笹山直規考_ネガティブなものに直視すると本当のピュアさが見えてくる

こんにちは、あおいうにです。最近短い間でしたが教わっていた、先生に「破門」食らいました(笑)

また、その先生をご紹介いただいた友人にも、「彼氏が結婚してくれなかったら私が結婚してやるからな」というメッセージの二日後に全てのSNSや連絡先をブロックされました!

ちょっとこの経緯が面白いので、詳しく書きますね。

まず、そもそもの原因は、現代美術家の笹山直規さんのせい(おかげ?)です。

簡潔に事の顛末を。

・笹山さんがあおいうにをモチーフにコラージュ作品を作る。
・それを見た友人が激怒。 
・同時にそれを作った笹山さんを擁護するあおいうににも激怒。
・SNSでエアリプ合戦が始まる。
・同時期に笹山さんが植松聖をテーマにした作品をアップ。
・それを見ていた先生と友人があおいうにを切る。

と言う感じです。

これだけだとよく分からないと思うので、詳細を見ていきましょう。

まず、友人が激怒したあおいうに作品はどういうものだったのか。

簡単に言うとアイコラです。
あおいうにの写真が散りばめてあって落書きしてあったり、小学生の頃の顔写真に巨乳のセクシー女優が裸で騎乗位をしているコラージュに、「クソ女」「芸大の恥晒し」「肉ダルマ」などと書いてあったりする作品なのですが。

笹山さんにはあおいうにを侮辱する意図も、ふざけて作っているわけでもないと思うのです。

ネット上の誹謗中傷を可視化して、その誹謗中傷する側の人たちの心理の醜さを露呈しているのではないでしょうか。


植松聖テーマの作品はどうだったかと言うと。
死体の写真と共に障害をお持ちの有名人を何人かコラージュし、職業名を書いてペインティングが施されているものでした。

これも、障害者を蔑視する意図はないどころか、「見よ、障害者にはこんな素晴らしい人たちがいる。優生思想は馬鹿げてる。植松、お前はこういった人たちをも殺すことになるんだぞ?」と言いたいのではないでしょうか。

コラージュされた障害をお持ちの有名人は皆それぞれ社会的地位がある方々で、隣に職業名が書かれています。
それは、きちんと彼らを勉強した笹山さんが人格として認めている証なのです。

植松にはそれができなかった。考えが至らなかった。

それと同時に、この作品を表面だけ見て脊髄反射的に嫌悪感を抱いてしまうのは、「主題が読み解けない」リテラシーの問題もありますが。

本当のところ、深層心理で自分の中にある差別感情と向き合うのが怖いからなのではないでしょうか。

障害者=特別な人

という図式が離れなくて、それを顕在化されることで自分の地位が揺らぐ。そういった、鏡のような役割を笹山さんの作品はしているのです。

確かに肖像権は侵害しているんですが、これは障害者差別には当たりません。

それどころか、この連作は「人を慈しむ心」「人類愛」の話なのではないかとすら思えました。

一見汚かったり醜かったりネガティブなものをとことん直視して突き詰めていくことで、逆説的に本当のピュアな愛や美しさが見えてくる。

笹山直規という作家の作品はそういうものだと思います。

先生から「存命の障害者の同胞たちの顔写真と死体をコラージュしたものを『現代アート』と称して展示してドヤるような人たち、それを安易に持ち上げる人たちには極めて強い嫌悪感しか感じません。」とのコメントいただきましたが。それはちょっと誤解だよ、と言いたいところですね。

笹山さんの作品をあまりにも分かってないのです。「抽象画はワカリマセン」と同レベルの感度です。現代アートのコンサルがこれでいいのですか。

所詮は美術の専門家ではないので、描く側の視点には立ててないんですよね。「売り絵」をいかに作るかしか考えてなくて、その作家の複雑な思索やそれに至った経緯みたいなのを読み解けていません。

笹山直規は、勉強しすぎた結果、一周回ってああいうセンシティブな作風になっちゃってるんですけど。それが分かっていないのです。彼のSNSと作品を丁寧に照合すれば馬鹿じゃなければ誰でも分かるんですが。

あらゆる表現は誰かを傷付けます。傷付けることを恐れて無難な表現ばかりしていたら、いつかこの世からアートはなくなってしまいます。

あおいうにのキュレーションする「犯罪展」が「弊社の社会的責任に関するコードを逸脱したため」、作品購入とウェブサイト制作を突然キャンセルされたのは、本当に無責任だしばかばかしいのですが。 

(ちなみに、これをSNSに告発したところ、「え、サイト作るとあおいうにの作品もらえんの?やるやる」という人が集まってきました。私って人望あるなあ(笑)


急に距離縮めてくる人はすぐいなくなるもんだし、思想が合わないと遅かれ早かれ離れていくものです。

今後は末永く活動を応援してくれる人と関わっていこうと思いました。

でも、アートの譲れない信念をぶつけ合った結果、離別してしまうのは、ある意味アーティストとして健全かもしれませんね。


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