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タイピング日記036 / 加納クレタ / 村上春樹

 私の名前は加納クレタ、姉の加納マルタの仕事を手伝っている。

 もちろん私の本当の名前は加納クレタではない。これは姉の手伝いをするときの名前だ。つまり仕事上の名前である。仕事を離れたときは、加納タキという本名を使っている。私がクレタと名乗っているのは、姉がマルタと名乗っているからだ。

 私はまだクレタ島に行ったことはない。

 ときどき地図で眺めてみる。クレタはアフリカに近いギリシャの島だ。犬のくわえた骨つき肉のようなごわごわと細長い形をしていて、有名な遺跡がある。クノッソス宮殿だ。若い英雄が迷路をつたって女王を助ける話。もしクレタ島に行く機会があったら是非そこに行ってみようと思う。

 私の仕事は姉が水の音を聴く手伝いをすることだ。私の姉は水の音を聴くことを職業にしている。人の体を浸している水の音を聴くのだ。言うまでもないだろうが、これは誰にでもできるということではない。才能も必要だし、訓練も必要なのだ。日本ではたぶん姉にしかできない。姉はその技術をずっと昔にマルタ島で習得した。姉が修行をした場所にはアレン・ギンスバーグも来たし、キース・リチャーズも来た。マルタ島にはそういう特別な場所がある。その場所では水がとても大きな意味を持っているのだ。姉はそこで何年も修行していた。それから日本に戻ってきて、加納マルタと名乗り、人の体の水音を聴く仕事を始めたのだ。

 私たちは山の中に古い一軒家を借りて二人暮らしで暮らしている。地下室もあって、姉はそこに日本各地から運んできた何種類もの水を集めて置いている。陶器の水甕に入れて並べてあるのだ。ワインと同じで、水の保存には地下室がいちばん適している。私の役目はその水をきちんと保存することだ。ごみが浮かんでいたらすくいとり、冬は氷が氷がはらないように気をつける。夏は虫がわかないようにする。それほど難しい仕事ではない。時間もかからない。だから私は一日の大部分の時間を建築図面を引いて過ごしている。姉のところにお客があるとお茶を出したりもする。

 姉は地下室に置いた水甕のひとつひとつに毎日耳をつけて、それらの発する微かな音にミミを澄ませている。毎日二時間か三時間くらい。それが姉にとっての耳の訓練なのである。ひとつひとつの水はそれぞれに違う音を立てるのだ。姉は私にもそれをやらせる。私は目を閉じて、体じゅうの神経を耳に集中する。でも私には水の音がほとんど聞こえない。たぶん私には姉ほどの才能がないのだ。

 まず、水甕の水音を聴きなさい。そうすればそのうちに人の体の中の水音も聴けるようになるからと姉は言う。私も懸命に耳を澄ませる。でも何も聞こえない。ほんの少し聞こえたかなあと思うことはある。ものすごく遠くの方でふと何かが動いたような気配を感じる。小さな虫が二、三度羽を動かしたような音が聞こえる。聞こえるというよりは、空気がほんのちょっと震えたという程度のものだ。でもそれは一瞬で消えてしまう。かくれんぼでもしているみたいに。

 私にその音が聞こえないのは残念なことだとマルタは言う。「あんたのような人こそ、体の中の水音をしっかりと聞き取る必要があるのさ」とマルタは言う。何故なら私は問題を抱えている女だからだ。「あんたにそれが聞こえさえしたらねえ」とマルタは言う。そして頭を振る。「もしそれがあんたに聞き取れさえすれば、問題はもう解決したも同然なのにさ」とマルタは言う。姉は私のことを心から心配しているのだ。

 私はたしかに問題を抱えている。そして私はその問題をどうしても克服することができないでいる。男たちは私をみるとみんな極まって犯そうとするのだ。誰もかれもが私を見ると地面に押し倒して、ズボンのベルトを外すのだ。どうしてかはわからない。でも昔からずっとそうなのだ。物心ついたときからずっとそうだった。

 私はたしかに自分を美人だと思う。体も素敵だ。胸が大きくて、腰がしまっている。自分で鏡を見てもセクシーだと思う。街を歩くと男はみんなぽかんとした顔で私のことを見る。「でもさ、世間の綺麗な女がみんなかたっぱしから強姦されると言うわけではないだろうが」とマルタは言う。そのとおりだと私も思う。そんな目にあうのはこの私だけなのだ。たぶん私にも責任があるのだろう。男がそんな気になるのは、私がおどおどしているからかもしれない。だからみんなそういうのを見るといらいらして、思わず犯したくなってしまうのかもしれない。

