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短編小説「プランB」(原稿10枚)


 勢いよくドアを開けた男は、白い息を吐きながらカウンターに座った。

 外は雨がふっていた。男はずぶ濡れだった。

「お客さま、ただいま支度中です」

 店主が現れた。年代物のワインが並ぶカウンターの奥では若い女が、細い棒状のものでエビの綿をせっせとそうじをしていた。

「いいんだ! おれにはこのおれのヤマがある! …あるんだ! …ッヘッヘ」

 男は突如、笑いだした。

「ご予約でしょうか? 」と店主はいった。

 男は黙った。が直ぐにまた笑いだした。

「ッヘッヘ、予約なんかじゃあねえよ。プランだよプラン。おれがあいつを殺っちまうか、おれがあいつに殺られちまうかの、プ、ラ、ン。これはその前金だ」

 ズボンから濡れた札の塊をだした男は一枚一枚剥がしてカウンターに均していった。

 奥でエビの綿そうじをしていた女が男の濡れた顔を見た。女はエビを氷水に沈めた。

「ッヘッヘ、そこのお嬢ちゃんもよ、このプランにすでに参加済だぜ、ッヘッヘ」男が奥の女にいった。女は奥の冷蔵庫へと消えた。

 男のプランは志(ゆき)が店に訪れる。店の主人と女は男が払った金のぶんの最高の皿を志にだす。それでプランは成立だ。後の殺しは店のなかか店を出た後で男がゆっくりと料理すればいい。店主は驚いた。

 カウンター一面に万札が敷かれていた。

「それでいいんだ。志がくればおれはどのみち殺すか死ぬんだ。おれの人生にもう金は必要ない。ッヘッヘ」

「それで本当に殺せるのかしら? 」

 奥から、卵黄と小麦粉に粉糖をねりこんだ生地をのばしこねる女の声が聞こえた。

「うるせえ、このアマッ! 黙れ! 」

 男は怒鳴った。今にも怒り狂いそうだ。

「私はプランに参加済じゃないの? でなきゃ黙るけど」と女はいった。男は黙った。

「ほかのプランは? 」

「そんなもんねぇよ! 志が現れなきゃおれの負けだ! 負けなんだよ! 」

 女が頭を傾げると、主人は奥に消えた。

 男は、首を傾げた。どちらが主人なのか、男は訝った。

 出てきた主人は男に、ではウチの最高のメニューを再現しましょう。といって小前菜、日本でいうつきだしをだした。

「これはブイヤベースのサフラン仕立て」

 男は、見たこともない旨そうな小鉢に目を見張った。魚のエキスが溶けた夕陽色のスープに、綿のような白い山が浮かぶ。まわりは雲海で極彩色の野菜が沈んでいる。

 それから主人は郷土の特色を生かした前菜を二品、スープ、魚料理、肉料理、デザートを次々と男にだした。男は目をつぶったままナプキンをとって顔を隠すように拭った。

「で、志がこなかったら? プランは? 」

「おれが死ねばいい! おれが死ねばいいんだ! ッへッへ」

 男は狂ったように笑った。

「これがプランB」


 奥の厨房から女の声が聞こえる。

 刻は夕暮れ。

 志は店に訪れなかった。

 カウンターに座った男の横に若い女が座っている。あるいは男の横に店主が座っている。

「こなかった」

「女はいつも本音を語るとは限らない」

「それが女だもの」

「たしかに、それが女だ」

「まあ食べなって」

「これ以上おれを惨めにするな。お嬢ちゃんが食べな」

 カトラリーの乾いた音が店内に響きわたる。

「でも、志って素敵な名だ」

「え? どこが? 」

「志の上部は武士の士ではない之く。志は心があるものの所にむかって之(ゆ)く」

「あなたの心が足りなかったんじゃない? 」

 女は喉を鳴らして笑った。店主も笑った。

「名前を褒められて嬉)しい女っているのかしら? 」

「少しはいる。それほど多くはいないかもしれない。だが、いる」

「で、あなたは志の名に惚れたわけ? 」

 また女は笑った。完全に男を侮蔑した目だった。だがうそ偽りのない完美な笑みだった。

「そんなくだらないことよりも美味しい料理を食べながら主人の話でも聞かない? 」

「その方がいいかもしれない」

「志だってあんたのことよりも店主のフランス時代の話を聞きたがるんじゃない? 」

「そうかもしれない」

 女は高笑いをした。男の顔に唾をはいた。

「おれは、おれの顔を虫ケラでもみるような軽蔑の目で笑う志の笑みを、見たことがない、志はおれの顔に唾ひとつ吐かなかった」

「ぎゃっはっはは、だから志は絶対にこない」

「ああこない絶対に! だから志は絶対にこない! 」

 憤怒にまれた男は女を殺した。

「チョ、なんでこの私を殺すのよ。プランBがまだ終わってもないのに」と女はいった。

 店主は奥で鴨のステーキを焼いていた。

「じゃあ、プランBはどこへ向かうんだ? 」

 男はいった。傾けるとそのまま落ちそうな首にナプキンを巻きながら、

「これがプランB」と女はいった。

「割かれた女の血に染まった生首がか? 」

「ち・が・う。自分が血を見るのよ」

                    

