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新約聖書は、2世紀前半に現れたマルキオンの異端主張に対抗して成立したもの。【アシモフの雑学トリビア・豆知識】


当時、新約聖書は未編纂で文書が散在していた為、キリスト教会は新約聖書の正典を確定する必要に迫られ397年まで議論が続いた。この過程で現代キリスト教の基盤となる新約聖書が形成されたという背景がある。


マルキオンは、2世紀前半にローマで活動したキリスト教の指導者であり、彼の教えは後に「マルキオン主義」として知られるようになった。マルキオンは、旧約聖書の神と新約聖書の神を異なる存在と見なす異端的な主張を行った。彼は旧約聖書の神を厳格で復讐心に満ちた存在とし、新約聖書の神を愛と慈悲の神として対比した。

マルキオンは、自身の教えに基づいて独自の聖書を編纂した。彼の聖書は、旧約聖書を完全に排除し、新約聖書の一部だけを採用したものであった。具体的には、ルカによる福音書とパウロの書簡を重要視したが、それらもマルキオンの神学に合致するように編集されていた。

マルキオンの教えは、当時のキリスト教会に大きな衝撃を与えた。彼の異端的な主張に対抗するために、キリスト教の指導者たちは、新約聖書の正典を確立する必要性を感じた。これにより、福音書、使徒の働き、パウロ書簡、そしてその他の使徒的な書簡が新約聖書の正典として認められるようになった。

このプロセスは一朝一夕に行われたものではなかった。キリスト教会は、さまざまな地域で異なる文書が用いられていたため、どの文書を正典とするかについて議論が行われた。しかし、マルキオンの異端主張に対抗するために、教会は一致して正典を確立する努力を続けた。

このようにして、新約聖書は、キリスト教の教義を明確にし、異端的な教えに対抗するための重要な手段として形成された。マルキオンの挑戦がなければ、新約聖書の正典は異なる形をとっていたかもしれない。歴史の流れの中で、異端と正統の対立が新約聖書の形成に大きな影響を与えた。

参考資料

Wikipedia

マルキオン(Marcion, 100年?-160年?)は2世紀のローマで活動した小アジア(現トルコ)のシノペ出身のキリスト教徒。シノペのマルキオン(ギリシア語: Μαρκίων Σινώπης)とも呼ばれる。

聖書の「正典」という概念を初めて提唱し、自らの基準に基づいて独自の「聖書正典」を作成した。マルキオンの思想にはパウロへの強い傾倒とグノーシス主義の影響が見られる。彼は教会によって異端とされたが、その思想を支持する人々はローマでマルキオン派という独自の教会を結成し、後に数世紀にわたり存続した。エジプト、メソポタミア、アルメニアにまで広まったとされる。

生涯と思想
マルキオンは小アジアの黒海沿岸のポントス付近の都市シノペの出身で、職業は船主であった。司教であった父と対立し出奔、小アジア各地を経てローマに至る。ローマの教会に私財を寄付して受け入れられたが、やがて対立し、その思想が正統なものでないと判断され、144年の教会会議で破門された。これにより、マルキオンはローマで独自の教会を設立するに至った。彼の創設した教会はマルキオン派と呼ばれ、初めはローマで盛んになり、その後各地へ分散して長く存続した。

マルキオンは異端とされたために教会による焚書が行われ、著書は現存していない。しかし、彼の思想は彼を反駁した神学者たちの資料から推測可能である。マルキオンに反駁した神学者としては、ユスティノス、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、オリゲネスなどがいる。特にテルトゥリアヌスの著作『マルキオン反駁』が重要である。

反駁者たちの文章から推測されるマルキオンの思想は以下の通り。まず、イエスはユダヤ教の待ち望んだメシアではなく、まことの神によって派遣されたものである。ユダヤ教の期待するメシア像は政治的リーダーで異邦人を打ち破るという要素が含まれており、マルキオンにはこれが誤りと映った。また、神が人間のように苦しむはずがないとし、イエスの人間性を否定した。この考え方を仮現説(ドケティスム)という。