 そんなわけで、私はこれまでにとにかくありとあらゆる種類の男に犯されてきた。むりやりに暴力的に犯されたのだ。学校の先生から、同級生から、家庭教師から、母方の叔父から、ガスの集金人から、隣の火事の消火に来た消防士にまで。どれだけそういうノオを避けようとしても駄目なのだ。私はナイフで切られたり、顔を殴られたり、ホースで首を絞められたりした。そういう風にすごく暴力的に犯されるのだ。

 それで私はずっと前に家の外に出るのをやめてしまった。そんなことを続けていたらいつかきっと私は殺されてしまう。私は姉のマルタと人里離れた山にこもった、地下室の水甕の世話をしている。

 でも私は一度だけ私を犯そうとした相手を殺しかけたことがある。いや、正確に言うなら、殺したのは姉だ。その男はやはり私を犯そうとしていた。この地下室でだ。その男は警察官だった。彼は何かの調査があってやってきたのだが、ドアを開けるとそのとたんにもう一刻も我慢できなくなったみたいで、その場で私のことを押し倒した。そして私の服をびりびりと破いて、自分のズボンを膝まで下ろした。ピストルがかしゃかしゃと音を立てた。好きなようにしていいから殺さないで、と私はおどおどしながら言った。警官は私の顔をぶった。でもそのときうまく姉のマルタが帰ってきてくれた。彼女は物音を聞きつけて、大きなバールを片手にやってきた。そしてバールを思いきり警官の頭の後ろを打った。何かがへこむようなごそっという音がして、警官は気を失った。それから姉は台所から包丁を持ってきて、それを使って鮪の腹を裂くみたいに警官の喉をきれいに裂いた。すうっと音もなく喉が切れてしまった。姉は包丁を研ぐのがすごく得意なのだ。姉の研ぐ包丁はいつも信じられないくらいよく切れる。私はあっけに取られてそれを見ていた。

「どうしてそんなことするの?どうして喉なんか裂いちゃうの?」と私が訊いた。

「いちおう裂いておいた方がいいぜよ。あとくされなくて。何しろ相手は警官だからな。化けて出ないともかぎらねえ」とマルタは言った。姉はとても現実的に物事を処理するのだ。

 ずいぶん血がたくさん出た。姉はその血を水甕のひとつに入れた。「血を抜いとくのがいちばん」とマルタは言った。「こうしとけばあとくされねえから」。私たちは血が全部なくなってしまうまでブーツをはいた警官の足を持ってずっと逆さにしていた。大柄な男だったので、足をもって体を支えるのはすごく重かった。マルタの力が強くなかったら、とてもできなかっただろう。彼女は樵みたいに体が大きくて、力も強いのだ。

「男があんたを襲うのはあんたのせいじゃない」とマルタは足をつかんだまま言った。

「あんたの体の中の水のせいだ。あんたの体のその水が合っていないんだ。だからみんなその水に引き寄せられるんだ。みんないらいらするんだよ」

「でもどうすればその水を体から追い出すことができるのかしら?」と私は訊いた。

「私、いつまでこんな風に人目を避けてこそこそと生きていくことはできない。こんなままで人生を終えたくない」。私は本当は外の世界に出て暮らしていきたいのだ。私は一級建築士の資格を持っている。私は通信教育でその資格を取った。そして資格を取ったあとは、いろんな図面コンクールに応募して、いくつか賞もとった。私の専門は火力発電所の設計である。

「急いじゃいけないよ。耳を澄ませるんだよ。そうすればそのうちに答えが聞こえるからさ」とマルタは言った。そして警官の足を振って、血の最後の一滴まで水甕の中に落とした。

「でも、私たち警官をひとり殺してしまったのよ。いったいどうすればいいかしら?ばれたら大変なことになるわ」と私は言った。警官殺しは重い罪である。死刑にだってなりかねない。

「裏に埋めちゃおうぜ」とマルタは言った。

 そして私たちは喉を裂いた警官を裏庭に埋めた。ピストルも手錠も紙挟みもブーツもみんな埋めてしまった。穴を掘るのも、死体を運ぶのも、穴を埋めるのも全部マルタがやった。マルタは、ミック・ジャガーの声を真似して『ゴーイン・トゥ・ア・ゴーゴー』を歌いながら作業を片付けた。埋めた後の土を二人で踏み固め、その上に枯れ葉をちらしておいた。

 もちろん土地の警官は徹底的に調査した。草の根をわけるように失踪した警官を捜した。うちにも刑事がやってきた。いろいろと質問された。でも手がかりは見つからなかった。「大丈夫、ばれっこねえさ」とマルタは言った。「喉も裂いといたし、血も絞った。ずいぶん深い穴も掘った」それで私たちはホッとひといきついた。

