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吹き矢と風船

赤い風船を見かけると小説がきっとすらすら書ける。そのことに気が付いた私はまず不思議なこともあるもんだと首を傾げ、しめしめとほくそ笑み、けれども段々その喜びに影が差し、そうしてじき嫌気がさした。とどのつまり私は風船のことを憎みだしたのである。

 今回の作品はまたよく書けているねと先生はいった。先生は今日も鮮やかなオレンジ色のセーターを着ている。鮮やかなオレンジ色のセーターは先生の白髪に大変よく似合う。主張のない眼鏡との相性はこのうえもなく良い。はあ、と私はばかみたいに答えて黙った。しょせん風船の成せるものだからと思うと、褒められたところで後ろめたいばっかりでちっとも喜びがない。こないだのも良かったけれど、と先生はひとの気も知らないで続ける。今回のはもっといろんな読み方が出来るし。はあ、はあ。妻も気に入ったようだ。あ。はあ。あ。そうですか。麗子さんも。
 その麗子さんがアイスコーヒーを運んできてくれる。あ。これはどうもかたじけない。先生は飲み物には目もくれず、
「ねえ、あなたからも何かいいたいことがあるんじゃない」
 と、横を向いた。横を向いた先生の鼻は実に格好が良い。私はつい見とれてしまう。麗子さんはええそうねまあホホ、と笑う。口に当てた手の薬指と中指に大振りの指輪をはめている。あんまり上品なものではないし、短くて節くれだった指には潤いがない。瞼に引いたアイラインの幅は三・二ミリはあると目算した。
 麗子さんは詩人である。二言三言「いいたいこと」を拝聴したあと、自作の詩の朗読を聞いた。低く落ち着いた、たいそうよい声である。冬の炉端に座っているような、安心した気持ちにさせられる。オットマンに腰かけた姿は、思い切り突き倒したところで起き上がりこぼしみたいにヒョイと難なく立ち戻りそうな感じを受けた。揺るぎがない。いくら皮膚が渇いていたって、声も姿もたおやかで艶やかだ。私はいよいようちのめされる。このうえ麗子さんの入れてくれたコーヒーはシロップがベタベタに甘く、私は無性にさびしくなった。


 先生と麗子さんの家を辞した後、チェッと言って石ころを蹴る。私は先生を好きなのだ。新幹線の高架橋。ふと見上げた向こうの空に赤い風船がふよふよ飛んでいるのが見えた。私はふたたび舌打ちをし、風船を睨みつけた。
 家に帰って机の前に座ると、案の定原稿はビシバシ進んだ。ほんの短いものだが一気呵成に書いてもう一息でラストというところになって私は突然わあと叫び、机の前から飛びのいた。わああわああと騒ぎつつ頭をかきむしり、部屋中をぐるぐる歩き回った挙句いったん家を飛び出したものの、またお空にあの赤いのがふよふよしているんじゃないかと思うとすぐさま取って返し、他になす術もないのでするりと布団の中に潜り込んでしまった。
 夢の中でも先生は良く書けた、良く書けたと褒めるのである。先生は前はこんなじゃなかった。以前にはそのやさしさ柔らかさでひとを煙に巻いてしまうその奥にたしかな「なにか」、たぶんとてもつめたくて鋭い「なにか」を感じさせるひとだった。先生は腑抜けになってしまったのだ。今だってほら、自分の頭のすぐ斜め後ろで赤い風船が浮かんでいるのにも気が付かない。ふよふよ。ふよふよ。それにしてもなんて心安げなものだろう。私はこの時心に決めた。打ち壊してやる。そこで私は吹き矢を習うことにした。

 吹き矢の師匠は存外すぐ見つかった。蛸坊主である。怒りの沸点が低い。顔中、はげ頭から耳まで真っ赤にしてすぐ怒(いか)る。ところで私は怒(いか)っているひとをみると笑い出す性質があった。相手の怒りが激しく真剣であればあるほど笑いの衝動は強くなる。子どもの頃にはそれで母親や教師から何度大目玉をくったことか知れない。が、今回の場合に限ってこのやっかいな性質が功を奏した。私は真っ赤になった蛸坊主を前に極限まで笑いを堪え、すわというところで思い切りぷっ! とやれば良いのである。吹き矢ははやぶさのように飛んでゆく。蛸坊主は度肝を抜かれてあっ! と叫んだ。私はそれを見てさらにあははあははと笑った。蛸坊主は矢を吹いたあとに笑うのはやめろと怒鳴りつけるので私はいよいよげらげら笑い出した。蛸坊主はやめろやめろと叫んで地団太を踏んだ。私は少しかわいそうになり、やっとこさ笑いをおさめた。
 その時である。まるで双子のように怒(いか)った蛸坊主と瓜二つのそれが、彼の頭上の空に浮いているのを見つけたのは。寸秒も無駄にしなかった。蛸坊主の肩を横ざまにぐいと押しのけ、片膝を立てて狙いを定めた。
 ぷっっっっっ!
 命中した。風船はあっけなく割れ、蛸坊主はおどろいて振り返ったがそこにはただ澄んだ空があるばかりで蛸坊主の目には赤いゴムの切れ端すら映らなかった。それ以来、私は小説を書くのをぴたりとやめた。今後はせいぜい吹き矢の技を磨こうと思っている。

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