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キャスト(ソープ嬢)に、恋をしてしまった件。

8085文字・120min


登場人物はすべて仮名である。


 先月、台東区千束四丁目「新吉原」で仕事をしていた。

 戦後の赤線地帯、現在のソープランド街での高級ソープランドのボーイの仕事だった。

 まる二ヶ月間うつ病で寝たきりだった男が、いきなりなぜそんな場所に飛びこんで、まるでマグロの遠洋漁業の漁船や蟹工船の漁夫のような激務をしていたのか? はて、自分でもよくわからない。


 作家の師匠の事務所を兼ねる自宅が浅草3丁目にある。それが理由だったのか。よくわからない。


 理由はともあれ働いた。昔から現在までつづく吉原遊郭なる特殊な風習のある社会をこの目で、見た。

 瞬く間に、体重は五キロ、落ちた。

 仕事を始めて一ヶ月経って太りきった重たい身体がようやく仕事に慣れてきて、吉原でのソープランドのボーイの仕事がわかってきた矢先だった。

 俄然、ぼくの身体はやる気がみなぎっていた。

 八月一日からは、原稿用紙一枚でも、小説を書いていく。そう決意したちょうどその勤務日に店長に四度目の解雇通告を受けた。

「やらせてください! 仕事を続けさせてください! 」

 主任の田岡に「なん度、店長から言われても、自分から『やります! やらせてください! 』と言え! それが吉原なんだぞ! 」と口酸っぱく言われていたが、とうとう心が折れてしまった。




 昨日は、一日をかけて、ラブレターを書いていた。

 ぼくが働いていた高級ソープ「ムーラン・ルージュ」のキャスト『あ◉さん』に向けてだ。

 が、朝、起きて、冷静になってみて『そのラブレターは間違っている。』と思った。ポッと現れた、一月も仕事がもたなかった、四十過ぎの、吉原のボーイの恋文を、どこのだれが真面目に受け取るだろうか? 読まずに捨てられるのが落ちだ。パソコンに打ち込んだラブレターは削除した。


 

高級ソープ、「ムーランルージュ」は実在する。


 フランス、パリにある、赤い風車が目印の大衆キャバレー「ムーランルージュ」は世界中で有名だ。ご存知の読者もいるだろう。有名画家のロートレックが住み込んで、看板を描いた。彼はそこに生きる娼婦や踊り子たちの風俗絵を描いて名を馳せた。

 宮崎駿監督の「魔女の宅急便」の最初のシーン(箒が不安定にふらついて、キキが黒猫のジジにラジオをつけてもらうシーンの手前=ユーミンの「ルージュの伝言」が流れるシーン)。キキの先輩魔女が働く夜の街に、赤い風車が見える。一瞬の画で、観客は確認がむずかしい。だが、夜の街に「ムーランルージュ」の赤い風車が見える。となると、魔女の宅急便の舞台はフランスとなる。それも、主人公のキキの住む舞台は、海辺の街だ。もしかしたら、モン・サン=ミッシェルのほうだろうか? そう想像してみると、ぼくは心がウキウキする。


 さて、現実の吉原の「ムーランルージュ」は、吉原においては高級ソープランドで通っている。サービス料は65,000円だった。さらに上の料金のソープとなると「将軍」「ラブボート」「ライオンズクラブ」が入浴料100,000万円だ。ぼくが仕事終わりの0時ごろに、吉原を歩いて調査した結果、その三店が最高金額だった。

 大衆ソープと言われる相場は25,000円から35,000円だ。入浴料7,000円だとか8,000円だとかいうソープランド(「信長」とかetc… )を見たが。そういう店は絶対にお薦めはしない。


 大衆ソープと高級ソープのちがいは「ボーイがいる」ことだ。部屋にはきっちりと折り畳まれたタオルが高級感あふれる高さで積まれてある。


 階段を上がった、踊り場に、キャストは立って客を待っている。ボーイはフロントから渡されたバインダー(に挟まれたチャージ料)をキャストに渡す。

 一番奥の部屋(待合室)の扉が開けられる。

 待合室で待っているお客は、名前を呼ばれる。

「本日、セイラさまを本指名された田中さま、お部屋のご準備がととのいました」

 お客は、ロビーから出てくる。

 廊下ではボーイたちは皆、両膝(あるいは片膝)をついて、片手を挙げてお客さまを出迎える。

 待合室をでた客は、出口方面に向かって歩いてくる。途中、左手に階段がある。六段上がった踊り場に、事前にボーイにお客様の情報を知らされたピンヒールを履いたキャストは、立って待っている。