 でもその次の週から、殺した警官の幽霊が家の中に出るようになったのだ。警官の幽霊はズボンを膝まで下げたまま地下室を行ったり来たりした。ピストルがかしゃかしゃ音とを立てた。なんだかみっともない格好だと思ったけれど、どんな格好をしているにせよ幽霊は幽霊だ。

「おかしいなあ、化けて出ねえように喉をちゃんと裂いといたんだぜ」とマルタは言った。私は最初のうち、その幽霊のことが怖かった。だってその警官を殺したのは私たちなのだ。それで私は姉のベッドにもぐりこんで震えながら眠った。「怖くなんかねえよ、あれには何もできないもの。何しろちゃんと裂いてあるし、血も絞ってある。チンポコだって立てねえさ」とマルタは言った。

 そしてそのうちに私も幽霊の存在になれてしまった。警官の幽霊は裂かれた喉をぱくぱくさせながらただ行ったり来たりするだけで、何をするでもないのだ。ただ歩いているだけなのだ。見慣れてしまえば、別に何ということもない。もう私を犯そうともしない。血もなくなってるし、私を犯すだけの力ももうないのだ。何を言おうとしても空気が穴からすうすう抜けるから、ぜんぜん喋れない。たしかに姉の言うとおりだった。裂いておけばあとくされがないのだ。私はときどきわざと裸になってみをくねらせたりして、その警官の幽霊を挑発してみた。脚も開いてやった。いやらしいこともしてみた。そんないやらしいことが自分にできるなんてとても思えないような、ひどくいやらしいことも。すごく大胆に。でも幽霊はもう何も感じないようだった。

 そのことで私はすごく自信を持った。

 私はおどおどすることをやめた。

「私はもうおどおどしてない。誰も怖くない。誰にもつけこまれない」と私はマルタに言った。

「そうかもしれない」とマルタは言った。「でもあんたはやっぱし自分の体の水音を聴かなくちゃいけないぜ。それはとても大事なことだからな」


 ある日電話がかかってきた。新しく建築されることになった大型火力発電所の設計をやってみないかという誘いだ。それは私の胸をわくわくさせる。いっぱい火力発電所をつくりたいのだ。

「でもな、お前、外に出たらまたひどい目にあうかもしれんぜ」とマルタは言う。

「でも私、やってみたいのよ」と私は言う。「最初からもう一度やってみたいの。今度はうまく行きそうなきがするの。もう私、おどおどしないから。もうつけこまれないから」

 マルタは首を振って、しかたねえな、と言った。

「でも、気をつけてな。油断はしねえようにな」とマルタは言った。

 私は外の世界に出た。そして火力発電所をいくつも設計した。私はまたたく間にその世界の第一人者になった。私には才能があったのだ。私のつくる火力発電所は独創的であり、堅実であり、そして故障ひとつなかった。中で働いている人にもすごく評判がよかった。誰かが火力発電所をつくろうとするときには、必ず私のところに話を持ってきた。私はすぐに金持ちになった。私は街のいちばんいい場所にビルをまるごとひとつ買って、その最上階で暮らした。ありとあらゆる警報装置をつけ、電子ロックを巡らし、ゴリラみたいなゲイのガードをやとった。

 そのようにして、私は優雅で幸せな生活を送った。この男がやってくるまでは。

 とても大きな男だった。燃えるような緑の目をしていた。彼はありとあらゆる警報装置を外し、ロックをひきちぎり、ガードをたたきのめして、私の部屋のドアを蹴破った。私は彼の前に立っておどおどしなかったけれども、男はそんなこと気にもしなかった。私は彼の前に立って服をびりびり破いて、ズボンを膝まで下ろした。そして私を力ずくで犯してから、私の喉をナイフで裂いた。すごくよく切れるナイフだった。それはまるで温かいバターを切るみたいに私の喉をぱっくりと裂いてしまった。あまりにも滑らかで、私にさえ切られたことがよくわからないくらいだ。それから闇がやってきた。闇の中で警官が歩いていた。彼は何か言おうとしたが、喉が裂けていたので、空気がすうすうと音を立てるだけだった。それから私は自分の体を浸す水の音を聴いた。そう、本当に聞こえるのだ。小さな音だけど、それはちゃんときこえた。私は私自身の体の中に下りていって、その壁にそっと耳をつけて、微かな水のしたたりを聴いた。れろっぷ・れろっぷ・りろっぷ。


 れろっぷ・れろっぷ・りろっぷ。

 私の・名前は・加納クレタ。


〈TVピープル・村上春樹・121〜132頁〉


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