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安岡正篤「活眼活学」を読んで

この曲をヘビーローテーションしている。イントロの音が秋の夕暮れに寂しさを覚える心境にも、明けきらぬ早朝の静謐さにも似合う。この曲自体は昔から知っていたが、ふと最近ふたたび耳にしたとき、妙に心に響いた。
縁、という言葉、これは生きている人間同士の縁、すなわち恋愛感情として縁がある、無い、という場合や親友との出会いも縁、そういう言葉として認識していた。
私が10歳くらいの頃、オカルトに興味を持ちだし、当時の雑誌「ムー」に載っていた出口王仁三郎という人に釘付けになって、守護霊信仰と結びついて一人で自作の神棚をこしらえたことがある。ボール紙と割りばしを使って。その神棚を「御霊堂」と名付けていたのだが、それと同時に先ほどの雑誌の記事にあった「かんながらたまちはえませ」という呪文を唱え続けてもう40年近くになる。この自作の神棚に朝と寝る前に頭を下げながらこの呪文を唱える。その意味がわからなかったのだが、途中の「たまち」という言葉が御霊を意味するそうで、数十年の時を経て、私の神棚とつながった、そういう人生の連環に先ほど心が躍ったばかりだ。

温故知新…昔の人の教えが今に役立つ、くらいの軽い意味で今まで考えてきた。しかし、この、前の戦争で玉音放送として流れた終戦の詔勅の原稿を書いた安岡正篤という人の言葉に接して、もっと心に切り込んでくるような、鋭く身につまされる気持ちがした。といっても、まだまだ精神として消化しきれていないので、気になった部分をまずは抜粋してゆく。ページの数字は、PHP研究所による新装版のページである。

P14
「肉眼と心眼」というような意味をもって、日本の内外の大切な問題をお話し申し上げましょう。
人間は特に目が大切であります。即ち物が見えなければなりません。それも単なる肉眼では目先しか見えません。それではすこぶる危険であります。我々は外と同時に内を見、現在と同時に過去も未来も見、また現象の奥に本体を見なければなりません。仏教の方でも「五眼(ごげん)」ということを説いております。肉眼(にくげん)、天眼(てんげん)、慧眼(えげん)、法眼(ほうげん)、仏眼(ぶつげん)と申しますが、とにかく肉眼(にくがん)以上のものを心眼といたしておきましょう。
P21
そこで、だんだん賢明な学者や実際家の研究をいろいろ注意しておりますと、大変教えを受けることが多いのですが、例えば、皆さんがこれからどんどん成長し発達していかれる、俗な言葉で言えば成功してゆかれるのにも、銀行員であれば銀行の仕事さえ几帳面にやっておればそれで良いかというと、決してそう簡単にはゆかないのであります。人間というものは一つには自然の存在でありますから、自然の法則にも支配されるので、我々の精神や生活が単調になりますと、物の慣性・惰力と同じ支配を受けまして、じきにエネルギーの活動が鈍ってくるのであります。つまり人間がつまらなくなってくるのであります。眠くなってくるのです。
よく言うことですが、平たい言葉に案外妙味がありますが、「彼奴は眠たい奴で、あいつと話をしておると眠くなる」というような人間がよくあるものであります。つまり内容のない、決まりきった人間になってしまうと、精神活動が鈍ってしまう。惰力的に生きて、創造的――よく言うクリエイティヴに生きない。眠くなってしまう。
P23
それを防ごうとするならば、いろいろの心掛けが必要となるわけですが、なかんずく、やっぱり良い師友、良い先生や友達を持つ、つまり交際に注意をするということが第一であります。同じような人間が、同じような生活をして、そういう連中だけが附き合っておっても物にならないのであります。毎日見慣れておる顔を見て、決まりきった話をして、決まりきった生活を繰り返しておるために、だんだん無内容、無感激、いわゆる因習的マンネリズムにというものになってしまう。できるだけ生活内容を異にした友達に交際を持つ。そうして浅はかに考えると一向自分たちの生活や仕事に関係のないようなことでも興味を持ち、注意をしてこれに接する。つまりなるべく広く味のある、変化に富んだ良い交友を豊かに持つという心掛けが、まず第一に必要であります。
我々の仕事は、案外思いがけない示唆によって活気を与えられる。思いがけない人から、思いがけない話を聞いて、その話が思いがけない影響、示唆、ヒントを自分に与えて、それが仕事に非常に生きるものなんであります。あんな奴は別に俺の仕事に関係のある人間じゃないから附き合う必要なんかない。俺は銀行員だから、銀行のことさえ考えておればいいんだという考えは、利口なようで実は馬鹿な考えであります。ところがなかなか現実の生活に忙しい我々が、そういう意味合いにおいて良い附き合いを多面的に持つ、豊かに持つということは、言うべくして容易に得られないことであります。これは心掛け一つでいくらでもできると言えばできるものの、やはり肉眼では駄目で、心眼が開いてこないと難しいことであります。