口上、

「本日の、ご指名ご来店、まことにありがとうございます。左手階段より、ご案内となります」


客は階段を上ると、キャストと顔をあわせる。

「やだー。ひさしぶり。また来てくれたんだぁ。ウレシい! 」

 踊り場でキスをする(お上(あが)り=帰りもキスで終える)。二人は手を繋いで階段を上がっていく。赤い顔の抽象画に映る二人を横目で見ながら、ボーイは締めの口上を言う。

「どうぞ、行ってらっしゃいませ。お時間まで、ごゆっくりお過ごしくださいませ」


 ぼくが恋に落ちた、あ◉さんは、いつも「天空」と呼ばれる屋上に出る四階の、踊り場で布団をかぶって寝ていた。背が低めの、カワイイ系のキャストさんだ。

 七月五日。

 ぼくが働き始めた初日だった。彼女を見たとき、胸がつんざかれるような衝撃を受けた。

 タイプとか、そう言うものに、理由はない。

 なぜ、みかんが好きか? 肉が好きか? 理由がないように。

 人間は、好きすぎると、対象物を見るのさえ、怖くなる。

 小学校の初恋のときも、中学校の大失恋のときも、北京に語学留学して、ある中国女性に恋に落ちてしまったときも、なぜか韓国女性と結婚してしまった。恋に落ちると、ぼくはこうなる。もっとも好きな人は「ぼくの手で壊せない」。畏れてしまう。

 もう、ぼくは四十を過ぎた。さらに言えば、アラフィフだ。

 ぼくの人生の恋愛観は「本当に恋に落ちた人とは、結ばれることはない」だ。もうすっかり身体に染みついている。

 仕事を始めて、一週間がたって。やっぱりだった。

 三階の天空の下で、大タオルを折っているときだった。


 となりの7号室で、あ◉さんは、接客をしていた。最初はチャキチャキの、元気のある声で、客の心を和ませていた。ぼくはソープは未経験だ。途中のサービスはわからない。が、明かに、最後は尻を突かれる音が聞こえてきた。

 ぼくの胸は、引き裂かれ、痛んだ。

「いったいなんなんだよ! この胸糞の悪さは! おれの女でもないのにっ!! 」

 ぼくは心で叫んだ。

 あ◉さんが弁当を頼んで、それをぼくが天空に持って行ったとき、ぼくはあ◉さんに声をかけられた。

「幸鶴(こうかく)のお弁当、頼んだのと、ちがうのが来ちゃったみたい」

 と、言われ、ぼくは言葉に窮してしまった。

「そうなんですか? 」

 あきさんも、少し、間がもたない様子だった。

「わたしさ、食べちゃうと太る体質なんだよねー」

 ぼくは顔を上げた。そのとき、初めてぼくは、あ◉さんの顔を、見た。

「ぼく、食べる女性はだい好きですよ。相手が食べる姿を見るのは好きなんです」

「じゃあ、食べてみようかなー」

 あ◉さんは言った。あ◉さんのその喋りかたは、ツンデレっぽかった。このツンデレっぽさがまた、ぼくを参らせるのであった。

 数日が経って、あ◉さんから、

「テリアのブラックメンソールを、買ってきて欲しいの」

 と言われた。

 その日の仕事が終わって深夜一時に。セブンイレブンに行って、ぼくは生まれて初めて、タバコを買った。

 ぼくはあ◉さんと二人だけでやり取りするのが怖かったので、翌日、ぼくは主任とあ◉さんが二人でフロントにいるときに、

「あ◉さんが言われた、ブラックメンソールは一箱、カバンに入れておきますから、いつでもご用命ください。すぐに渡せます」

 と言った。すると、主任から、とんでもない雷が落ちた。

「そう言うのは、勝手にやるな! そんなもんキャストに勝手に買わせに行かせりゃいいんだ! バカやろう! 」

 だが、この主任の大目玉は、逆にとるのが吉原流だ。表向き大目玉だが、暗黙の了解なのだ。その吉原の慣習を知るまで、ぼくは二週間かかってしまった。

さらに後日、あ◉さんから、

「ここ、電波悪いわよねー」

「ええ、確かに電波は悪いですね。他のキャストさんも、部屋で待機のときは、かなり悪いって言っていましたね」

「ここって、Wi-Fi、通ってるわよね? 」

「えっ? 」

「…」

 ぼくは、まわりをそっと見渡す。だれもいない。
 あるのは、先日ぼくが、階段に整理しまくった、ボディーソープやグリンス(性器を消毒する液体)やゴミ袋や、歯ブラシや、プラスティックコップや、小タオルや大タオルなどやカシミヤの箱ティッシュが整然とならんである。


