純文学とは何か?その問いの答えはこうだ①
長く新潮の編集長を務められた矢野優さんが5月号を最後に退かれるという。お疲れさまでした。私はほぼ矢野さんと同世代。就任直後に金原ひとみと綿矢りさがWで芥川賞を受賞し、「文学に新しい波がきていると感じた(Real Sound 2021.06.27より)」そうだ。あまりに若いふたりが受賞したから、絶望した私とはやはり大違いだ。それから、素晴らしい作品を次々と世の中に送り出され、それらを芥川賞受賞にも導かれた。矢野さんの審美眼によって、私はたくさんの「よい」作品を純文学小説として読ませていただいた。いつしか私もいつか新潮新人賞をとりたいと思うようになっていた。新潮に掲載される作品、とくに新潮新人賞受賞作品は純文学小説の最たるものと認識し、疑いもせずに貪り読んだ。ところが、矢野さんは「読者に『これが純文学だ』と提示するため試行錯誤した21年間だった」と振り返られた(読売新聞2024.04.02)
名編集長でも言い切れないのだから、少しばかり純文学をかじった者がああだこうだと論じられるわけがない。純文学とは何か? その問いに対する的確な答えはない、とするのが妥当だ。それに、定義され得てしまったら書くものが限られてしまう。SNSの利用と同じように、どんどん視野が狭くなって存在すら危うくなるだろう。だからファジーなままがいいと思う。実際、これまで五大文芸誌に掲載されてきた小説にはいろいろな種類の作品があり、文体やテーマ(その有無を問わず)、モチーフなど多岐にわたっている。それらすべてが純文学作品なのだ。
でもあえて言う。
もし私が「純文学とは?」と問われたとしたら何と答えるだろう。その答えはこうだ。書き手が純文学作品を書こうとしたものなら、それが純文学作品なのだ、と。
だから私ももうしばらく「純文学作品」を書いていきたいと思う、未作家だけど。
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