人間は利害で成り立つ。
上記をあげたのは20時間前だ。
それからフォロアーがふたり増えて、ふたりいなくなった。
(注意)これは特定のだれかのメッセージではありません。みなさんも自分の一般論の記事として読んでくださいね。
ひとりは、ぼくをnoteに誘ってくれたKくんだった。
もうひとりは純文学を書いていた女性だ。
(みなさん、上記のふたりのあらさがしなどは決してせぬように、おねがいします)
さて、
読者のみなさんも、それぞれのアカウントのフォロアーはもちろん、それぞれのアカウントの個性によって集まってくると思います。
アカウント主の人柄であったり、企画「パチンコ好き」とか、「文章術」などのスキルアップのためとか。
他の記事でも書いてありますが、そもそも「noteのなかに友達はひとりとしていない」それが現実です。
仕事や金銭の利害でしか、世界は人間は回っていません。
家族でさえ、相続で骨肉の争いがあります。
たとえ、それが自分は好きだと思ってフォローをしていたとしても、
それはそのアカウントのフォローではなく「自分を慰めるためのもの」であったりするんじゃないかな。ぼくはそうです。
自分で作詞作曲で音楽を配信している、アカウントがあって、たまに一曲聴きます。(まだ通い詰めるとか考えると焦るのでフォローはしていませんが)ぼくは長い文章は、日頃、図書館で借りた小説などで疲れているから、手頃のながさの文章(できればエンタメ系、あまり考えないような、ハリウッドのようなやつ、ほんわか系とか、ショートショートとかね)そういうのをぼんやりと読んでいる。
それらは、ぼくの用途で、自分のためにポチを押している。それはそのひとにありがとうなんだけれど、とどのつまり「ぼくを癒してくれてありがとう」なんだ。
そこに(おれの記事もポチしてくれよ!とかの)利害があるかというと、ない。自分のためだけのポチだ。
上記のふたりは、お互いに小説を書いていて、なんだかんだ切磋琢磨できると思ってお付き合いしようとしていました。ぼくなりに。だが、前回の記事でもいったように「齢を食うと、他者の意見をほとんど受けつけん」これは自分で劇団やっていたり、仕事(中国ヤクルトの現地法人)で課長で面接官になったときとか上司になったときとか、すごくわかる。齢をとるとひと昔とった杵柄で自分ができ上がっちゃってる。だって芸能事務所のシンデレラオーディションで35歳獲らないでしょう。14歳だよね。それとおなじ。ぼくは44歳だが、以前のプロの作家の師匠に、ぼくの人格が変わるくらい文章を否定(お前の文章は価値がない、読者さまに読んでもらえる文章を自覚しろ!)されてようやくこのごろになって自分の文章が変わってきた。
結局は、下記の付箋のことばで、彼らに小説についてなにやらいうのはやめようと思った。
この、「対岸の彼女」(角田光代・著)の主人公のひとりの葵の大親友のナナコのセリフは、ぼくの心に強烈に突きささった。
この言葉で人間は、少なくともぼくは変わることができた。
以前、「正論は人を傷つける」という記事を書きました。
そういう彼らとはもう関わらないほうがいい。
無視したほうがいい。そう思えた。
みずからの人生を無意識からガラリと変えてしまう力。それが物語。小説の力だと思う。
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