見出し画像

画家 河野あさみ/あおいうに考

作家のナツメミオさんが私について批評してくださいました。良かったらお読みください。

---------------

具象に抽象、そしてサブカルやアングラと、多岐に渡って作品制作を行う画家・ 河野あさみ/あおいうに。
藝大時代から様々な媒体を通して批評されている(自ら講評を望む)彼女にとって、美術史の文脈か ら見た立ち位置などに絡めた講評・批評はすでに聞き飽きているのではないでしょ うか。たしかに、美術の文脈は作品を評価する上で大切な要素になりますが、河野 あさみ/あおいうに氏の作品をそれだけで測ってしまうには少々勿体無いのではない かと、私は感じています。
そこで今回は、河野あさみ/あおいうに氏の描く抽象画に焦点を置いて、美術の文 脈や技法以外の観点から作品を読み解いてみようと思います。なお、以下画家名は 二つの作家名を含める意味で『彼女』で統一致しますことをご了承願います。

:::::


第一に、色彩と光について。
色彩とその発色、そして余白美にこだわった抽象画は、画家河野あさみ氏の眼を 共有できるツールと言えるでしょう。
しかし、発色に拘りながらも箱に拘らない発表スタイルは大変興味深いことで す。なぜなら色は光であり、環境光によって大きく見え方が変わってくるからで す。
ですが彼女は控えめな照明のバーでも、ホワイトキューブでも展示を行います。 そして「その場にふさわしい形で」インスタレーションを行います。この行為は第 二の創作とも言えるでしょう。すなわち、展示という「儀式」を経て、作品は何度も何度も生まれ変わるのです。作品の再生は加筆だけではないことを思い知らされ ます。
こうした、場所に合わせたインスタレーションが可能というのは、抽象画ならで はではないでしょうか。もしこれが細密な具象画であるなら、暗い照明やお店主体 に選ばれた BGM などがマイナスに働いてしまう可能性が高く、展示場所は限られ てくるでしょう。
しかし彼女の抽象画は光源の違い、音の違いをものともしません。むしろ、光が 色を生み出しているからこそ、環境光によってくるくると変化する作品の表情を楽 しむことができるとも考えることができます。
これを加齢に伴う眼疾患という観点から見てみましょう。人は誰もが老いていき ます。医療技術によって治療できる範囲は広がりましたが、老いの現実は常に誰も が持っているのです。特に眼疾患は、初期に現れやすい症状と言えるでしょう。
そんなとき、彼女の作品は文字通り「ひかり」となります。
大切なのはコントラストと色の配置です。眼疾患を患った際、赤と黒の隣り合わ せ、赤と緑の隣り合わせは見えづらくなることが判明しています。しかし彼女の作 品では、意図してか無意識にか、彩度や明度の調整により巧みにその組み合わせが 避けられていることが多いのです。(多作な作家さんですから、多少の例外も有る かもしれませんが...)
また、練り上げた絵の具をふんだんに使い、厚みのあるところ、薄く描かれたと ころとコントラストある画面は、半立体的な作品とも言えます。触れることで、眼 の奥で彼女の絵を思い起こすこともできるでしょう。
これらの事実は、鑑賞者(≒観ることのできる人)を多く持てると同時に、長く 付き合っていくことのできる作品を作る稀有な作家だと言えるでしょう。

:::::


