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No.558 「理解できない」から「理解しよう」と試みる

世の中には理解できないことが山ほどある、フリーライターのaoikaraです。

「意味わからない」と切り捨てるのではなくて、自分が知らないこととか、自分とは違う価値観があることとか、“違い”があるなと気づくことがたくさんあるなという意味。マイナスなニュアンスはないです。

今日は昨日書いたnoteの続きに当たることを書こうかなと思う。昨日のnoteを読んでなくても大丈夫。今日のだけでも意味が伝わるように書くつもり。

このnoteを簡潔に書くと、理解できない人を下に見るのはやめよう、マウンティングやめようっと話。

で、今回書くのは「理解できない」と思って、「自分にはわからないこともあるんだな」と認めた後で、「理解できない」ことや「理解できない」人とどう向き合うのかについて。

私が考えることとして、こうしてみたらいいんじゃないかな、という一つの案。それが、


理解できない人のことを、理解しようとしてみる。


理解できないときっていうのは、境界線がはっきりとした場所にいて、自分と相手はその線で区切られた別々の場所にいるんだと思うんだよね。

だから、自分から一歩だけでも歩み寄ってみたらどうかな、という考え方。「理解できない人のことを、理解しようとする」ために何をするのか、3つのルールも考えた。


1.相手の情報を集める、専門知識を学ぶ

まずは情報収集。相手がどんな人物なのか、たくさん情報を集めてみて、まずは相手がどんな人なのかを理解しようとすることから始める。

そしたら、意外と共通点が見つかったりする。大っ嫌いな人だけど、あれ好きな食べ物一緒じゃんみたいな、聞いてる音楽同じじゃんみたいな。わかりあえないことが多いけど、共感できることが実はあるのかもってね。


あるいは、自分に知識がないから「理解できない」ってこともある。それは自分が愚かだってことじゃなくて、専門分野の知識がないってこと。大学の専門じゃない分野の講義をいきなり聞いても、ちんぷんかんぷんなのと同じで。

知識を得てから、もう一度じっくり見ると、「この前よりは理解できることもあるぞ」ってなる可能性もある。


情報収集が大事なのかなと思うのは、以上の点から。


2.相手の立場になってみる。

「理解できない」のは、自分の立場で見てるから。自分の考えの枠内にそれはないってのがあると、バグる。頭真っ白になっちゃう。情報収集すると、真っ白ではなくなる。多少なりとも、何か描かれる。

相手がどういう人物なのかが見えてくると、自分の立場とは違う、相手の立場からの見え方もあることに気づく。自分の立場だとわからなかったけど、相手の立場からだとこういう考えがあったのかも、視点があったのかもとか、憶測ではあるけどちょっと“理解”に近づくんじゃないかと思う。


3.相手をマウンティングしない

相手の情報を収集して、相手の立場になってみるときに気をつけてほしいのが、マウンティングしないこと。下に見てしまうと、「こんなやつだから理解できないことしたのね」と結論が脱線して、結果全然歩み寄れてない。

たとえば性別、学歴、職歴、恋人の有無、家族の有無、ルックスなんかで“劣る”ような点を挙げて理由付けしようとするのは、論点をずらしちゃってる。理解しようとしてない。「理解できない」理由を探しているだけ。

そういった相手のいろんな事柄を、相手を下げる要因ではなく、相手のパーソナルな要素として受け止めているならまだしも、「性別がこうだからダメ」とか「学歴がこうだからアウト」とかは偏見になっちゃう。

自分が得た情報とか、見方というのが、上から目線になっていかなとチェックしてみて、相手を下げるなと感じたらその項目は外した方がいい。そしたら客観的な目線に近づけるんじゃないかなと思う。


この3つのルールをもとに「理解できない人を理解してみようとした」結果、あることがわかります。それは…


「私はこの人とは理解し合えない」


ということ…えっ?「理解できない」と思った最初と変わらないじゃん。じゃあ、この作業って無駄じゃない?って思いそうなんだけど、違うんだよ。

そもそも、人間の感情の100%理解しようとしても無理。ものすごく頑張ったとしても、99.9%。残り0.1%、違うかもしれない。その0.1%がその人の“核”かもしれない。ってことは、全然理解できてないってことだ。

「この人の気持ち全部わかる」わけない。感情はものすごく繊細。自分のことだって自分じゃわからない。まして他人のことを全て理解するなんて無理。

じゃあ、相手を理解しようとするのは無駄なのかというと、そうじゃない。人間、誰の感情だって100%はわからないからこそ、わかりあおうと歩み寄ったり寄り添ったりする。たとえ理解できない人だとしても、そうするのが人を尊重するってことなんじゃないか、と私は思う。


理解しようとしてみる前に「理解できない」ってなると、「こんな人は理解する必要もない」ってなっちゃうから。それって安易に人を区別するし、肩書きや要素だけで偏見を持つようにもなるし、要は簡単に差別できるようになっちゃう。気づかずに、傷つけることになる。

理解しようとしてみて、自分とは違うけどこういう考えがあったのかもしれないな。こういう感情が動いていたのかもしれないな。と少し歩み寄ることはできる。理解はできないけど、寄り添うことはできる。

でも、やっぱり理解できない。お互いに理解し合えないだろうな、っていうのは全然ある。どっちが悪いってことじゃない。お互いただ違う人間なだけ。

それは相手を下げることでもなく、逆に自分を下げることでもなく、尊重しあえて「理解するのは難しいな」と思っていればいいだけ。ただ、それだけの話。


私は、これを実際にやったことある。私が全くもって理解できなくて、どうしてこんなことをしたんだろうと思った人のことを、理解しようとしてみた。そしたら、結果的に「この人とは決定的に理解し合えないだろうな」となった。

でも、その人が何か発言するたびに、「え?どういうこと?」と言う人が居る中で、一度知ろうとした私は「こういうことが言いたいんだろうな」と自分では全く思わないけど、その人のことを理解するよう近づけてはいるのよ。不思議なことに。でも、理解はできない。でも、それは悪いことじゃない。

「理解できない」って一歩も近づきたがらなかったり、遠くに離れたりするのも、気持ちとして拒絶しちゃうのもわかる。相手を傷つけないで、距離を取るっていうのも、それぞれの場所で生きていこうねってのは、良い。でも行き過ぎると、なんで私が動かなきゃいけないの、おまえが動けよって“排除”になっちゃう。

だから、自分が動くなら、ちょっと自分から相手に歩み寄ってみるのもいい。そしたら、自分の世界が広がるかもしれない。相手には逃げられるかもしれないけど。だから、心のソーシャルディスタンスは取ってね。

私だってそんな人間できてないけどね。やってみようとは思ってる。

2020年6月29日(月)

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