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【小説】グレープフルーツムーン#13


 明け方近くになって、オレの腕に抱かれたまま眠っていた英理奈さんが目を覚ます。

「大丈夫?」
「私、寝てた…?」
「うん」
「……ごめん」
「いや、もともと無理させたのオレだし…」

 オレの腕の中から抜け出し、ベッドの上で膝を抱えて座る。

「ずっと、起きてたの?」
「……うん」

 寝顔を見つめながら、ただひたすら英理奈さんの告白を思い返していた。

「……ほとんど話したと思うけど、他に何か、聞きたいことある?」
「……、いや、大丈夫」

 聞きたいことが、無いわけではなかったが、もうこれ以上無駄に知りたくも無かった。

「そう。…なら、最後に、一つだけ。本当はこの話をしたかったの。長池くんに会わなければ、浅野さんの話はするつもり無かった」

 英理奈さんの声は微かに震えている。

「…私、仕事辞めた。今月中には、この部屋も解約して、この街を出て行く、だから……」

 ベッドに横になったまま、見慣れた天井を見つめる。ここではじめて英理奈さんを抱いたあの日から、いつかこの日が来る事は、いくらバカなオレでもちゃんとわかっていた。

「そう、わかった。…ごめん、ちょっと眠らせて」

 そう言って目を閉じる。
 脳裏に浮かぶのは、今まで凝視していた天井の模様と、彼女の少し寂し気な横顔。
 英理奈さんは何か言いたげだった。けど結局何も言わず、しばらくオレのすぐ隣でじっと座っていた。今、英理奈さんが何を思っているのか、本当は知りたい、けど、もう何も知らない方がいい…。どうせこれでもう何もかも終わりなんだ…。
 程なくして英理奈さんは眠ったふりをしているオレに寄り添うように横になり、オレの肩に額をくっつけてきた。抱き締めたくなる衝動を必死で抑えて、やがて聞こえてきた規則正しい寝息につられ、オレもやっと眠ることが出来た…。


 あの日から10日程経った。
 あれから英理奈さんとは一度も会っていないし、連絡もしていない。オレは今までと何も変わらず、大学とバイトとバンドの日々だった。本当に何も変わらない。オレと英理奈さんが一緒にいなくても当然世界は終わらないし、誰も困らないし、オレも、きっと英理奈さんも、このまま普通に暮らしていける。少しだけ変わった事と言えば、自宅のリビングで過ごすことが増えた。と言ってもやっぱり家にいる時間は少ないから対してそれも変わりはないが。母親とは少しずつ、会話が増えた。散々勝手しておいてさらに身勝手な話かも知れないが、理由なく一緒にいられる家族の存在が、今はただありがたかった。
 後悔が全くない、と言ったら嘘になってしまう。だけど今さら足掻いたところで結末は変わらないし、下手したらさらにお互い傷を増やすだけだ。…それでも、今頃どうしているんだろう、引越しの準備は済んだのか、まだあのマンションにいるのか、それとももう行ってしまったのか…、気を抜くとつい彼女の事を考えてしまう。その度に溜め息をつきながらオレは昨日も夜中までバイトに励み、今日は朝から大学、夕方からはバンドのスタジオ練習へ行く。 
 立ち止まっている暇は、無いんだ…。



「終わったー!さぁ行くか!!」

 バンド結成以来お世話になっているスタジオでの練習を終えて外に出ると長田が叫んだ。 

「悪い、オレ今日パス」

 飲んで騒いで、いつも通りに振る舞う自信はまだ無い。

「ダメだよ、今日は湊くんのアパートでボク特製鍋パーティーだから全員強制参加。もう仕込み終わってるからね。はいみんな行くよー」
「…いや、悪いけどオレ」
「…もうそろそろ、話してくれてもいいんじゃない?」
「まぁ、どうしても言いたくないってんなら仕方ないけどな」
「話して楽になる事もあると思うよ」
「ずっとこのままで次のライブに支障きたしても困るしな」
「あぁ、それが一番重要だね」
「いや、何のことだよ」
「おまえ、マジで自覚してねぇの?今日も歌詞間違えまくりだし、次の曲つって、言ってたのと全然違う曲始めるし、下に着てるTシャツもずっと裏返しなのいつになったら気付くの?」

 言われてオレは長袖シャツの下に着ているoasisのTシャツを見る。マジで裏返しだ。朝からだから大学も一日これで過ごしてたのか。せめて気付いた時点で誰か言ってくれよ。この調子だとバイトでも何かやらかしてる可能性あるな…。

