ことばと不確かさ
言葉はどこまでも不確かで、どこまで突き詰めても矛盾と暗闇を孕んでいる。何かを伝えようとしても、伝わるのはことばの持つ外側の響きだけで、伝えたいことなど結局伝わらない。それでもこうして頭の中に浮かんでいる言葉をつなげて文として構築していくのはなぜか。
伝わらないことを知っていながら、身を削って言葉を紡ぐのはなんの理由があってなんの意味があるのか。口に出した途端、文字に起こした途端に、私の中からは離れていってしまう言葉たち。時には誤解を招き、齟齬が生じ、それでも誰かに届かんとする健気な言葉たち。
そういえば江國香織は言葉を全面的に信頼しているというようなことを言っていた。果たして言葉は、どこまで信頼していいのかしら。
頭の中身は、言葉によく似ていて、しかし全く違うもので溢れかえっている。あーそういえば池田晶子も同じようなことを言っていた。これは私の思想?それとも池田晶子のことばが私に溶けたの? どちらも同じことか。
このことばたちは外界の空気に触れることなく、いつまでも渦を描き続けるだけで、どこへも行かない。どこにも行けない。私の頭の中から出ることのできないことばたちを抱え込むには容量が足りなすぎる。だからことばを仕方なく言葉にして文章にしようとする。それでも結局一方では、頭の中に果てしなく続くことばの連鎖。その道筋を辿っていくには相当な労力が必要で、整理するには散らかりすぎているけれど、確かにそこに在ることば。伝えたいけれど、伝えようとしたら汚されてしまう。汚されるけれど、伝えたいと思う。どこまで進めば、世界はテレパシーを確認できるのか。
テレパシー。現存するものの中で限りなくそれに近い役割を果たそうとしているのが詩や小説や音楽であるのではないか。詩や小説も言葉でできているけれど、ことばに似ている。考えてみれば音楽もことばに似ている。その濁りのなさ、言葉になる前の純粋なもの、多分それは液体の形状をしているんじゃないか。或いは、三重点のような状態。
伝わらない寂しさというのは、数ある寂しさの中でも群を抜いている。
共有の不可能性が、果てしない孤独を感じさせる。どれだけ共に生きていようと、時間が相対的であることと同じように、ことばの伝わらなさというのも同じく寂しさを喚起させる。
人間とは、なんとも寂しい人間ですね!
この伝えたさ伝わらなさ、その狭間で揺らぐなんかが、言葉に変化してそれが誰かに届いて溶けて、ことばになってその誰かと一体になるならば、それだけで意味があるかもしれない。
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