さらに、マルキオンは旧約の神(世界を創造した神・律法神)を怒りの神、嫉妬する神、不完全な神と見なし、旧約の神が作った世界は苦しみに満ちていると考えた。一方、イエスの示した神は旧約の神とは異なるまことの神、いつくしみの神であるとした。このため、マルキオンはキリスト教徒にとって旧約聖書は不要と考え、自分たちのグループのために必要な文書のみを選択しようとした。これがキリスト教史における最初の正典編纂作業である。マルキオンは福音書の中でルカによる福音書のみを選択し、新約聖書の諸文書の中では特にパウロの手紙を重視した。マルキオン正典には以下の文書が含まれていた。ただし、どちらもオリジナルをそのまま採用したのではなく、マルキオンが手を加えて改変したものであった。

  • ルカによる福音書

  • パウロの手紙(テモテへの二つの手紙とテトスへの手紙を除く。ただし、これらをマルキオンが知らなかった可能性がある)

このようなマルキオンによる正典の編集への反動として、2世紀以降、キリスト教内でも新約聖書の正典編纂の動きが推し進められた。

マルキオンにはグノーシス主義的な傾向が見られる。彼の思想には物質の世界を悪とし、それとは別の霊的世界を想定する二元論が見られる。この二元論はグノーシス主義の特徴を示しており、マルキオン自身がグノーシス主義に含まれると考えられることが多い。ただし、キリスト教グノーシス主義諸派の特徴として、創世記の独自な解釈や啓示に基づいて様々な福音書を創作する点があるが、マルキオンは逆に正典を極端に限定して捉えた。また、認識(グノーシス)ではなく信仰を重視した。このため、グノーシス主義とは区別すべきとする研究者もいる。

マルキオンに関する著作としては、神学者アドルフ・フォン・ハルナックが1921年(第2版1924年)に出版した『マルキオン:異邦の神の福音』(Marcion: das Evangelium vom fremden Gott)が今日でも基本文献である。

「新約聖書」の誕生:加藤隆/講談社(1999)

新約聖書が成立したのは、キリスト教の歴史のなかで特殊な状況が存在したからである。その歴史的に特殊な状況とはどのようなものなのか。そして新約聖書が成立して以来、新約聖書が権威あるものとして存在することが当然のように考えられているとするならば、そのような事態を当然のこととする特殊な立場が新約聖書をめぐって存在していると考えねばならないだろう。その特殊な立場とは、どのようなものなのか。
新約聖書はキリスト教にとって、この上なく重要な文書集である。しかし新約聖書が現在のものに見合うような形で成立したのは紀元四世紀のことである。地上のイエスが活動をはじめたのは紀元一世紀の前半であり、その後キリスト教運動は紆余曲折を経ながらも、地理的にも人数的にも拡大した。多くの者がキリスト教徒となり、さまざまな活動を展開して、その帰結の一つとして新約聖書が成立したのである。しかしこのことは四世紀になって新約聖書が成立するまでのキリスト教徒には、新約聖書は存在しなかったことを意味する。つまり新約聖書がなくても、彼らはキリスト教徒だったのである。
三〇〇年ほど存在しなかったものが、大きな権威あるものとして存在するようになったのである。したがってキリスト教徒にとって新約聖書の存在は当然のことではなく、いわば特殊なことである。つまり新約聖書が成立したのは、キリスト教の歴史のなかで特殊な状況が存在したからだということになる。その歴史的に特殊な状況とはどのようなものなのか。そして新約聖書が成立して以来、新約聖書が権威あるものとして存在することが当然のように考えられているとするならば、そのような事態を当然のこととする特殊な立場が新約聖書をめぐって存在していると考えねばならないだろう。その特殊な立場とは、どのようなものなのか。
(中略)
本書では、キリスト教における権威の問題に注目しながら、新約聖書がどのような意味で特殊な文書集なのかを探ってみたい。新約聖書の頁をめくって、内容を断片的に読んでいるわけではわからない新約聖書の姿が見えてくることになるだろう。(プロローグより)


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