「それは、あ◉さんはここのWi-Fiのパスコードを知りたいってことですか? 」

「まぁ、そう言うことかなぁ」

 ぼくの携帯のWi-Fiのパスコードは後輩のバイト(23歳)の潮野くんに解除してもらっていた。

「…了解しました。潮野くんは知っています。今日は休みです。彼に来てもらって解除して貰えます。しばしお待ちを」

「オッケー」

 あ◉さんとぼくはそんな「いわゆるフツー」のキャストとボーイの関係だった。それもすこぶる健全な関係である。ぼくは好きすぎて畏れて怖かったし、あ◉さんは風格があった。キャストでは姉御肌というか、ソープ嬢としても落ち着いた存在感があった。

 これで、あ◉さんがぼくに恋心があるなんて、ぼくが勝手に思いこむのは、やはり勘違いが甚だしい。

 その後も、ふとあ◉さんが天空に上がる後ろから、太ももの後ろの黒子を見たり、化粧前のあ◉さん顔の黒子をチラ見した。

 ある日、ぼくは天空に駆け上がって、

「あ◉さん、7号室で、待機でおねがいします」

「わたし、何度きても、部屋番号が覚えられないのよねー」

 またあ◉さんが7号室で接客のとき、胸が痛んだ。


 四度目のクビになって、最後にたばこ屋の「ちづかや」の女将さんに、

「ムーランルージュのボーイを辞めることになりました」

「え? ずいぶんと、いたんじゃないの?」

「たった、一ヶ月でしたが」

「あれ、そんな短かったの? 」

 犬が出てきて鳴いた。ぼくは犬の頭を撫でる。

「ゴボウ(犬の名前)も元気でね! 」

「よく覚えてるわね」

「女将さん、最後にお願いがあります」

「どうしたの? 」

「この、テリアのブラックメンソールはぼくのカバンからなんですが、ここに置かせてもらっていいですか? 」

「言伝かしら? 」

「あ◉さんのタバコなんです。ムーランルージュの別のボーイが来たらあ◉さんへと渡してください」

 ちづか屋の女将さんはメモ帳に『大澤からあ◉さんへ』と書く。

「もう一度、店長に頼んでみたら、吉原ってそういうところよ」

「ええ、でも一旦、田舎に帰ります」

「じゃあ、あきさんへのタバコの言伝は承知しました」

「お疲れ様です。さようなら」

「元気でね」

それから、ぼくは実家に戻って昨晩、あ◉さんへ、ガチのラブレターを書いた。

 が、あくる日になった今朝、やはり勘違いだと思い直して、ファイルは削除した。

 ぼくはいま、これを書いている。

 明日から、年内に小説を、四つ書く。
① ラーメン屋のバイトの話
② 出会い系の逆ヤリモクの話
③ 北の兵士が中国とロシアに占領された日本を救う話
④ 令和のソープランドの話(五月の殺人事件がオチ)


④ の話にはきっと、天空にキャストが寝ているにちがいない。そのキャストの太ももにはいくつかの黒子があって、化粧前の顔にも、かわいらしい黒子がある。ツンデレでとてもキュートなキャストだ。秋田から出てきた女で、本当は孤独で、きっとそのキャストは、本当の愛に飢えている。



ここに、メモ書きがある。


小説の冒頭だ。


 序


 令和五年、夏。七月五日。

 ソープランド街の一角にある吉原公園で、青々と繁茂するケヤキの木々は、真夏の湿った風に、揺れる。江戸時代では吉原遊廓の外周堀跡に面していた吉原公園は京町二丁目にある京町公園とおなじく「お歯黒どぶ」と呼ばれていた。

