を振り去っていった。
 彼がいなくなったあと、さっそくわたしは道行くひとに声をかけていった。バインダーごとアンケート用紙を差し出して、その場で記入してもらう。アンケートの内容は4項目。紙面を見て、急いでますと去っていくひともいる。社長の思いつきとはいえ、なかなか根気のいる仕事だった。
 3人ほどアンケートに答えてもらったあと、ポケット内のスマホが振動した。記事を非公開にしてから、はじめてのメールだった。差出人はヴィオラ嬢だ。

5ちゃんねる、ますますヒートアップしています😱
誰かが第42話をコピペして、そのあとにライスさんへの批判がつづいてるんです。素晴らしい小説なのに、こんなことで読者が減ってしまうのが残念で仕方がありません。 ヴィオラ嬢

ヴィオラ嬢さま
いま外にいるので、ネット上でどうなっているのか把握できておりません。
まだまだ危険な状況なんですね。教えてくださって本当にありがとう。
進展がありましたら、いつでも知らせてください。 ライス

ラジャ!

 ヴィオラ嬢は30分に1回ぐらいのペースでメールを送ってきた。なかには5ちゃんねるに書かれた、どぎつい内容をコピペして送ってくる。読んだところで気持ちが萎える一方だったが、向こうも親切で知らせてくれるので、わたしはいちいち返信していた。当然のことながらアンケート調査は進まない。
 3時をまわった。メールを打ちながらも行き交うひとに視線を送っていると、前の喫茶店の扉が突然開いた。そこから出てきたのは  、モリ企画の社長だった。
 わたしは自分の置かれた状況をすぐに把握できずにいた。社長はにこにこしながら、まっすぐこちらへ向かってくる。
「米田ちゃん」
「はいっ」
 なにも申し開きができない。社長はスマホをにぎるわたしの手元を見ている。「すいません」と口をついて出てしまった。そう言ったあとで、父の病気を理由にすればよかったと後悔する。
「アンケート何人取れたの?」
「7人です」
「ふうん。すくないね」
「申し訳ありません」
「制作部は営業が帰ってくるまで暇なときもあるだろうし、携帯いじってようが干渉しなかったけどさ、ここ、外だよ。ずっと携帯いじってるひとが仕事してるように見えるかな? 見えないよね? ティッシュ配りのアルバイトが、携帯いじってるところ見たことある?」
「ありません」
 うなだれるしかなかった。わたし、完全にどうかしている。荒らしが来たことで、常識がどこかへ吹っ飛んでいた。
「参ったなぁ。米田ちゃん、いつまでも学生感覚なんだもの。制作部では1番年上なのにね」
 社長がその場を去るまで、顔をあげられなかった。

 自宅に帰ったとき、父はどんぶり鉢を卓袱台に置いて、スプーンで親子丼を食べていた。電子レンジで温めたあとのジップロックの袋が、卓袱台の上に放置されている。周辺は汁だらけだ。
 低い棒読みの「ただいまー」のあと、父が眉根を寄せて、わたしの顔を見あげた。
「なんだ、やっぱり元気ないな。会社でなにかあったのか?」
 わたしは黙って冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出した。とぷとぷとコップに注ぐ。
「失恋でもしたのか? どんなヤツだ? 会社の人間か?」
 これ以上答えないでいると、もっと変な誤解をされそうだった。お茶で喉を湿らせたあと、わたしは仕事の失敗と辞職をほのめかした。
 7時台に帰ってきたのに、空腹感はなく、疲労感だけがある。父の食べた食器を片付け、シャワーを浴びたあと、わたしは布団を敷いて横になった。
 父がパソコンを立ちあげ、薄暗い部屋のなかで白い光を放ちつづける。
 わたしは社長に言われたことと、荒らしのことがいつまでも頭から離れなかった。
 あとでブラウザの履歴を調べると、高校の同窓会掲示板に、娘が転職したいらしいので、どなたか仕事を紹介してくれませんかという父の書き込みがあった。そこには、わたしの卒業した大学名と、デザイナー経験あり・パソコンスキル上級者とまで書いてあった。


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