【小説】ヒア・カムズ・ザ・サン#2
その後も何度か阿部さんに連れられて彼はこの店を訪れた。時にはバンドのメンバーも全員一緒に。ライブ後の打ち上げの2次会に利用してもらうこともあった。
そのうちに、すっかりこの場の空気に慣れた彼は一人でもふらっと飲みに来るようになった。
「理香子さん、ビールおかわり」
彼はいつもカウンターに座って私か樋口くんかマスター、時には仲良くなった常連さんと話をする。若いのに古い洋楽に詳しくて、50を過ぎた常連のおじさん達もそんな彼がかわいくて仕方がないようだった。
「そういえばリカさんの事、理香子さんて呼ぶんだね、呼び難くない?リカコさん…」
樋口くんが素朴な疑問を彼に投げかける。本名の『理香子』が呼び難いと言うのは実は昔から結構言われる。逆に『リカ』や『リカちゃん』は呼び易いらしく、私はいつも『リカ』と略されて呼ばれるし、私自身もそれに慣れていた。そういえば何で彼がいつの日からか私の名前を略さずに『理香子さん』と言うようになったのか、理由は聞いた事が無かった。
「あぁ、みんなが呼ばないならオレはあえて理香子さんて呼ぼうかなって、名前ってちゃんと意味があって付けられてると思うから…」
…何そのキュンとする理由。ちょっとドキッとしたわ。天然なのかな。
「…えっと、リカさん結婚してるの、知ってるよね?」
樋口くんも彼の天然具合を感じ取ったのか予想だにしなかった解答に質問した本人がドギマギしている。
「知ってますよ、もちろん。あ、そんな変な意味じゃ無いですから」
私と目が合って急に焦り出した。自分の言った言葉がどう捉えられたのかようやく理解したらしい。
「もう焦ったわ。自分結構人たらしなとこあんのな」
樋口くんには言われたくないだろう。私は樋口くん以上の人たらしには出会った事がない。もうちょっと顔が良ければ簡単にナンバーワンホストになれたろうに、とよく陰で言われているのは樋口くんには内緒だ。
「理香子さん、リクエストしていいですか?」
「もちろん、何?」
ちょうどレコードが終わりかけだった。
「ホワイトアルバム、C面から…」
よくあるリクエストなのに、少し動揺してしまった。まだ若い彼を見ているとどうしても昔の事があれこれ重なってしまう。
「…あれ、無かった?」
「あぁごめん、もちろんあるよ」
レコードの棚から真っ白なジャケットのアルバムを迷う事なく手に取る。ザ・ビートルズの通称『ホワイトアルバム』、C面の1曲目は『バースデイ』、懐かしいな…。
「ビートルズ好きだよね。この前も和田さんと延々ビートルズ談義してたもんね」
樋口くんはあまりビートルズには詳しくない。樋口くんはどちらかというとレッチリやニルヴァーナあたりが好みらしい。
和田さんというのはここの開店当初からの常連さんでもうすぐ還暦。超が付くほどのビートルズマニアで家にはビートルズ関連のお宝がゴロゴロあるとか…。
「和田さんね、すごかった。ほんとに詳しくてすげぇ勉強になった。また話したいなぁ」
しばし今日はこの場にいない和田さんの話題で盛り上がる。
彼くらいの年齢の子なら理屈っぽくて上から目線で語る年上の世代を疎ましく思ってもおかしくないのに、彼にはそういう部分が無い。そんな姿勢からもこの子は本当に音楽が好きなんだなぁと見ていて感心するし微笑ましくなる。
C面6曲目は『ヘルター・スケルター』このイントロのギターはいつ聴いても胸が掻きむしられるように熱くなる。
「え、すげぇロック。ビートルズってこういうのもあるんだ、かっこいー」
樋口くんが珍しくビートルズに食い付いた。こうやってビートルズは未だに新しいファンを増やしていく。
「ヘルター・スケルター、オレよく演ってました。今のバンドでも、大学生の頃は結構カバー曲もライブに取り入れてて、…最近はオリジナルばっかだけど」
彼がステージで歌う『ヘルター・スケルター』を想像して胸が騒つく。
「…へぇ、観てみたかったな」
「オレも久しぶりに演ってみたくなりました。次のスタジオ練習で歌ってみようかな…」
「そういえばしょっちゅう来てくれてるようになった割にはおれライブ観に行った事も無いしどういう音楽やってんのかもまだ知らないな。聴かせてよ。CDとかあるの?つーかライブ行ってみたい」
樋口くんが食い気味に言う。
「あー、CDは自主制作のなら。…実は今、ほんとはまだあんまり言っちゃいけないんだけど、阿部さんとこで全国流通盤のレコーディングさせてもらってて、もうすぐ終わりそうだから、出来たらそっち聴いてほしい…。あと、ライブはどうしても週末の夜が多いから来て欲しいけど、誘い難くて…」
「何?全国…なんちゃら…」
「全国流通盤、いわゆるインディーズですけど、全国のCDショップとかにも並べて貰えるんです」
「え!凄いじゃん!」