「ま、とりあえず行こうぜ。明日予定ないんだろ、果てるまで飲もう」
「…なんでオレの予定知ってんの?」
「それも確認したじゃん!だからみんな無理矢理今日に予定合わせたんだよ!」
「まじで重症だな。よし、しこたま飲ませて吐かせよう」

 みんなの勢いに押され、自分に呆れつつもつい笑ってしまう。まったく、変なヤツばっかりで面倒臭い時もあるけど、こいつらと一緒で良かった…。なんて、絶対に口に出しては言わないけど。

 湊のアパートに着くと本当に鍋の準備が整っていて後は鍋を火にかけるだけだった。鍋が煮えるまでの間に食べられるよう斉藤は前菜まで用意してくれていたのでそれをつまみにさっさと飲み始める。そしてこれまでずっと秘密にしてきた英理奈さんとの事を始まりから終わりまで、オレは何一つ隠す事なくみんなに話した。

 …だけど、意を決して全てを話し終えたと言うのに、みんな無言でひたすら鍋を食っている。…何でだよ。オレの心の傷がえぐられただけか?

「…あの、誰か、何かご感想はありませんか?」
「……、いや、ちょっと想像以上で…何て言っていいか」
「……ボクも、そこまでとは」
「……まだ片想い拗らせてるくらいかと」
「……おまえ、今までよく耐えたな。そらぶっ壊れるわ」

 え、そこまで? 

「まぁ前も言ったけどオレだったら相手に彼氏いる時点で無しだから、ある程度はそこ行った時点で自己責任つーか、簡単ではないだろうとは思ってたけど、それにしてもなぁ…、そんな本気だったんだ」

 言葉を選んで湊が言う。

「うん、ボクもそれがびっくりした。まぁ好きなんだろうなぁとは思ってたけど、なんて言うかもう、理性失ってる感じ?」

 言葉を選んでるようで選んで無い斉藤。

「けど、この前のライブの時なんか、いい感じに見えたけどね2人」
「ああそう!何でもないとか言っておいて、出番終わったら1人さっさと居なくなっててやっと見つけたと思ったら2人でライブ楽しんでやがって何だあいつ!とか思ってたのに」
「あれな、ほんと楽しかったよ。正直あの時もうオレは付き合ってる感覚だった。ほったらかしてばっかの彼氏より絶対オレといる方がいいだろうって、自信もあった」

 それなのに、現実はその直後にオレの自信は見事に砕け散った。

「それで、結局向こうはおまえのことどう思ってたわけ?」

 返答に詰まる。

「どう…、だろうな。わからない」
「は?どういう事?」
「いや、だから、彼女の気持ちは聞いてない」
「なんで?一番大事な事だろ」
「そうかな…」
「じゃあおまえの気持ち知って何て言ってた?」

 オレの気持ち…、

「……言ってない」
「…マジか?おまえそれ噛み合わなくて当然だろ。なんで言わねーの」

 心底呆れた顔で長田が言う。

「…言って何になる?言ったら彼氏いるからごめんなさいで終わりだろ。必要以上に求めなければ、許される限りはとりあえず一緒にいられるわけで…」
「けどそれじゃ結局都合の良い相手で終わりだろ」

 …その通りだ。けど、それでも…、

「それでも、言わなくて良かったんだよ、オレの場合は。英理奈さんと彼氏との関係だけじゃない、浅野さんていう存在があったから、オレの本当の気持ちなんて知ったら英理奈さんは余計苦しんだと思う。それに、オレといると英理奈さんはずっと過去に囚われ続ける事になるから…」
「けど、都合の良い相手だったとしても、お前と一緒にいたかったんじゃないの?本当に無理だったらわざわざトラウマ呼び起こすようなヤツと一緒にいないって普通」
「だから、多分それは、過去に叶えられなかった事をオレといて満たそうとしてたんじゃない?」

 自分で言っててまぁまぁ虚しくなる。

「…まぁ、それも一理ある気がする、けどさ、浅野さんて人の事は一先ず置いといてだな、おまえはあの人の気持ち、知りたくなかったわけ?」

 英理奈さんの気持ちなら散々考えた。

「オレの気持ちを言ったところで、ってのと同じだよ。英理奈さんがもしオレの事を好きになってくれてたとしても、結果は変わらないし、彼女が前を向いて誰かと一緒に生きて行きたいならそれは、…オレとじゃ無理だから」
「そう言われたわけ?何でおまえが向こうの気持ち勝手に決めつけてんの」 

 湊が語気を強めて言う。

「……それは…」
「おまえは本当の事知って自分が傷付くのが怖かっただけだろ。実際浅野さん?の事知って逃げ出したわけだしな」
「別に逃げたわけじゃ…」
「まぁまぁ、あ、お鍋少なくなってきたね。もうちょっと足そうか。ビール空いてる?ついでに持ってくるー」

