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三浦綾子作「井戸」を読んで


この短編を読んでまず感じたのは、世間一般の人間というのは、ここまで醜いものだろうか? そんな疑問だった。


もしそうだとすれば、ぼくは四十七歳にもなるのに、どれほどウブで、間抜けでお人好しで――つまりはバカなんだろうと思った。

五月に結婚を控えた主人公の真樹子は三十七歳。
彼女はある冬の午後、病気の友を見舞うため乗った電車で偶然、二十年ぶりに旧友と出会う。

真樹子が旭川から向かうのは、同じ北海道の名寄(なよろ)だ。
加代はその地に暮らしているとのこと。家に泊まってゆきなさいと言われ、その人のその後を知りたいという気持ちも手伝い、誘いに乗ることにした。

加代の隣家に暮らすという中学二、三年くらいの男の子が一緒だったのはなぜだろう?

加代には中学生と高校生の素直そうな子どもがいるし、どう見ても心底愛し合っているとしか思えない亭主もいる。世の中を小バカにしたようなかつての少女も、世間並み以上の幸せを手に入れたらしい。

かつて井戸にタンを吐いたその人とは思えないほどの変わりように心底安心した。いやそれどころか夫婦愛の深さに感動すら覚えるほどだった。

しかしその夜、真樹子はこんな話を聴くことになる。加代は結婚した理由をこう口にしたのだ。

「一目見て、ああこの男なら、人が好さそうで神経が太そうで、わたしがむかしの恋人にせっせと手紙を書いたとしても、金輪際気のつきそうもない人間だわ。わたしの心の中まで踏み込むことのない人間だわって、そう思ったから結婚することに決めたんだもの」

 続けて言う。

 私には愛人が三人ほどあると。真樹子はウソだと思う。けれど明くる朝、加代が、夫もよく知る男と情事にふけるのを見てしまう。加代はふすまをそっと閉じた。ふすま一枚隔てたすぐ隣で、朝っぱらから旧友の喘ぎ声を聴いてしまう。夫がまだ近所を歩いているさいちゅうにである。

真樹子は立腹し、男が外に出ていってから問いつめる。

「いったい加代ちゃんは、そんな自分が恥ずかしくないの?」と。


加代は弁解する。

「なにも真樹ちゃんが怒ることないわ。あんたに迷惑かけてるわけじゃないもの」

真樹子は追い打ちをかけるように言う。

「そんな自分が恥ずかしくないの?」と旧友の心に切り込む。そうしてもう帰ると告げる。が、

「なにを怒ってるの? おかしな人ね。十時半から中学校のPTAに出かけるので留守番してて」とお願いごとまでする始末だ。

「午後から、入院しているお友だちのお見舞いにいくといいわ。よかったらもう一晩泊まっていってよ」と。


加代はそのまま真樹子を放置して出かけてしまう。

そこに玄関の呼び鈴が鳴る。玄関には昨日の電車の中で加代と一緒にいた、隣に暮らす中学生が立っていた。

「いる?」と訊く。

 誰のことかわからずに、
「いないわ。学校にいったわ」と答える。子どもの友だちかとも思うようだが実は違う。ラストで暗に匂わせる形で終わるが、この子も加代の愛人の一人なのである――。

真樹子は午後から入院している友人を見舞う。本来の目的を一日遅れで済ませる真樹子であったが、その友人が末期ガンだと知る。もう一晩、加代の家に泊まることになる。

加代は得意のギターをかき鳴らし、我が子と一緒に歌なんぞ歌っている。本当に幸せそうに、子どもたちは母親の裏の顔も知らずに一時間も楽しんで自室に退いた。

真樹子はこう質問する。

「加代ちゃんは、ご主人を愛していらっしゃるの?」

「愛?」そう問い返し加代は噴き出す。

愛ってなによ? どうして結婚したら夫以外の男と遊んじゃダメなの? 減るもんでもないのに。真樹子につめ寄る。

そうしてそんなもの信じていないと。愛だけでなく、この世の一切を信じていないと断言した。


予定通り五月に真樹子は結婚する。
その十日も経たないうちに末期ガンの友人が亡くなったと知らせが届く。
真樹子は新婚旅行直前に発熱し、結婚後初の夫婦旅行は亡くなった友の葬式となった。

しかし人というのは勝手なものだ。真樹子でさえも例外ではない。
名寄までの二時間のドライブが楽しくて楽しくてならなかった。

上機嫌で葬儀後は加代のお宅に二人で顔を出してみようかと考えるほどだった。そうして葬儀場に着き、急激に楽しさは消えた。当然と言えば当然だが。

定刻を三十分ほど過ぎて、若い僧を連れた僧侶が現れる。

そのとき僧侶が迎えに立った帳場の者に伝えるのを、真樹子は聴いてしまった。旧友の加代が、愛人の一人である、あの隣家の中学生に刺殺されたと――。

小説の世界はだいたい勧善懲悪にできているのだからこういうラストになったが、実際には心の醜い人々が世の中を牛耳り、当然政治の世界も常に腐敗しきっている。

醜い汚い人間どもがのさばり時代を作ってゆく。歴史というのは、だから腐った血液のようにドス黒く流れてゆくのだ。人が全員滅びるまで、世界は汚いままだと思った。

そんな世の中だけでなく、自身の醜さまでイヤになって、作者の三浦綾子はクリスチャンになったのだろうか?


彼女の本心が知りたいところだが、彼女が他界してかなり長い。


日記でも出てきたら読んでみたいけれど、本当の本音は誰も、一生知ることがないのだろうきっと。


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