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許容量の分配

「好き」の量は決まっているのかもと感じる、フリーライターのaoikaraです。

「好き」に限った話じゃないんだけど、感情や気持ちの許容量ってのは決まってるんじゃないかなと感じたこの頃。

たとえばあることが好きなときは、ほかのことが目に入らなくて、でも別に好きなことができれば、先に好きだったことへの「好き」が減っていく。「好き」の量は同じだけあるんだけど、それが別のコップに注がれたような、そんなイメージ。

何かしらの気持ちが叶わないときは、どうしてもその気持ちが強くなってしまうけど、いざ叶うと誰かから与えられてもいらないなってくらいになってることもある。

それで何かを大事にする一方で、何かは大事にしなくなるような、気もしてしまう。不器用ですから、であれば往年の深みが出るけれど、私が使えば自分に都合のいい言葉だ。

きっと「好き」の量をどんどん増やせる人はいる。楽しい気持ちを膨らませられる人もいる。だとすると、好きになったりそうじゃなくなったり、許容量の中で容量が変わってしまう私が薄情なだけかな。

“慣れ”とは違う。一度気持ちが離れていても、また同じくらいかそれ以上に気持ちが盛り上がるときもあるから。ただ関心があったりなかったり、変わってしまうだけ。

だとしても、大事なものを大事にできないと、本当に大事にしたいと思ったときにはもう手元になくなるかもしれないから、きちんと大事にしなきゃね。

感情はどうしても意図せず突っ走ってしまうし、頭で考えるよりも感覚を大事にしたいとは思うけど、大事にしようという気持ちだけは忘れずに。

2020年11月21日(土)

No.700

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