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パラリンピック日本代表強化指定選手に選ばれました!

8月、noteにて2022年北京冬季パラリンピックへの出場を目指すことを書かせていただきました。

そして先日、「日本代表の強化指定選手」に選出いただきました!

人生で初めて、日の丸を背負い、世界と勝負できるスタートラインに立たせてもらいます。目指すは北京。そしてイタリアのコルティナ、その次は札幌?(現在招致合戦中)。2030年までは必ず現役で金メダルを目指します。そして1月19日、ヨーロッパカップが今シーズンの初戦です。スイスで戦ってきます!


本当に嬉しいです。まさかもう一度スキーができる日が来るなんて思わなかった。そしてまさか、10代で諦めた世界への挑戦をもう一度スキーの世界でできると思わなかった。パラリンピック出場は、突拍子もないただの物語ではなくなってきました。

実は、先日のnoteを書くまでに自分なりの苦悩がたくさんあったのでその事を少しだけ書かせてもらえたらなと思います。(そしてこのnoteは、26年間、関わって下さった皆様への感謝のラブレターです)

僕とスキーの出会いを遡ると3歳。両親によくスキー場に連れて行ってもらい、そこからスキーをするようになりました。中学の時には、スキーのレーシングチームに入り、中学ではスキー部をつくらせてもらいました。中高エスカレーターだったのでそのまま高校に進学して、そのままスキー部に入りました。

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高校は入学して早々に1年間アメリカのウィスコンシンに留学したので、スキー部も1年間の休部。そして高1から高2に切り替わるタイミングで3.11の東日本大震災が起こりました。


アメリカ留学と3.11を境にそれまで生活の全てをスポーツ一辺倒で暮らしてきた僕の中に大きな変化が訪れました。自分がスポーツで世界一になることよりも人生をかけて世の中をより良くするために時間を使いたい。そんな想いを持つようになりました。

高2で日本に戻ってきてスキー部の主将を任せてもらっていたのですが、課外活動と大学受験をしたいという気持ちが先行し、退部させてもらうことになりました。主将なのにも関わらず退部させてもらい、同期や後輩にたくさん頭を下げました。これはいまだに自分の中で子供だったなと後悔があります。こんなことがあってもいまだに連絡をくれて、先輩と慕ってくれる後輩がいることには本当に頭が上がりません。

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部活を辞めた後は一心不乱に課外活動と大学受験に励み、大学入学後は事業をつくることが世の中をより良くする道への近道であると決心し、会社を経営してきました。今も尚、当時の気持ちを忘れることなく「社会の公器」となる事業をつくると社内で声を大にして発しています。

そして、以前にも書いたような炎上が起こりました。

起業家として結果を出すことが不義理をしてしまったみんなへの唯一の背中の見せ方だと思っていました。そして自分にはもうこの道でどんなことが起きても這いつくばって、結果を出して、それをみんなに見てもらうしかない。その為に猪突猛進してきました。


しかしその翌年、21歳で脊髄損傷を負いました。
いまだに不慮の事故からの10日ほどの記憶はすっぽりと抜けています。ふと目を覚ました時にはもう、下半身は動きませんでした。

病室の天井の白い壁をずっと見つめていました。当時のメモを見ると「もう一生この景色なんだろうな」そんなことを書いていました。

ある日突然車椅子になり、自由に移動すらできない。もう挑戦なんてできる体じゃない。こんな状態で生き続けていても誰にも恩返しすらできない。自分の生き様を見せることもできない。毎日絶望感でいっぱいでした。自分は何のために生きていけばいいのか、わからなくなったのです。

病院は、大きな幹線道路沿いにありました。
夜、病室を抜け出しては幹線道路の側まで行きました。あと車椅子を1回まわせば、楽になれる。もういいかもしれないな。そんな気持ちでした。