第二に、絶対美の追求について。
かの哲学者イマヌエル・カントは、美の追求の結果、「美」とは理性認識の範疇 を超えたものであり、自然美こそが「美」であると結論づけたそうです。
河野あさみ/あおいうに氏は、絶対美および普遍的な美を追求する画家です。自己 表現や思想表現に用いられがちな絵画の分野において、ここまでストイックに美へ の追求のみを原動力に描く作家は、近年では珍しいのではないでしょうか。
ここで私個人の見解を述べるならば、具象画における絶対美は限りなく非存在に 近いのではないかと考えています。なぜならば具象画である以上、その対象そのも のへの興味の有無や嗜好などの個人的な主観が挟まれてしまい、客観的な判断は極 めて難しいからです。たとえ モナ・リザであっても、美しくないと感じる人も居る 事実がそれを裏付けていると言えるでしょう。
しかし彼女の描く抽象画には「もっと潜在的、普遍的なレベルでの絶対美はある のかもしれない」という希望を抱かせるのです。なぜならば抽象には、具象におい て生まれやすい個々人の好みが発生せず、「ただ在るもの」として捉えることが容 易になるからです。
そこで、かつてカントによる「自然美こそが美である」であるという定義に対 し、「人間の手によって創り出したものから絶対美は生まれうるか」という思考実 験をしてみようと思います。
まずは意識と無意識について考えてみましょう。意識と無意識は氷山の図で示さ れることが多く、海面に出た一角が意識、水中の大きな氷塊が無意識とされます。 人間の意識として表出している部分はわずかであり、ほとんどが無意識で支配され ていると言っても過言ではありません。(実際に手を動かしてみると解るのですが)論理思考を巡らせながら抽象を描く のは実は難しいものです。ついつい手癖で描いてしまったり、以前描いた(もしく はどこかで見た)良かった構図に引っ張られやすく、同じような筆致になりがちで はないでしょうか。
しかし彼女は毎回違った筆致を見せるのです。彼女は言います「支持体の声を聞 き、置くべきところに絵具を置く」と。かといってイタコ的な描き方ではなく、あ くまでも論理的でアカデミックです。
私情を挟まない、職人的な制作姿勢に対し、作品は一つとして同じものは無く、 やはりまごうことなき画家であることを思い知らされます。理論の裏付けと、これ までにこなした作品数により成すことのできる『無為の筆致』とも言えるでしょ う。
さて、ここで一つの仮定を立ててみましょう。それは、彼女は「植物の持つ感覚 の【ようなもの】を備えた画家」であるのではないか、というものです。以下で検 証してみましょう。なお、決して疑似科学などではなく、科学的な理論と資料に基 づきこの文章を書いていることを予めお断りしておきます。
自然美はランダムさが生み出すように見えますが、自然そのものの仕組みは非常 に数学的・物理的な法則で成り立っています。ほとんどの木々がフィボナッチ数列 によって枝分かれを起こし、花びらの枚数はフィボナッチ数で表されることが多い など、様々な例を挙げることができます。
また、植物たちは「見たり」「感じたり」していることが、研究で判明してきて います(人間と同じ感覚器官を持っているわけでは無いので、あくまでも比喩で す)。
例えば、植物たちは青色の光に反応して枝葉を伸ばしますが、赤色の光には反応 しません。また、植物の先端が眼のような役割をしており、先端を覆うと光が当た っても曲がらないことも判明しています。また、ハエトリグサなどは獲物の大きさを「感じとり」大きすぎず小さすぎない 虫を、タンパク源として摂取します。ですから、雨粒などがいくら入り込んでもそ の蝶番形の罠が反応することはありません。
つまり自然物にもそれらの生息に必要な理論が多々存在するのです。美しく咲い ている花々は太陽の方向を察知し、そちらに顔を向けていくのです。よく、ランダ ムさが自然の美しさであると言われがちですが、逆説的に「ランダムであれば自然 だ(自然に見える)」というわけではないのです。
これらをまとめると、植物は主観的なものの影響は受けませんが、外的刺激など による機会的刺激は「感じる」ことができます。当然、脳に相当する組織は今のと ころ発見されておりませんので、人間と全く同じような「感じ方」をするわけでは ありません。
では植物のような側面を持つ人物とはどのような人物か。それは、主観を挟まず に美の追求に没頭できる人物を指すのではないでしょうか。白いキャンバスは全て の色の光を反射した物であり、そこに当たる光源の僅かな変化を無意識に感じ取 り、筆を動かすことも考えられます。それも、理論的に美しさとはなにかを考えな がら。
フロイトの説を持ち出すなら、植物の精神には自我と超自我が欠けており、無意 識の心理にあたる部分(感覚入力を得て本能的に対応する部分)はあるかもしれな い、となりますので、人間の無意識の働きは植物たちの「感覚」に近いとも言うこ とができるではないでしょうか。
これらの例から、河野あさみ/あおいうに氏の作品は、美術の理論を徹底的に学ん だ上で、無意識を「無意識のうちに」表出させ、まるで自然法則のような振る舞い (描き方)をしてるのではという仮説を立てたくなるのです。するとカントの提唱する「美(自然美)は人間の手の届かない神の領域のもの」 にも綻びが出てくるのではないでしょうか。彼女はその「人工」と「自然(あるい は絶対者)」の境界すらも「溶かす」ことができるのだから。

そんな風に考えてみると、きっと彼女なら人間の手から生まれる絶対美に辿り着 くのではと、期待が膨らんでならないのです。【了】


2020 年 12 月 文責:ナツメミオ(chu-cool@live.jp)


《参考文献》
 『色彩検定公式テキスト UC 級』日本色彩研究所 著
 『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち(河出書房 新社)』ダニエル・チャモヴィッツ 著 / 矢野真千子 訳

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?