見出し画像

世界一不幸な母親

1
彼女は世界一不幸な母親ーー
彼女は大切な、大切な息子を失ったのだ。
それは曇り空の、冷たい9月の月曜日、
息子は自分の心に、大きな穴を見つけた。
彼はいつものように、朝家を出て、
そして再び帰って来ることはなかった。

彼女は世界一不幸な母親、
けれど明るさと勇気を持った女性。
彼女は大切な、大切な息子を失ったとき、
墓の前で泣くことしかできなかった。

2
彼女は何日も息子の帰りを待ち続けた。
けれど時間は扉も開けず、ただ消えていった。
「あの子は今、誰かと一緒かしら?」
「まさか何かの事件に巻き込まれてるんじゃ?」
「あの子は遠くに? いや、近くにいて、
きっと出て来られない理由があるんだわ」
彼女は昼も夜も、様々な想像をした、
昨夜の答えが、今朝は新たな疑問となりーー

そうさ、彼女は世界一不幸な母親、
けれど明るさと勇気を持った女性。
彼女は大切な、大切な息子を失ったとき、
墓の前で泣くことしかできなかった。

3
12月の、霜で覆われたある朝、
公園の管理人が森の奥で死体を見つけた。
警察は木からぶら下がった死体を下ろし、
身分証から、家族に連絡をしたーー
彼女は台所でジャムを煮ていた。
そのとき、ふと「ママ」と呼ばれるのを感じた。
受話器を握りながら泣き崩れた彼女に代わって、
夫が話を聞き、出掛ける支度を始めた。
「さあ、俺たちの息子を迎えに行くぞ、
行って、あの子の苦しみを終わらせてやろう」

そうさ、彼女は世界一不幸な母親、
けれど明るさと勇気を持った女性。
彼女は大切な、大切な息子を失ったとき、
墓の前で泣くことしかできなかった。

4
彼女にはわからないーー
息子が何故自ら死を選んだのか。
中には幽霊と話せるという人々もいるが、
彼らは失ったものから目を背けてるみたいだ。
例えば、何かの繋がりがあって、
それが母親と子供を引き合わせるなら、
きっとそこには別れもある、
それが順序というもの。
彼女は愛を経験し、
そして死に触れて、
幸福とは何かが少し分かったのだ。

そうさ、彼女は世界一不幸な母親、
けれど明るさと勇気を持った女性。
彼女は大切な、大切な息子を失ったとき、
墓の前で泣くことしかできなかった。


5
彼女は世界一不幸な母親ーー
彼女は大切な、大切な息子を失ったのだ。
彼女は涙を流しながら見つめる、
何億光年と離れた空の彼方を、
何兆個とばらまかれた足元の砂を、
その中で出会った2人の奇跡を。

そうさ、彼女は世界一不幸な母親、
けれど明るさと勇気を持った女性。
彼女は大切な息子を今でも愛しているからこそ、
墓の前から立ち去ることができたのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?