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わからない勇気と、わかろうとする元気がほしい

わかることよりは、わからないことの方が多い、フリーライターのaoikaraです。

今日書くのは、なんか前にも書いたことがあるような気がする内容。

世の中には「わからない」ことの方が多いと、私は思っている。だってちょっと一歩踏み出せば、もう違う世界があるから。

すごく身近な話でいうと、SNSやYouTubeには自分の知らない人が山ほどいて、知らない世界がある。それは私にはわからない世界だし、そこに踏み入れるのは「新しく知る」ことで、こんなに身近に「わからない」があふれているんだから、もっと見えない地球の裏側には、もっともっとわからないことがある、と思っている。

だから、ほとんどのことを「知らない」「わからない」と自覚してて、それが楽しくもある。新しいこと知れたなとか、今までわからなかったことがわかったなとか、人生がちょこっと豊かになった気がする。そのちょこっとが、とってもうれしい。


だけど、「わからない」って言う勇気はなかったりする。話を聞いて、あんまりよくわかってないのに、「あーそうか、そういうことかー」みたいに「わかった」反応しちゃうときもある。

理由の一つは知ったかぶり。なんとなく「知らない」「わからない」って言うのが恥ずかしい、と無意識に思っていて、「わかってる」態度を取って恥ずかしさを隠そうとしているのかな。

会話をするからには対等でありたくて、「わからない」「教える」っていう上下関係ができるのが嫌って思っているのかもしれない。別に教える方が上で、教わる方が下なんてないのにね。自分がそう感じているだけで。


知るは一時の恥、知らぬは一生の恥、なんていうのにね。だけど、だから、やっぱりこの先も知らない、わからない。「わかったふり」は上手になって、どんどん「わからない」って言えなくなって、どんどん「わからない」は増えていく。

そのうち、「本当にわかったつもり」になってしまう。わからないけど、自分の理解の範疇で理解して、わかって気になる。わからないことをこれ以上わかろうとしない、思考停止状態。なのに「わかった」気でいるから厄介。これってもう、自分がわからない世界とは交われないってことだ。

「難しいね」「考えさせられるね」と言っておけば、なんか考えた気になる。そこからもう一歩、「何がわからないんだろう」と踏み出す勇気と元気がない。

元気がないってのは、時間がなくて、必要なこと以外を考える余裕がないってこと。元気を日常で使い果たしてる。だから、そういう人がいても責められないなとは思う。私も覚えがあるから、自分を責めたくないっていう自己防衛なのかもしれないけど。


わかったふりが上手になったけど、そうなると「わからない」に遭遇することも増えて、その対処法が「わかったふりをする」になっているのはまずいなと思い始めた、この頃。これじゃ「わからない」があふれてく、のにそれすらもわからなくなっちゃいそう。

だから、「わからない勇気」が欲しい。ついでに「わかろうとする元気」も欲しい。そのためには、やっぱり「わからない」と言わないとね。

「わからない」自分を隠そうとしないで、「知らない」自分を恥じるなら恥じるからこそ、「わかろう」「知ろう」としよう。自戒を込めて。いろんなことがわからない、私だから。

2020年9月12日(土)

No.631

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