P26
戦争は一面に大破壊を演じますが、それと同時に思いがけないものを創造することもあるのであります。
その一つとして、今日識者が注目いたしております大問題は、西洋文明と東洋文明との融合というものであります。
それから世界の政局も、今までは圧倒的にヨーロッパが檜舞台であったのでありますが、これは皆さんも気がついておられるでしょう、第二次大戦後は非常にアジアが、特に極東が正に世界の檜舞台になりつつあるのであります。
P28
思想的・文化的にもそうでありまして、東洋というものが新たに脚光を浴びて登場して参りました。イギリスやフランス、アメリカなどにおける東洋研究は、実に盛んなものであります。まごまごしておると、外国語から翻訳して我々が東洋文化を研究しなければならないようなことになるかも知れない。この世界の形勢に対して、一番指導的役割を演じ得るのが日本である。というのは、日本においては神道ばかりでなく、儒教も仏教も老荘も、皆日本に集中してきておるからであります。だから今後の新しい世界文明に対しては、日本人がいい条件を持っているはずなんですが、ところがその日本人は、東洋文明というものに対して、まことに冷淡なことは意外なほどであります。これはとんでもないお恥ずかしいことであります。
P33
その次にまた著しいのは、この世界が科学や文明の発達によってだんだん距離をなくしつつあることです。従来世界を隔てておった距離というものが、交通・通信の発達でだんだん消滅しつつある。確かに世界が統一に向かって進みつつあるのでありますから、その意味においては、インターナショナル、グローバル、コスモポリタンになりつつあるのです。
このような傾向は第一次大戦後におけると同様でありますが、大変違っている点は、第一次大戦後のコスモポリタニズムであるとか、あるいはインターナショナリズムとかいうものは、この頃はまだグローバリズムとはあまり言いませんでした。これは主として、国民主義、民族主義、ナショナリズムというものと相容れないものでありました。ナショナリズムを否定することがインターナショナリズムであり、コスモポリタニズムでありました。
ところが今度は、だんだんそうではなくなって参りました。真のコスモポリタン、真のインターナショナリストになるには、最も徹底した、最も洗練されたナショナリストでなければならない。従来のような排他的ナショナリズムでななくて、リファインド・ナショナリズム、洗練されたナショナリティを通じなければ、真のインターナショナル、真のコスモポリタンにはならない。ちょうど本当の立派な木になるためには、立派な松になるか、梅になるか、杉になるか、何らかの個性を通じなければなり得ない。そうでない木などというものは観念的存在にしか過ぎません。
P37
どうしても各民族、各国家が、もっと道徳的な、もっと理性的な存在にならなければ、本当の世界というものにはなりません。世界を統一するということは、例えばその辺の樹木をみんな切ってしまって、砂漠にしてしまうことではないのですから、それこそ百花繚乱の花園なり、森なり、花なりを作ることなんですから。その意味において新しい民族主義というものは、非常に注目しなければなりません。これが第二であります。
それよりも更に我々に直接響くのは、第三の問題です。これは近代文明、特に近代の機械文明及びこれに伴うところに都市文明というものが発達し、我々の生活が集団化されるに従って、だんだん個人がその理性、個性、私生活というものを失ってしまい、個人というものが、その集団生活の中に吞み込まれ、自分自身の生活をなくしてしまう。その集団心理、群衆心理の支配を受けて、個人的な理性、個性というものを奪われてしまう。
この機械文明、都市生活のために人間生活が集団化・大衆化して、群集心理なるものが横行し、個人などの主体性、生活内容を失っていくということは、恐ろしいことであります。だんだん集団が全部になって、個人がゼロになる傾向が強い。つまり文明が発達するが如くに見えて、人間が無内容になりつつある。
P39
家庭にラジオとテレビと面白そうな新聞・雑誌を幾種も揃えてごらんなさい。子供はほとんど勉強できないでしょう。暇さえあればラジオとテレビに齧(かじ)りつき、雑誌を繰るでありましょう。大体、そういうことで毎日を暮らしたら馬鹿になってしまいます。自分の思考力だの判断力だのというものが全然なくなってしまいます。
それから、まだそれくらいの年齢なら宜しいが、東京とか大阪、あるいはニューヨークとかロンドンとかへ行って、あの宣伝と広告と各種の刺激、それも強い感覚的な刺激、あれを毎日受けていると、刺激だけに圧倒されて、本当の個性というもの、内面的自己というものがなくなってしまうのであります。
P42
人類が証明しつつあるように、文化的になるということは、やがて滅びるということなのでありますから、今後人類の一番の大問題は、文明の進歩ということが、人間生命の進歩ということにならねばならないということであります。不幸にして、過去の人類の歴史は二十幾つかの文明の滅亡史である。このままいくと、現代文明も遠からず、過去の文明と同じように、世界史の中の一つの物語、歴史学・考古学の材料になるに過ぎないということが、決して杞憂ではないのであります。
どうしても、文明が進歩すればするほど、我々は心眼を開いて、我々の生活、自己というもの、我々の内面的自我というものを、もっと健全にしながら、その上に本当に理性的な、道徳的な、堅実な社会生活、集団生活、組織を持つようにせねばなりません。それを各人が、各人の責任において努力しなければならない。これが恐らく今日の文明の一番根本的な課題でありましょう。世界を挙げて、あまりに目先のことに追われて、だんだん今まで申しましたように心眼が衰えてきております。こういう現代は危機でありますから、そこで今度は「肉眼と心眼」という題で、こんなお話をした次第でございます。