それでも入院期間中、ほぼ毎日誰かがお見舞いにきてくれていました。先輩、後輩、友達、家族。中には、直前に打ち合わせしてた子を一緒に連れてきたという謎なお見舞いもありました笑(もちろん僕はその場が初対面)お陰様でその子とはいまだに良き友達として飲みに行ったりしています。多くの友達に支えられ、醜くても、ダサくても、かっこ悪くても、それでも前を向いて生き続けて行かないと。と思わせてもらいました。当時お見舞いや電話、メールをくれた皆さん本当に本当に、ありがとうございました。全てに支えられました。

ある日、スキー部の後輩が病室にきてくれました。彼がふと「大和先輩、きっといつかスキーできる日来ますよ。また一緒にスキー行きましょうね。」と言い残して帰って行きました。
きっと彼は覚えていないと思いますが。
17歳でスキーから離れ、正直ブランクが空いてスポーツの世界で現役に戻るのは到底無理なことです。それでも、いつかまた歩けるようになってスキーやりたいな。その想いがひとつの光のように心に差し込み、リハビリの励みになりました。

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(背中の上から下まで入っていた金具です。長い間体に入っていたのでいまだに大切に自宅で保管してます)

そして寝たきりから車椅子、松葉杖を経て、補装具なしで歩ける状態にまで回復しました。酒向先生、樋口さん、間野さんを中心とした理学療法士の皆さんの支えがなければこんな日が来るとは夢にも思いませんでした。


退院し、2018年の平昌冬季パラリンピックをふとテレビ越しに見ました。

片脚で滑るスキー選手がいました。


今も可愛がっていただいている三澤拓選手です。
片脚で滑る彼は正直両脚で滑っていた自分の現役時代よりも綺麗な滑りをし、スキーヤーとしてお手本のような滑りです。

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自分がどこまでやれるかはわからない。でも片脚で滑る彼を見たときに、左足の麻痺が残った僕もスポーツの世界でもう一度夢を追ってもいいのかな。とふと思ったのです。

ただ現役から離れて6年。体はアスリートとは程遠い。まずは基礎体力をあげて、健康的な成人男性に近いレベルまで持って行こう。そう思い、友人のトレーナーである星野雄三さんをマンションへ呼び、共に暮らしながら体づくりを見てもらうようになりました。(30代前半・20代後半の独身男性のガチムチ生活いつもありがとう)

それから毎日は、もう必死のトレーニングです。
正直きつくて、やめたいな、休みたいなと思う日もありました。トレーニングをしていても昔のように体が動かず、歯痒い思いばかりでした。

でも、その度に昔スキーをやっている時に見える景色が目に浮かぶのです。


一面の白い世界の中、山から見下ろしながら一気に駆け下りる。頭の中はクリアになり、耳は研ぎ澄まされる。自然と体が一体化し、ひとつの風になったかのような気分になります。


スキーが好き。早く大きな舞台で滑りたい。
その気持ちだけで、トレーニングを乗り越えてきた気がします。それから徐々に体も仕上がり、スキーをきちんとできるレベルまで到達することができました。


僕の挑戦は、ここからです。
コロナウイルスの影響でヨーロッパで開催予定だったレースがたくさん中止になっています。これは、2022年の北京パラリンピックまでに世界ランキングを縮める機会が減ってしまったということです。かなり厳しい状況です。

それでも、26年間生きていて今が1番楽しく幸せです。早朝1番乗りでリフトに乗り、綺麗なスキー場を滑る。ああ、この瞬間をまた経験できるなんて。本当に生きていてよかった。たくさん辛いことがあると思います。たくさん思い通りに行かないことがあると思います。死んでしまいたくなることがあると思います。それでも前を向いていたらいつか、晴れの日が訪れる。


何度失敗しても、その度に立ち上がればいい。そう思います。まだまだ人生捨てたもんじゃない。絶対に世界一になる。皆さんと共に。


P.S
会社経営とアスリートの二刀流は、とてもハードです。それでも会社では役員・社員が背中を押してくれ挑戦できています。スキーでは、コーチやトレーナーさんが会社経営のスケジュールを考慮してくださり練習に打ち込めています。一生かけても返せるかわからないサポートをしてもらっていますが、僕は必ずやり抜きます。皆さんの力を麻痺した左足に乗せさせていただき、突き進んで行きます。


本当に本当にいつもありがとう。


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