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たやすみなさい/岡野大嗣 読書記録#39

 この本に収めた短歌に主体があるとするならば、かつて湧き上がって折に触れて思い出す気分、その気分の背景にある時間と光景だ。知らないのに覚えがある、知っているのに覚えはない。今なのに昔、昔なのに今。見知らぬ誰かと誰かの間に静かに横たわる、時間と光景のささやかな差異を歌えていることを願う。

あとがき

 「気分の背景にある時間と光景」を、五七五七七の結晶にして残しておける、それが短歌の良いところだと思う。
 個人的に好きだった歌をいくつか引用して語ってみます。

バースデイ 最初の「おめでとう」を聞く洗面台の鏡の前で

 誕生日に、いちばん最初にもらう「おめでとう」の言葉って、何だか特別な気がしませんか。そんな「おめでとう」を、鏡に写る自分につぶやく。それは寂しい景色のようでいて、静かな自己肯定の明るさを持った瞬間だと感じました。

アカウント名で呼び合う関係のまま海に来て名前を話す

 友達とも見知らぬ人とも違う、インターネット上の本名を知らない関係性。その微妙な緊張感をはらんだ関係のまま、ふたりは海に来た。そして初めてほんとうの名前を打ち明ける。
 なんとなく、朝凪の海の情景が見えたような気がしました。何気ない出来事のようでいて、光る水面のようにきらきらとした一瞬だったのではないか。現代的かつ詩的な歌だなぁ、と。

人間はしっぽがないから焼きたてのパン屋でトングをかちかち鳴らす

 何故人間は、パン屋のトングをかちかちと鳴らしてしまうのか。その長年の謎が解ける瞬間。それは犬が嬉しくてしっぽをふるのと同じ理由だった! 焼きたてのパン屋、無条件にうれしくなってしまいますもんね。不思議と腑に落ちました。

 しっぽといえば。この歌集には犬を描いた歌も多くあります。以下に挙げるのは、その中でも「もういない犬のうた」というべきものたちです。

写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい

写ってる犬はとっくに居なくって抱いてる僕はほんとうに僕?

母犬がGoogleマップに写ってる 写ってるよって子犬に見せる

 ぎゅっと切なくなるけれど、犬をうたうその手つきは確かに愛の証を示している。
 扉のイラストや挿画にも犬が多く描かれていて、作者の犬に対する思い入れの深さを感じます。

春を背景に撮ろうとした犬がリードの先でぼくをみる春

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