「まぁ、まだインディーズだけど、でもやっとここまで来たから、嬉しいです。あ、でもほんとにまだ言っちゃいけないヤツなんで、特に阿部さんにはオレが言っちゃった事絶対内緒で…」
バツが悪そうにそう言っているけど、その瞳はキラキラと輝いてとても良い表情をしていた。
今日『ヘルター・スケルター』を聴いたせいか、久しぶりに昔の夢を見た。見る物触れる物何でも新鮮で、どんなくだらない事にでも真剣で、周りが見えなくなる程見栄を張ってばかりで…。
今ならもっと素直にいろんなこと話せるのに。あの頃言えなかった事、聞きたかった事、たくさんある。
もう一度、会いたいよ…。
『ドアーズ』では毎月第2日曜日に飛び入りの弾き語りライブをしている。一応エントリー制だけどよっぽど多くない限りいつも最後はルール無視の何でもあり状態のセッション大会になってしまう。
今日も馴染みのメンバーが順番に歌い、みんな一通り回ったら後は歌いたい人が何度でもマイクの前に行って歌い、それに合わせてみんなで大合唱になる。いつもの光景だ。
愛すべき常連のおじさん達がボブ・ディランの『ミスター・タンブリン・マン』を大合唱している時、店のドアが少しだけ開いた。私の位置からは誰が来たのかわからない。ドアのすぐ近くにいた樋口くんが笑顔で対応してくれ、来店者はすぐに顔を覗かせた。いつもの彼と、彼のバンドのメンバーの子だった。
ちょうど大合唱が終わる頃樋口くんに促され空いていたカウンター席に2人が座る。
「いらっしゃい、びっくりした?」
「はい、ここでライブもしてるって言うのは知ってたけど、そういえば日曜日に来たのは初めてかも。いいな、すげぇ楽しそう」
2人は揃ってビールを注文したのでサーバーからビールグラスに手際良くビールを注ぐ。
「そうだ。せっかくだし歌ってよ」
樋口くんが提案する。私も聴いてみたい。
「え、いいんですか?そんな急に来て急に歌っても」
「全然良いよ。ねぇ?マスター。もうこの時間はカオスだし、何でもあり」
マスターもニカッと笑って頷いている。
「あー、でもギター持って来てないし…」
「え、自分ギター弾けるの?」
「…樋口さん、オレいちおうギターボーカルなんすけど…」
バンドメンバーの子が吹き出して笑っている。…ごめん、私も知らなかった。ボーカルだけだと思ってた。
「おれのギター使っていいよ」
先程ボブ・ディランの大合唱を先導していた三浦さんがいつの間にか側に来てギターを差し出している。三浦さんはこの近くで『サイモン』という喫茶店を経営していて『ドアーズ』開店当初からの常連さんだ。
「いいんですか?うわ、J45じゃないですか、マジで借りて良いんですか?じゃあ、せっかくだしちょっとだけ…、あ、あのカホンはこの店のでしたよね?おまえ叩いて」
「え、オレもやんの?」
バンドメンバーの子が面倒くさそうに言う割にはすぐに立ち上がり一緒にステージへ向かった。仲良しだな。
『あー、何か急にすみません。オレのこの店での認知度が思ってた以上に低かったという事が先程判明致しまして、このままではいかんぞと、うわ、このギターマジですげぇ良い音しますね、いいなぁ、欲しいな…。あ、用意出来た?…と言う事で、えー、じゃあ本気出します』
ギターのチューニングをしながらサラッとMCをこなす。
『じゃあ、…ドント・レット・ミー・ダウン』
そう言ってギターを弾き、ザ・ビートルズの『ドント・レット・ミー・ダウン』を歌い始めた彼の姿は、ついさっきまでとはまるで別人のようだった。顔付きは鋭くなり、普段の物腰の柔らかい話し方とは全く違う、荒々しい歌声とギター、そうかと思えば時に繊細で憂いと熱を帯びていて…。
こんな色気、どこに隠し持ってたの。これじゃ、まるで…。
とても直視出来ない。私は視線を落とし、耳だけをステージに集中させた。やっぱり、この子は嫌でも昔の事を思い出させる…。
「ありがとうございました」
歌い終えて歓声と拍手の嵐の中満足そうに笑っている。最後はやっぱり大合唱になっていた。
「すげーじゃん、めっちゃ上手いし。いやーさすがプロ。CD出来たら即買うし友達とかにもおすすめしまくるわ」
「いや、だから樋口さんその話はダメだって、それにまだプロじゃないし…」
「何おまえ、言ったの?阿部さんに締め上げられるぞ」
「おまえも頼むから絶対にバラすなよ」
「自分のせいだろオレは知らん」
…やっぱり別人だったんじゃないだろうか、そう思ってしまう程に普段は普通の男の子だ。
「あ、理香子さん、どうでした?」
「え、あぁ、うん。選曲が、…ずるい」
「えぇー……」
カホンを叩いていたバンドメンバーの子がまたツボにハマったらしく笑っている。
…ほんとに、ずるいよ。なんでよりにもよってあの曲を歌うの。あんな歌とギター聴かされたら、もう一度、聴きたくなってしまう…。
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