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4歩歩いた先にコーヒーがある 9


 仕事を(というより部署を)変えて半年以上経つ。前の仕事をしていた頃は仕事に疲れすぎて帰ったらすぐに寝てしまっていたし、美容や生活、お金の管理すらもままならなかった。でも、今では家計簿も自分でつけるし、自分に使う時間を大切にしようという意識も生まれた。

 そのきっかけをくれたのは、やはり巡さんだった。規則正しい生活、程よい運動、入浴後のスキンケア、そして何より食事への気遣い。プロテインも飲んだ方がいいよ、と巡さんに勧められて飲んでいる。マッチョになりたい人だけが飲むものだと思っていたけれど、美味しいし体も徐々に健康になってる気がする。もちろんそれはプロテインだけではなくて、巡さんの生活が荒れてしまっていた私の心身を変えてくれたんだろう。

 仕事から帰ると、巡さんからLINEが入っていた。

「菫、今日は申し訳ないけどかなり遅くなる。食事は冷凍庫に昨日の夕飯を凍らせて置いてあるから大丈夫だよ」

 そういえば新店舗の話し合いがあるって昨日チラッと言っていたな。忙しそうにしているけれど、それでも巡さんは楽しそうだった。そしてそんな楽しそうな巡さんを見るのが好きだ。

 もう一個LINEが来ている。何かと思って見てみると、

「バスボムが棚にあるから、使っていいよ」

 バスボム。お風呂が好きな私だけど、「節約も大切だよ」と言われて残り湯を洗濯に使う我が家ではなかなか使えない。バスボムも使いたいし入浴剤だって毎日入れたいけれど、洗濯に使うとなると足踏みしてしまう。それゆえに最近ほぼ使っていなかった。

 棚を見ると、有名なお店のバスボムが置いてあった。私が買った訳ではない。ジャスミンの花の形をしている。

 巡さんが、選んでくれたんだろうな。

 同棲しているから、私がジャスミンの香水ばかり持っていたりするのは知っているだろう。でも、そういう些細なことも見逃さずにいてくれる巡さんを思うと、本当に心が熱くなった。

 さて、どうしようかな。ご飯を済ませてお風呂に入るか、お風呂に入ってからご飯にするか。

 思うよりも早く、私は浴室を確認して、湯船に湯を溜めた。ボタン一つでお湯を溜めてくれるなんて、本当に便利な時代だな。私はそう思いながら台所へ行って、冷凍庫を開ける。昨日のドライカレーがタッパーに入っている。私はそれを取り出して、レンジに入れた。温めている間に、皿にご飯を盛る。

 昔からお風呂はご飯よりも好きだった。好きだからこそ、最後に取っておきたかった。

 早々に食事を済ませて、私はバスボムを持って浴室へ向かう。湯船にジャスミンのバスボムを入れると、シュワシュワという音と一緒にジャスミンの香りが浴室を支配した。湯船に浸かると、優しい香りと花の香りに包まれた。巡さんが抱きしめてくれているみたいだった。暖かくて、優しい。私はゆっくり湯船に浸かりながら、巡さんへ想いを馳せた。

 生きる希望を失っていた時に、巡さんが私を支えてくれた。お母さんみたいな発言をすることもあるけれど、それでも私を思って言ってくれていると思うと、本当に嬉しいし愛おしい。このバスボムだって、きっと巡さんが私のために買ってくれたんだ。そうじゃなきゃジャスミンの香りのなんて、買わない。

 ジャスミンの香りに包まれて、私は夢見心地だった。この間も巡さんは仕事をしているんだと思うと少し申し訳ないけれど、巡さんの行為に甘えたかった。



 お風呂から出て、私は食器を片付けてスキンケアを済ませる。そしてベッドで寝転びながら巡さんを待っているうちに、いつの間にか寝てしまっていた。

 背中に温かい感触がして私は目が覚めた。時計を見ると、11時半。なんだろうと思っていると、見覚えのある腕が私を包み込んだ。

「ふう…」

 巡さんが息を吐く。そんな風に息を吐くなんて、相当忙しかったんだろうな。こんな時間まで仕事してたんだもん。

「巡さん、おかえり」

「ごめんね、遅くなった。今帰ったんだ。起こしちゃったね」

「ううん、大丈夫。お疲れ様」

 私がそう言うと、巡さんは私の髪に顔を埋めた。

「いい香りがする。バスボム、使ってくれたんだね」

「うん。巡さんが買ってくれたんでしょ、あれ」

「そうだよ。お風呂が好きな君にと思って。何にもない日だけど、こう言うのもいいでしょ?」

 巡さんの暖かさが、むけて来る好意が、本当に素敵で、快適だった。

「ありがとう」

 私がそう巡さんの腕に触れると、

「菫」

 巡さんは、そう言うと体を起こした。どうしたのだろうと思って仰向けになって巡さんを見ようとすると、そのまま唇を重ねられた。コーヒーの香りがした。

 突然で驚いていると、巡さんは微笑み、

「愛しているよ」

 と、ベッドから立ち上がって部屋から出ていった。

 ああいうスマートなところも好きなんだよなぁ…

 そう思いながら、私は自分の目が覚めてきていることに気がついたのだった。

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