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本を読むのに注いでいるエネルギーを、目の前の出来事に注いでみるとどうなるだろう

前回に続き、本の感想を書こうと思っていたけれど、週末にもっと書きたいことが出てきたので、今日はそっちについて書いてみる。主に読書との関わり方に関する話だ。昨年辺りから、本をたくさん読んでいた。元々のきっかけは、出産後、本を読む時間がなかなか取れず、仕事をしていても、どうすればいいかわからない事がどんどん山積みになっていったのが苦しかったからだ。過去の蓄積だけでなんとかしている感じがして、自分が枯渇しているというか、勉強不足、インプットが身に染みる事が多かった。なので、昨年仕事のペースを少し落としてからは、反動でものすごく本を読んだ。学びはたくさんあったし、とても面白かった。ただ、読書に没頭しすぎてしまい、睡眠が不足したり、家族と過ごす時間にも影響があったりと、日常生活に支障が出ている感じもしていた。
一昨日、ちょっとしたきっかけがあり、自分は外部の情報に頼りすぎているのではないかとふと感じた。本を、これだけたくさん読んでいるのはなぜなのか。もちろん単純に面白かったり、暇つぶしだったりというのもあるけれど、自分に何か不足しているという不安みたいなものが大きいのではないか。元々頭でっかちになりやすいタイプなので、瞑想をするようになってから、少しずつ身体の感覚など、バランスを取り戻してきた感じがしていたけれど、それでも拭えない根本的な不安みたいなものがあり、それがちょっと異常な量の読書に私を向かわせているのではないだろうか、という気がした。私は今、読書に執着しているなと思った。仮に今、あなたは今後一生涯、全く読書をしないで過ごしていいですよ、もう新たな知識を得る必要は全くないです、と言われたとしたら、自分はどう感じるだろう、と考えてみた。自分で読みたくて読んでいたつもりの読書なのに、そう考えてみると、なんだかすごく解放感があった。
そうして昨日、朝から子どもと、特に目的もなく行き当たりばったりでお出かけして過ごしていると、なんだかとても楽しかった。多分、子どもとうまく向き合えないストレスから、読書に逃避している部分も大きかったと思う。子どもと何して遊べばいいのかよくわからず、子どもと過ごす時間を楽しめずにいた。でも、それはもう少し小さい頃の子どもの話だったのかもしれない。今目の前にいる子どもと遊ぶことに全集中してみると、子どもももうできること、やりたい事がたくさんあって、全力で一緒に過ごすのはとても楽しかった。ぐずり出した子どもにとことん付き合って夕飯を作るのが遅れても、家事が予定通り進まなくても、子どものペースに合わせてみる。これまで、そんなことは育児書などで読んでも理想論というか、でも実際問題いろいろ困るじゃんか、と思っていたけれど、1日くらい寝るのが遅れても、リカバリーはできるとも感じた。本を読む時間を減らしても、やりたい事がないと思っていたけれど、本を読むのに注いでいるエネルギーを、目の前の出来事に注いでみるとどうなるだろう、と考えると新しい扉を開いたような感じで、ワクワクした。それでも読みたい本はあるので、引き続き読書自体は続けるとしても、あまり本を読まずに過ごすこと、特に不安から逃れるために読むような読書は無くそうと思った。
結局、自分の内側にあるものを、自分が一番信じきれていなかったんだなぁと思った。不足に目を向けていたら、足りないことは無限にあるので、いつまでもキリがなく、ずっと足りないと思い続けるだろう。既に持っているものに目を向け、それを生かしてやれる範囲のことをしていけばいい。何度も頭ではそう思っても、やっぱり心の底ではそう思い切れない自分がいたのだなと思った。とにかく、不足を補おうとしすぎないように、と心がけたい。

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