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「あ、共感とかじゃなくて」展に行って


先日の帰省中にどうしても行きたかった展示を見に東京現代美術館へ。

その名も「あ、共感とかじゃなくて」

あまりにも「分からない」に飲み込まれた展示でした。
でもそれを知ろうとする面白さと「分からない」を考え続けるのが心地よかった。

分からないから理解しようとするんじゃなくて理解できないまま受け入れるのがこの展示の見方かなって個人的には思いました。

最後にはみんなの「共感」に対する考えが書いてあって、私も書出したら裏までいってた

1番好きだったのは

「美術館に行くといつもわけわかんねぇなって思うけど今回はとびきり意味がわからなかった。でも分からないからいいんだと思う。」

S的思考だけどNの私も確かに、とおもった。
というか共感についてあーだこーだ書かれてなくて、でも訳が分からないと思いながらも美術館に足を運び続ける面白い人だなぁととても好きな感想だった。

展示全体の感想というと
なんとなく共感とか、相手の気持ちを考えるとか得意だと思っていたことが、この展示には全く通用しなくて、「背景を想像してみましょう」って言ったって与えられるものがあまりにも破片すぎて、想像しては消して、想像しては消して。結局この人たちは何をしたいんだろう…いや全くわからん、、、。むしろ、「これが私のアイデンティティだ、君に理解されたらアイデンティティじゃなくなくなるさ」がひしひしと伝わってきて、理解したと思うことが失礼にすら感じてきた。よし、みたまま受け入れよう。考えることは、「この人の中にあるものを形にしたらこうなった。この人たちの表現したい何かなんだろうな。」と「分からない、けど解られない何かを持っている、大事にしている人なんだ」。そうしたら全部が魅力的に映って(魅力的ってなんだがチープだけれど、)その人を形づくるものに見えてきた。

普段私は、そういうことをできているという自覚があった。みたままを受け入れる、信じる、寄り添う。みたいな。
だから最初、見たまま受け入れられない自分に多少のショックを覚えたし「自分って…」って口からでてしまった。しかも最初だったから、そこから先の展示が苦しくて苦しくてしょうがない。先に進みたいのに見たまま受け取れもせず、想像もできず、感想といえば「わからない、どうしよう」。そして、このモヤモヤのまま鈴と感情を共有しようとして(あ、これなんて感想言おう、なんて感情を抱こう)って考えて考えて、頭が熱くなった。

で、考えるのをやめたわけではなく、なぜ「この展示はわからないのか」、「普段は受け入れられるのか」考えた。(一生考えるのを辞められないみたいだ…)
結論は出てないけど、少し思ったのが、「自分の想像の範囲を超えているから理解しようとしてしまって受け入れることができない」それから「自分の想像の範囲を超えていないから受け入れられる」なのかなと。
みたまま信じてないじゃないか。その通り。みたまま信じる力が強いんじゃなかったんだと思う。じゃあ何が秀でてたのかなってところも考えてみたら、それは多分「経験値からくる仮定を沢山考えられる力」とか「理想と離れていても受け入れる力」。相手が「私ってこうなんです、」を伝えてくれたらそれをそのまま受け入れられるけど、それすらも示さない、言ってしまえば受け入れてほしくない人に対しては理解すら出来なかったということだ。と思う。
ここまでが受け取る側についての考えだけど、作った側の人間についても考えた。
でもあの人たちはそれを表現してたくさんの人に見てもらうんでしょ?でも解ってほしくない。

なんだ、ちょっと面倒くさい人たちに見えてきたな。

でもそれがまた興味を引くってなんかこの流れ、私知ってる。なんか恋に似てる気がする。


結局、相手のことを想像で図るのは私の苦手とする分野であって、想像しろと言われた時に想像できなくて、かと言ってみたまま受け入れられる情報も与えてもらえない時に、それでもみたまま受け入れられるような寛容さはまだない。これから身につけたいかと聞かれれば、まぁそんなこともないけども。
ちゃんとした文で表現しきれてない、あのモヤモヤした感情を経験できたことで少しだけ「分からないものを受け入れる」ことができたような気がした。受け入れるだけじゃなくて、諦めることも大事なんだと、そういうところも思った。

あとは相手次第、知って欲しいと知って欲しくないの狭間にいるめんどくさい人たち。私はそういう人たちが好きで関わりたいと思ったから美術展が面白かったんだと思う。

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