どこかへ行きたいのと、帰りたいのは、似ている
ふらっとどこかへ行きたいなぁ、と思うフリーライターのaoikaraです。
日常から離れて、何も考えることなく、自分一人の時間を過ごしたい。誰も私の知らないところで、ただ美しいものを見たり、おいしいものを食べたりして、ただただ時間を過ごしたい。私が「楽しい」と思うことをしたい。
…なんて想像をしてみる。日常だって好きだ。今の暮らしも好きだ。でも、たまにある非日常が、日常を豊かにしてくれるとも思うから。
でも、出不精な私は、「こんな時代だからね」という鉄壁の言い訳も手にして、何もしない気がする。いや、何かしようか。
誰かと?誰かがいてほしいと思うけど、期待したらそうでなかったとき悲しいだけで、一日の中で期待を膨らませているから、もっと長期的な期待なんかもっとできない。
だから一人でと、想像する。
家の中にいても、「帰りたい」と思うときがある。学生の頃は口癖のように言っていた、「帰りたい」と。普段はあまり話さない友達と、「帰りたい」気持ちだけは一緒で、合い言葉のように言い合って笑っていた。
本当に帰りたいというよりは、目の前の出来事全てがめんどくさくて、全部投げ出しちゃおうかみたいな、そんな言葉。言えば、帰らずに、ちゃんと私たちは向き合っていた。向き合うために吐き出す、魔法の言葉のように。
「どこかへ行きたい」と思うのも、目の前の出来事全てがめんどくさくて、もう全部投げ出しちゃおうか、みたいなどうしようもなく訪れる心と体の疲労の声なのかもしれない。
でも、思って、口にすることで、日常を闘うエネルギーになる。
“どこか”がなくなったら、きっと明確な場所に導かれてしまうんだろうな。そんな絶望感だって知ってるけど、まだ“どこか”はあるから、日常を過ごす。
とりあえず春は、電車に乗って、桜のきれいなところを歩いて、おいしいパフェを食べて、おいしいお茶も飲んで、ゆっくりと日が暮れて、心地よいほどの眠りに就き、適当にふらふらと彷徨いながら、体を休める時間を確保できるほどの時間帯には帰路につき、また寝て、日常に戻りたい。
そんな想像をする、春先の夕方。
2021年4月16日(金)
No.845
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