 オレと湊が険悪なムードになりかけると斉藤はいつもこうやって間に入ってくれる。 

「…逃げたつもりはない、けど、いまだに浅野さんの事を想って泣いてしまう英理奈さんを見てたら、オレじゃ無理だって、そう思ったらもう諦めるしか、それが逃げてるって言うんなら、そうなんだと思う…」
「あのさ、みんなの話聞きながら思い出してたんだけど…ちょっと自分の話していい?」

 ずっと黙っていた小原が急に話し始めた。

「あぁ、いいけど…」
「オレさ、高校1年の時、2個上の女の先輩にすげぇ可愛がってもらってて、その理由が親が離婚してから離れて暮らしてる弟にオレが似てるとかだったんだけど、それでもオレはその先輩の事が好きだったの。家が同じ方向だったから一緒に帰ったりしたくらいで、結局告白も出来ず先輩は卒業して、それきりなんだけど…。当時は何も出来なかったの結構後悔してしばらく引きずってた。さすがにいまさら会いたいとか付き合いたいとかは無いけど、嫌いになって会わなくなったわけじゃないから、好きか嫌いかで言うとやっぱ好きなままで、だから今その先輩にもしもの事があったら、ちょっとオレ正気でいられないかも、って思った。だから、その、英理奈さん、の気持ちも何となくわかるし、おまえの気持ちもわかると言うか、何も変わらないにしても後悔だけはしてほしくない…かな。ごめん、何が言いたいのか、よくわかんないね」

 そう言うと小原は照れ臭そうに残っていたビールを一気に流し込む。

「へぇー、小原くんもそんな切ない恋してたんだねー」
「まぁ、そうだよな。誰もが自分の身近な人とか大切な人とかが死ぬかもなんて思って生きてないもんな。何があるか何てわかんねーし、その、英理奈さんだって、明日死なないとも限らないわけだしな」

 縁起でもない事言うなよ。…けど、そうだ。湊の言う通り、そうやって英理奈さんは浅野さんと二度と会えなくなってしまったんだ。

「…あのさ、オレもちょっと思ったんだけど、いい?」

 長田が手を挙げて言う。 

「何?」
「いつかの賭け、あれオレの一人勝ちだったんじゃね?」

 …何の話だ、あ、アレか。オレと英理奈さんの初めての日のね。

「全員金返せ」
「えー、今更?もういいじゃん、いくらだったか覚えてないよ」
「そう言うわけにいくか。だいたいおまえが隠すからだろ」

 オレのせいか…、まぁ関係無いとは言い切れないな。

「もう面倒くさい。じゃもう今日の鍋代今までの分は無しでいいよ。ところでもうお酒無くなりそうなんだけど、みんなペース速すぎ。長田くん買って来てー」

 斉藤が心底面倒くさそうに言う。 

「何でオレなんだよ、別にいいけど」

 何だかんだ文句を言いながらも基本人の良い長田はこうやっていつもおつかいに行かされる。一人暮らしの湊のアパートには昔からこんな風に集まる機会が多くこの辺の地理もみんな把握済みだ。 

「何だよ、雨降ってんじゃん最悪」 

 長田が玄関のドアを開けると確かに外から雨の音がした。

「あー、オレの傘使って」 

 湊が玄関に置いてある自分の傘を長田に渡す。

「この雨の中誰も一緒に行くとは言ってくれないのな、まぁいいけどさ。適当に買って来るわ」 

 独り言のようにブツブツ言いながら雨の中長田が一人出て行った。

 ―夜に降る雨がダメで…―

 何かに付けて英理奈さんの事を思い出すのが癖になってしまっている。彼女と出逢ってからはまだ数ヶ月しか経っていないというのに。夜に降る雨がどうして苦手なのか結局聞けなかったな。それだけじゃない、聞けなかった事、まだ知らない事、たくさんあったはずだ。
 今頃どうしているんだろう。彼女の部屋に初めて行った、あの雨の日を思い出す。濡れた髪、潤んだ瞳でオレを見ていた彼女はあの時何を思っていたのか。…少しくらいはオレを想ってくれていたのかな。
 こんな雨の夜に、もしまだこの街にいるのなら、一人で平気だろうか…。
 唐突に玄関のドアが開き長田が帰って来た。開かれたドアの向こうで救急車がサイレンを鳴り響かせ通り過ぎて行く。

 ―明日、死なないとも限らない―

 ついさっきの会話を思い出す。もし、もしもまだ、間に合うのなら…。 

「……オレ、行ってくる」


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