 一行の間をおいて男はこの世で絶対にあってはならない最もおそろしい事態に気がついた。男は自分が立っている場所に愕然として腰を抜かした。男はカウンターの止まり木から床に転げた。だがそこにはもう床はなかった。男は底のみえない奈落の闇へと何処までもどこまでも落ちていった。

 いきおいよくドアを開けた男は、白い息を吐きながらカウンターに座った。

 外は雨がふっていた。男はずぶ濡れだった。

「お客さま、ただいま支度中です」

 店主が現れた。年代物のワインが並ぶカウンターの奥では若い女が、細い棒状のものでエビの綿をせっせとそうじをしていた。

 男はなにかをいおうとした。だが奥でエビの綿をそうじしている女に睨まれて男はおしのように黙った。

 どしゃぶりの今夜この店に入る前から男はプランBをすでに知っていた。

 この原稿がプランBだ。

 男はこれまで書いた原稿を店主に渡した。

 店主は原稿を七度精読した。数ページ前の「女はいつも本音を語るとは限らない」の台詞をまた読みかえした。志が入店したらその歌詞にぴったりの曲をかけましょう。男にウィンクした。想い描いたとおりの選曲だった。男は膝からくずれた。

「この原稿で本当に志を殺せるとでも? 」

 奥から、卵黄と小麦粉に粉糖をねりこんだ生地をのばしこねる女の声が聞こえる。

 一瞬にして男の全身の毛穴が粟立った。恐怖で体が死後硬直のように固くなって動かない。息ができない! まさかこの原稿を!

「そのまさか。この原稿を志さんに読ませる」

「悪魔! 」

 尻尾の先が二股に分かれた女が奥で生地をオーブンに入れている。

「あくまでもこれは小説ですよ」

「彼女は志さんは職場のただの同僚だそれにひとづいや主婦だ。職場で話しかけたこともない主婦にフレンチ予約しました旦那さんに内緒で一緒にお食事どうですか? なんて訊けるか悪魔! 」

 女は焼きあがったばかりのパイ生地を素手で粉々にした。ここにきてようやくゲロンパしたわね。女は男に裂けた口を見せて笑った。

 それから女は粉々になったパイ生地をピレネー山脈のように横たわる柔らかなブランマンジュにまぶした。皿は「Je t'aime」と見えなくもない。

「悪魔! プランBは彼女がこなかったときのプランだ! 」

「そうよ、志がこなかったら、これらすべての最高級の美味しい料理と苦痛をあなたひとりで平らげればいい。自分の糞を食べる養豚場の醜い豚のようにね。ぎゃっはっははっはっはっはっは! 」

「悪魔! 」

「これを読んだ志さんが逆に気を遣って店にきたらそれこそ手練だ権謀だ! そんな卑怯なマネで彼女の気を引くなんてそれこそ… 」

「卑怯? うぬぼれも甚だだよ! あんたこの期におよんで格好つけるつもりかい? 作家の本性が卑しさが醜さがポロリだね。嘘をでっちあげて真実を暴くだって? このプランに格好いいオチでもつけるつもりかい? 」

 男は黙った。

「直接会って、その口で「ぼくはきみを愛しています」って「きみに一目惚れしてしまったんだ」って言える? その口で恐ろしくて言えないからこうやって回りくどいのんきな文章を書いているんじゃないの? それも虚構といううそ塗れの道具まで使って」

 男は拳を握りしめ自分の顔を力のかぎり殴った。口から血が吹きでた。ころん、と奥歯が床に転げ落ちた。激しい痛みが全身を走った。血の味がした。これは夢なんかじゃない。これからこのおれが現実を起こすことだ。

「あと何行だ? 」

「十行。といったところね」

 男は黙った。腹の底で叫んだ。

(こんなの小説なんかじゃない! 悪夢の回廊だ! 現実の無間地獄だ! )

 カウンターの奥で女は三又になった舌でデザートの皿をきれいに舐めている。

 男はここまでの原稿を店主に渡した。

 それから男はもう一部刷ってここからの原稿をにぎりしめ店をでた。

 男は夜の雨のなかに消えていった。


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