書き写してて疲れたw ここで一服…といっても、タバコは吸わなくなって1年半が経過した。もうそろそろ禁煙といっていいだろう。
ほんとうは一冊まるごとこんな感じで抜き出したかったのだけれど、ここでいったん抜き出しは終わる。またいつか機会があれば改めて別に写すべきとも思うし、私のなかに消化されていない部分があり、そこはまた私のほうの年齢を重ねて気づくこともあるだろうという気もする。
とはいえこの「肉眼と心眼」という最初の章は昭和59年に雑誌に掲載された文章とのことで、今からもう40年近く前のこととなる。本質をついた文章は、とてもみずみずしく心に迫る。改めて写しながら、現代のインターネット社会における距離が縮まったこと、受動的な文化の隆盛によって、思考や発言がどこかから借用したものばかりで、自らのコトバは無くなった…と思いませんか? 少なくとも私にはそういう気づきを与えてくれましたね。あとテレビなどで最近露出の多い、ひろゆき氏の発言の軽薄さは、もしかしたら良い先生に恵まれなかったのかな、と思ったりも。

コロナウイルス流行によって、ウイルスの感染予防効果の低いマスクをしなければならない、という同調圧力は、もう自ら考えることを失った証左の一つでしょう。私たちは本当に、文明の滅亡に向かっているのかもしれません。プーチンが核ミサイルのボタンを押すだけで、すぐに終わってしまう、私たちは薄氷を渡っているのですね、まさに。

それでも、安岡正篤は「いかに生きるべきか」も教えてくれています。温故知新は恩顧血親、かもしれません。テキトーな当て字の割に、それなりに意味がありそうw この文章が、読者であるあなたにとって良い縁となりますよう

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