 小沢彰人は、なぜか台東区千束四丁目で働いていた。「台東区千束四丁目」といえば戦後の赤線地帯、吉原遊廓である。現在のソープランド街だ。

 今年の春、小沢は地元の中華料理屋ではたらき始めたが、ホールを仕切るゴッドマザーと呼ばれる店主の老妻に吊し上げられ、クビになった。心の支えと信じていたマッチングアプリの女性が逆ヤリモクで大失恋して、躁うつの病が牙を剥いて実家のベッドで丸二ヶ月の間、寝たきりになった。気がついて朝、鏡を見ると自分の姿がとんでもない巨体になっていた! なんと小沢の体重は三十キロも太っていたのだ。その夜、小沢は、意味もなくパソコンを開いて朝までエロサイトを、貪るようにみた。一週間後の七月の始め、なぜか小沢彰人は、吉原のソープ街にいたのだった。

 吉原ソープランド街の道端では、ごま塩あたまの老いたボーイたちが、入り口の階段に腰かけてケータイをいじったり、乾いた道路にホースで打ち水をしたりしている。所どころ濡(ぬ)れたアスファルトには湯気が立ち、白い送迎車や黒塗りのタクシーが色とりどりの店舗の前を通り過ぎる。鼠を追いかける一匹の野良猫が道路の中央で、止まった。野良猫は顔をあげる。そこには東京のシンボル、スカイツリーがそびえている。

 あぶら蝉が、一斉に鳴いている。


 高級ソープランド「フレンチカンカン」は吉原公園の前に店を構える。創業三十七年になる老舗の高級ソープランドだ。

 フレンチカンカンの店の前に、外国人が二三人集まっている。外国人たちはケータイを見ながらコバルトブルーの建物の看板に赤い風車のマークを見上げて店を確認する。それから、彼らは奥まったところにある自動ドアから店内へと消えていった。

「いらっしゃいませ! ベリー、ウエルカム! フロム・トゥ・フレンチカンカン! 」

 自動ドアはひらく。外国人客が店に入ってくる。

 彼らを迎えるは、足が沈むほどの小花文様のペルシャ絨毯だ。店内の通路は待合室ロビーまで真っ直ぐにのびる。ロビーまでの通路の脇にはボーイたちが立つ。ボーイたちは、大声でお客さまに「お声がけ」をする。

 自動ドアを入った右手に高級ホテルのようなフロントがある。

 小花文様のペルシャ絨毯の三和土を一段上がったあがり框に、室内専用の厚底の雪駄が、ずらりとならぶ。通常の予約客はまずフロントで入浴料金六万五千円を支払う。しかし外国人は外国人料金のプラス一万円を払わなければならない。彼らは計七万五千円をフロントで精算した。一人はフロントに一五万円をカードで払った。彼は二輪の客だった。二輪とは3Pプレイのことだ。

「お名前は、シュレックさま、ポケモンさま、トム・クルーズさま、でよろしいですか? 」

 受付の白髪の角刈りの男は顔をあげずに言う。

「イエス」

 フロントで本名を名乗る客は、少ない。

「いらっしゃいませ! 」

 サンダルや靴を脱いだ彼らは重厚なペルシャ絨毯の上にならぶ室内用の厚底の雪駄に素足を差しこむ。通路の脇にあるトイレや階段や柱の凹みには、白いワイシャツに黒いベストに黒ズボンの装いのボーイたちが立つ。外国人客は突き当たりの待合室まで一直線に伸びるながいペルシャ絨毯を、ゆっくりと歩いてすすむ。ボーイたちは頭を垂れて片手を挙げる。

 外国人客は、壁にいく人も張りついて立つボーイたちの間を、ゆっくりとあるいていく。外国人の一人は、まるで帝国の皇帝にでもなった気分でボーイに頬を赤くして頷(うなず)く。まるでイソップ童話でウサギたちにカボチャの神輿に載せられて担がれた裸の王様のように。

 ボーイたちは、頭(こうべ)を垂れたまま、片手を、力士の雲竜型のせり上がりのようにそりあげては一斉に、「いらっしゃいませ! 」を、唱和する。

 ソープランドには、高級ソープと大衆(格安)ソープ店がある。そのちがいは、キャスト(ソープ嬢)の質や接客サービスの内容(とくに高級店では即即といわれる即尺・即ベッド・NS(ノースキン接待)などやプレイ時間)をはじめ、接客部屋に積まれた高級感あふれるバスタオルのその折り目などのちがいは前提にあるが、それと、店内に膝をついて給仕するホテルマンのようなボーイがいるかいないかだ。それらが入浴料金の二万五千円から六万五千円に跳(は)ねあがらせる。

