見出し画像

「私がされたいことをする」のではなく「私がしたいことをする」

自分の行動原理について見直した、フリーライターのaoikaraです。

「難しく考えすぎだよ」と言われた。「考えすぎ」もたまに言われる。自分自身で「考えすぎているなぁ」と思うときもある。

なぜ「考えすぎ」と言われたのか。

自分が「こうしてほしい」と思っていて、でもそれを伝えたわけではないから相手はわからないし、過去の私の言動から、むしろ何もしない方がいいのではないかと考えていた、と後から明かされた。

私が「こうしてほしい」と思うのは、自然な感情であるし、私の状態からいっても、求めておかしなことではない。本当は「気づかなくてごめんね」と寄り添ってほしかったけど、でも相手がそうしなかったのには私にも理由があるし、私が求めてはいけない気がする。でもつらい。

というようなことを伝えて、「難しく考えすぎだよ」と言われた。


私は、私の立場からの思いを伝えるけど、その前に相手の立場からの思いを想像する。想像すると、相手がどんなに理不尽な、私を傷つける行動を取っていたとしても、理由があったのだろうと理解してしまう。理解すると、「傷ついた」と私から言えなくなってしまう。

だから逆の立場になったときに、「傷ついた」という言葉だけでなくても、どうして私の立場になって想像をしてみてくれないんだろう、私はこんなに想像しているのにと思ってしまった。

“想像”だけでなく、いろんなことに、「どうして私は相手の立場になっているのに、相手は私の立場になってくれないんだろう」みたいな気持ちがもやもやとして渦巻いていた。


でも、それって、「私がされたいことをしている」んだよね。私は、私のことを想像して、接してほしい。それだけじゃない。自分自身の行動原理が、「私がされたいことをする」になっている。

たとえば、自分に負けてしまっても、うまくできなくても、受け入れる。人のダメな部分も許す。それはきっと、私自身がダメでも受け入れてほしいし、許してほしいのだと思う。求めているから、先に渡している。これって完全に“見返り”なんだよね。

本当は見返りを求めてはいけないとも思っている。愛してほしいから愛するんじゃない。感謝してほしいから感謝するんじゃない。「私が愛している」から愛するし、「私が感謝したい」から感謝するし、「私がしたいことをする」方が自分にとっていい。

「自分がしたい」からする。この行為は自分で完結する。誰かを求めてしまうと、自分が返してもらえなくて、自分が行動すればするほど、心をすり減らす。心をすり減らしている理由は相手じゃない、私だ。


もちろん自分以外の誰かに求めたい気持ちだってある。愛されたいとか、感謝されたいとか、認められたいとか、誰かを求める感情だってある。そこは否定しなくてもいい。求めたっていい。

でも、自分の行動原理にはしない。あくまで、自分がしたいからする。そうすれば、するだけで満足なはずだから。

行動原理を変えるのはなかなか難しいけど、少しずつ「私は何をしたいの?私はどうしたいの?」と、自分を主語にして気づいていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?