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タイピング日記 / 千日の瑠璃0001

私は風だ。

うたかた湖の無限の湧水から生まれ、穏健な思想と恒常心を持った、名もない風だ。私はきょうもまた日がな一日、さながらこの世のようにさほどの意味もなく、岸に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりだった。ところが、太陽がぐっと傾いた頃、人間をひとり、長く生きても世情に通達しているとは言い難い男を、いとも簡単に殺してしまった。重ね着をし、毛糸の銅巻には懐炉(かいろ)まで忍ばせていたのだが、その釣り人の使い古された心臓は、私の易々たるひと吹きでぴたりと停止した。老人は声もあげずに頽(くず)れ、前にのめり、頭を清水にどっぷりと漬けたまま、異存なさそうにあっさりと息絶えた。腰のあたりに、青々とした発光色のイトトンボがとまって羽を畳んだ。

その代わりといっては何だが、しばらくして私は、別の命を救った。もし私の情がこまやかではなく、充分注意して動いてやらなかったら、ちっぽけな野鳥は間違いなく冷水の上に落下していただろう。飢えと寒さですっかり衰弱していた哀れな幼鳥は、星の面のように湾曲した死者の背中にしがみついて、ぐったりとしていた。活でも入れてやろうと、私はびゅっと吹きつけた。するとそいつは「寒い」と鳴き、最後の力を振り絞って、往生したばかりの人間の生暖かい懐へと滑りこんだ。

天に近い山々の紅葉が燃えに燃える十月一日の土曜日、静か過ぎる黄昏時のことだった。

(10・1・土)

千日の瑠璃(丸山健二)上・P3

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