 雪駄が沈む厚いペルシャ絨毯が敷かれた廊下の突き当たりにある「ファースト」と呼ばれるお客さま待合室の、手前右手に、小さい部屋につながる焦茶色のドアがある。それは「セカンド」と呼ばれるバーカウンターがついた三畳間の第二待合室のドアだ。セカンドは「社長の事務仕事」や「キャストや新人ボーイの面接」や「太客(あるいは当局関係者)の待合室」となる。

 いまセカンドのソファには、今日から働き始めた、不惑過ぎの新米ボーイの小沢彰人が座っている。小沢のとなりには主任の田岡光善が座っていた。

 小沢は主任である田岡に叱られていた。

「オザワさん、ツメますよ」

 田岡は、静かに口を開いた。田岡の顔は笑っていた、しかしその一対のまなこは、冷徹で不敵で、不遜だった。まるで真夏の夜に現れてギョロリと光らせる能面を被った化け狐のようだ。

「え? ツメるって? 」

 小沢は、顔中を汗まみれにさせたまま、顔を上げた。

 それから小沢は、緊張でカラカラに渇ききった喉で唾を呑(の)みこんで、ゆっくりと田岡の顔を、のぞき見あげた。

 田岡は、ひとえまぶたをぱっくりと刮目させて、まるで蜘蛛の子が散ったように血走った眼球を、気狂(きぐる)いじみた笑みを、小沢に見せる。

「テメエを、ヤっちまうってことだよッ! 」

 田岡はどなった。

 田岡は小柄だったが大理石の机に置かれたクリスタル製の重厚な灰皿を片手で軽々ともちあげた。クリスタル灰皿の縁は、天井から下がるシャンデリアの黄色い明かりに一瞬、光った。それから田岡は頭上に掲げた灰皿を容赦なく大理石の机にふりおろした。

「バキンッ! 」

 田岡がにぎりしめるクリスタルの灰皿は、真二つに割れた。クリスタル製の灰皿は捲(めく)れるように割れ、回転して田岡の手に直撃した。

 田岡の手の肉は裂けて血は流れて、割れたクリスタルの断面から机に、田岡の血が滴り落ちる。

 田岡はパックリと割れた自分の手の傷口と黒く光る鮮血を見て、哄笑した。笑った顔をそのまま小沢にむける。開かれた田岡の、一対の目は狡猾な蛇のように光っている。

「前の職場の、ニュー女帝でよお、おれはよお。ガチでツメられちまってよお。それって、おれのことなんですよ」

「え? 」

 小沢は田岡がいう意味がわからないまま、声にならない返事をかえした。

 笑う田岡は、小沢のことばが聞こえていないようすだった。

「おい聞こえてんのか? 小沢さんよ。テメエにいってんだよッ。そんでよお、おれよお、ここ。頭のネジが飛んじまったんだよ。ひゃっひゃっひゃっひゃっ! 」

 また田岡は高らかに笑った。田岡の声は、明らかにセカンドから廊下に漏(も)れていた。田岡の笑みは、半面は表情のない能面で半面は燃える般若の顔のようだった。

 小沢は恐怖で息を呑(の)んだまま、呼吸ができない。

「すみませんでした」

 小沢は頭を深々とさげた。

「オザワさんねえ。『すみませんでした』って、そういうことばは、吉原では要らないんですよ。『できないことはやらないでください』。小沢さん。これから小沢さん、ウチでの仕事は一切やらないでください」

「え? 仕事をやるな。ですって? 」

「テメエ、上司にタメ口きいてんじゃねえよッ! 」

「すっ、すみませんでした! 」

 小沢はまた頭を深々とさげた。

「じゃあ、小沢さん。従業員全員に土下座をしてきてくださいね。土下座ですから『ほらほら、そのお頭を、おあげなすって』って言われるまでは頭は絶対にあげるんじゃねえぞっ! 」

「了解しました」

「『了解しました』じゃねえよ! うちは自衛隊じゃねえんだよ! 『かしこまりました』。だろうがッ! 」

「かしこまりました! 」

 小沢は店長とバイトをふくめたボーイスタッフ全員に土下座をしに向かった。

■メモ

田岡の顔の描写

小沢の上京の理由(三行で)


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